見出し画像

スーダンとエリトリア

(80番)  2012年   1月

スーダンとエリトリアへ行ってきました。
今回の参加者は男性5名、女性8名の計13名でした。
この旅行会社は初めて使うので、一抹の不安がありました。
何故なら、周囲の人達から評判を聞いていたから。
勘は当たるようでトラブル満載の散々な旅行となり、事実として記載をしていきます。

1日目 1月26日
✈ 21:20 発 成田: カタール航空(777-200)
  23:10 着 関空

後記: 当時はカタール航空が関空乗り換えしかなくて、関東組の人達にとっては不便この上ないルートだった。現在は成田発の便がある。

2日目 1月27日
✈ 00:20 発 関空: 同上
  05:50 着 ドーハ

✈ 06:40 発 ドーハ: カタール航空(A321)
  10:40 着 ハルツーム

強い向かい風でドーハ到着が遅れ、タラップを降りてバスに乗ったら、ハルツーム行きの飛行機まで直接、連れて行ってくれた。丁度、朝日が昇る時で、地平線の上に乗っかってとても大きくて綺麗な太陽だった。6時25分頃。

今回のルート

{スーダン共和国の説明}
首都: ハルツーム
面積: 188万㎢(日本の約5倍)
2011年に南スーダンが独立する前まではアフリカで一番広い面積を誇っていた。
主要産業: 鉱業、農業、畜産業、漁業他
人口: 約4千万人
公用語: アラビア語
宗教: イスラム教、キリスト教、アミニズム
独立: 1956年(イギリスとエジプトの共同統治から)
1899年からイギリスとエジプトによる共同統治下に置かれ、南北を分断する植民地政策が取られてきた。しかし、独立と同時に北のイスラム教徒と南のキリスト教徒の間で内紛が起き、約半世紀にわたり「スーダン内戦」が続いた。それが収まり始めたころに今度は西部でイスラム教徒の中でもアラブ系と非アラブ系の民族が衝突を始め、それが落ち着いたのが2010年のこと。南スーダンが独立をしたのが2011年の1月。

ハルツーム到着する際、機内で「入国カード」を添乗員さんが渡してくれた。
旅行会社の方で、記入済みの物だが、よく見ると「出国カード」となっており、「これ、出国になっていますけど」と言うと「いいんですよ」との返事だった。
イミグレで書き直しを言い渡されて初めてその添乗員さんは間違っていることに気が付いたようだ。だから、言ったのに・・・😒
どういう訳か、入国カードの準備はしていなかったようで、その場で書き直すことになった。

書き直して再度イミグレで並んで、自分の番が来た。係官の人が申し訳なさそうに「このビザは期限切れです」と言った。一瞬、我が耳を疑った!
「ハア?😯」とよく見るとその通りだった。
何と何と!旅行会社で取得してもらったビザが日本を発つ前に期限切れになっていたのだ!!!😮😮開いた口が塞がらなかった・・・
まさか、旅行会社が間違えるなんて思いもよらなかった。
ビザ取得のために旅行会社にパスポートを送っていたので成田を出発する際、そのパスポートを返してもらった。その時はちゃんとビザが貼ってあるのを確認したが内容まではチェックしなかったのだ。

一つの国に入国するのにパスポートのビザのページを2ページも費やしてしまい、何と無駄なことをしたものよ・・・ブツブツ
こちとら、10年用のパスポートを一度、増補しても2年弱しかもたないのだから。
日本は出入国のスタンプを省略してパスポートの余白を残すことも可能だが、「国盗り」をしている者にとっては、このスタンプは重要なのだ。
何故なら、これまで行った国の数を聞かれて答えると大抵の人は驚く。
しかも、ほとんどの人(添乗員さんを含む)は信用しない。因みに私のように「国盗り」をしている人は結構いらっしゃるんだけど・・・
添乗員さんの中で「本当にそれだけ行ったの?」とあからさまに聞いてきた人は過去に二人いる。しかし、こんな事で噓をつく人なんているのだろうか。🤔そういう人と2回目にご一緒したくはないな。
逆に言うとそれだけ大層なことをしているとも言えるわけで・・・
何でもよい方に解釈をしたほうが人生楽しいぞ!
言いたいことは日本をいつ出て、いつ戻って来たかのスタンプと旅行の日程表さえあれば、証拠となるのだ。

こういった具合で、入国に際してすったもんだで混乱をして随分と時間を要した。何だか、幸先の悪いスタートだし、嫌な予感が・・・

🚌 取りあえずホテルへ行き、チェックイン。

その後昼食

ハルツームの市内観光へ
マフディーのお墓
マフディーとは「救世主)」のこと。19世紀にイギリスとエジプトに対して反乱を起こし、一時的に東部スーダンを独立させたムハンマド・アフマドのお墓。すぐ傍にはイギリスに攻撃された際の防御壁も残っている。

国立博物館
1階には紀元前2600年頃に興ったクシュ文明とヌビア時代の遺産が、2階にはキリスト教時代の物が展示されている。
敷地内にナイル川を再現して、アスワン・ハイ ダムを建設する際、川底に沈んでしまいそうな物をできる限り持ってきて神殿や都市遺跡を表現していた。
トトメス、ハトシェプストなど、エジプトの王族やアモン、ホルスなどの神々などを見ることができた。日用品、装飾品やお墓の埋葬品などの展示もあった。

国立博物館
F社のサイトより

🛏 ハルツーム泊

3日目 1月28日
🚌 引き続き、ハルツームの市内観光へ

カリフの家
カリフとは預言者ムハンマド亡き後のイスラム国家における指導者の称号。
中に入ると軍事歴史博物館になっていた。
前日に見学をした「マフディーのお墓」に関する展示が多かった。
イギリスの将軍ゴードンを捕らえて生かすことで和解を図っていたマフディーの意図を理解せずに殺してしまったヌビア人兵士がいた。その後は激しさを極めた戦いとなり、マフディーの死で再びイギリスとエジプトに占領されてしまった。

ラクダ市
市場は遥か彼方の地平線まで見渡せる砂漠の中にある。いったいラクダは何頭いるのだろうか。圧倒される数だ。彼らは東や西から集まってくるそうだ。
逃げないように前脚だけが紐で縛られている。でも少しだけ動けるようだ。
もちろん、ここにいるのはひとこぶラクダ。

ラクダ市
D社のサイトより

昼食は屋台風のレストランにてケバブ

オムドゥルマンのスーク
ある女性が「ヘナ」を購入したいというので、ついて行くとなかなか質の良い物が手に入ったようだ。これで髪の毛を染めるのだそうだ。
この時点で、グループの中のある男性がちょっとおかしい事に気が付いた。

ホテルで休憩後、レストランで夕食

その後、エリトリアへ行くために空港へ
空港に着くと今度は「Registration」を書く必要があると言われ、更に200ポンドを要求された。もちろん、事前に何も知らされていないので支払わなかったが、旅行会社の方で払ったのかな。それにしても出国するのに何の登録をするだろうか・・・

更に入国時に申請をしておいた現金が増えていないか自分自身で係官の前で数えなければならなかった。これは不法就労をしていないかを確認するためだが、あまり意味ないと思うけどなあ。でも「くれ」と言われなかっただけでもまし。

後記: 2014年にアンゴラへ行った時は、一人、一人個室に連れて行かれてお金の勘定は係官が行い、最後におねだりされたが、意味が分からないふりをしてとぼけたら怒っていた。こういう点が物質面はともかくも精神面が後進国だなと言わざるを得ない。チクリ!

更に飛行機の出発が2時間も遅れた。

🛏 アスマラ泊

4日目 1月29日
✈ 00:20 発 ハルツーム: エリトリア航空
  01:35 着 アスマラ(エリトリアの首都)

エリトリア国の説明
首都: アスマラ
面積: 約12万㎢(北海道と九州を合わせた広さ)
主要産業: 鉱業、農業
人口: 約500万人
公用語: ティグリニャ語、アラビア語
宗教: キリスト教、イスラム教
独立: 1993年エチオピアより

ここは標高2,355mにあり、寒い!気温9度。
昨日までは朝20度で日中は28度位だったので、相当寒く感じた。
ここでも入国に際して、追加で空港税20ドルの支払いと税関申告書などを書かされて、この旅行会社は事前に何も調べてないのだろうかと疑心暗鬼になった。
ま、突然規則が変更になることは往々にしてあるが。
又なんだかんだでホテル到着が夜中の3時となり、ぐったりだった。😫

朝、約2時間の睡眠時間でエリトリア第二の都市マッサワに向かう。

🚌 高原にあるアスマラから北方面にあるマッサワに向かうには山を超えて下っていく必要がある。
途中には段々畑、レンガ積みのトンネルと橋梁や鉄道が走っていたりする景色が広がっていた。

蒸気機関車と橋梁
D社のサイトより

列車はアスマラからマッサワまで走り、1930年生まれの蒸気機関車で風情がある。どこからかマントヒヒが現れてビックリした。

マントヒヒ


到着した場所は「紅海」で前日まで砂漠の乾いた風景を見ていたので、一服の清涼剤のように感じる。「紅海の真珠」と呼ばれているとか。

紅海
D社のサイトより

ホテルにて昼食

午後はマッサワの市内観光へ
ここは交易、軍事上有利な立地から、古来より様々な勢力が入り乱れ、16世紀になるとオスマントルコの支配下に置かれ、18世紀からのエジプト、19世紀にはイタリアの植民地となった。

旧イタリア銀行
1920年代にイタリア人によって建てられ、数十年間は最大の銀行として機能していた。エチオピア占領下においては「ハイレ・セラシエ銀行」と改名された。
彼はエチオピア帝国最後の皇帝(在位1930年から1974年)
コリント式柱頭、バルコニーなど細部に渡って贅が尽くされたベージュ一色の建物だが、下の方には弾痕がたくさん残っていて、戦災の傷跡がありありと残っている。

旧イタリア銀行
D社のサイトより

シェイク・シャーフィー・モスク
7世紀の建築で北アフリカ最古のモスクだが、1920年の地震で一度倒壊してしまい、その後、イタリア人の手によって再建された。

ホテル・トリノ
1930年代にイタリア人建築家によって建てられたホテル。丁度、三叉路の角にあるので形が面白い。

ホテル・トリノ
D社のサイトより

旧王宮
16世紀にオスマン帝国によって建築された。イタリア植民地時代は市庁舎として使用され、エチオピアの支配下ではハイレ・セラシエ皇帝とその家族の住まいとして使用された。
王妃が使ったエレベーターや美しく装飾された階段など。外観も中も戦争の悲惨さを後世に残すため崩れたまま保存されている。

マリア大聖堂
1953年完成でエチオピア皇帝ハイレ・セラシエが毎年参拝に来ていたとか。
ステンドグラスが綺麗。丁度、コプト教の巡礼者達によるミサが行われていた。

少数民族ラシャイダ族の村
彼らは150年ほど前にサウジアラビアから紅海を渡って来た遊牧民。現在は8万人が定住し、その内4万人が遊牧をしている。密輸で儲けており大金持ちだそうだ。長老がランドクルーザーを自慢げに見せてくれた。
入口でガイドさんと長老が揉めていた。添乗員さんによると事前に話をつけているはずなのに、「見学するなら、金を出せ」と言われたとか。
添乗員さんは後から「お金を払わされた」と文句を言っていたが、普通、旅行会社はお土産とか何か準備をしているはずだけど、手ぶらで行った方がおかしいと思う。

🛏 マッサワ泊

5日目 1月30日
四駆に乗ってアクスム王国の表玄関であった古代の港へ

アドゥリスの港
アクスム王国は紀元前より9世紀頃までエチオピアで繁栄したキリスト教国。元々はイエメンのセム族が紅海を渡り、マッサワの南に国を作った。
海から遠くなってしまったために放棄されたと考えられている。
丁度、イタリアのチームが発掘中だった。

マッサワに戻り、昼食

🚌 その後、アスマラへ戻る

午後はアスマラの市内観光
アスマラ大聖堂
1922年にイタリア人建築家によって建てられた。外壁は赤レンガでネオロマネスク様式の建築。カトリックで内部には色鮮やかなステンドグラスが飾られていてとても綺麗。

アスマラ大聖堂
D社のサイトより

グランド・モスク
1938年に建てられたエリトリア最大のモスクでムーア様式(イスラム風)とローマン様式(イタリア風)が融合した珍しい建物。

グランド・モスク
エリトリア観光局のサイトより

マリア大聖堂
1913年完成で正面の壁画が有名。内部にはキリストの人生と新旧聖書の場面からとられた十二使徒の壁画がある。
昨日から続くコプト教の祭典の為に多くの信者達が集まっていた。

マリア大聖堂
エリトリア観光局のサイトより

総督宮殿
1899年に初代エリトリア総督、フェルナンド・マルティーニによって建てられた。
メインホールにはルネッサンス様式の大理石でできた大階段が備え付けられている。

総督宮殿
エリトリア観光局のサイトより

🛏 アスマラ泊

6日目 1月31日
🚌 引き続き、アスマラの市内観光

朝は自由時間があったので、ホテルの近くを散歩してみた。
床屋さんを覗いてみると韓流ドラマの俳優が髪型モデルとして貼ってあって、ビックリ!
自分もドラマで見たことがある人だった。ここまで韓流が人気があるなんて韓国恐るべし!

余談だが、中国の奥地の地元の人が行くレストランで日本の女性アイドルのポスターを見た時も驚いた事がある。え?こんな所で?
もっと驚いたのは、同じく中国の奥地の雑貨屋さんで「大空真弓」のラベルの石鹸が売られていたこと。

戦車の墓場
廃棄された大量の戦車、軍用車両や対空砲などが積み重なっている場所。
これらはエリトリア軍が没収したり、エチオピア軍が撤退する際に残していった物で、ほとんどが旧ソ連製やアメリカ製で30年に渡る戦争の悲惨さを物語っている。

戦車の墓場
戦車の墓場
エリトリア観光局のサイトより

国立博物館
先史時代からイタリア統治時代そして現代アートまで幅広い展示がある。
我々の祖先である猿人の化石の展示もあった。

リサイクル・マーケット
廃材を利用したあらゆる日用品、金属製品、自転車部品、馬車用品などが製品として生まれ変わり、販売もしている。他の国でもこういう場所はあるが、本当に彼らは器用だ。

リサイクル・マーケット
エリトリア観光局のサイトより

エーッ!!!ここで何と添乗員さんがボックスランチを頼むことを忘れてしまい、昼食はなし。😠
前代未聞のハプニングだ。昼食がついていると記載があるのに、出ないなんて・・・
仕方がないので、皆さん、自分が持っているお菓子などを食べてらした。
ご親切に私にも恵んでくださった。

四駆のドライバーさん達とお別れをする際、添乗員さんはこう言った。
「女性から渡した方が気分がいいでしょうから、これ渡してください」と。
要はチップだった。金額を見てドライバーさん達っていい商売だなと思ったが、それは置いておいて、これは○○ハラだと思うが。
どうして添乗員さんから堂々と渡さないのかな?🤔

その後、ハルツームへ戻る。

✈ 15:00 発 アスマラ: エリトリア航空
  16:15 着 ハルツーム
暑い!気温37度。

又しても入国に際して、すったもんだがあってかなりの時間を要した。内容は省略。😠

🛏 ハルツーム泊

7日目 2月1日
四駆6台に分乗し、クシュ王国のナカ遺跡へ

砂漠方面へ行くのにトランシーバーを持たせられなかったので、聞いてみると「ない」との返事だった。ここで又、一抹の不安が・・・
これまで、砂漠方面へ行く時は必ずトランシーバーを持たされた。
遭難すると命の危険にさらされることになるから。
一度など、サハラ砂漠でイタリアのグループが困っていて、添乗員さんがトランシーバーで連絡をして助けてあげたことがある。

出発前にはランチ用の食材を仕入れた。ランチのみ砂漠の中で食べることになっており、同行のコックさんが作ってくれる。

途中で我々の四駆が最初にスタックした。そこを後ろから来た添乗員さんは車の窓から指をさして「アハハハ~」と笑いながら、通り過ぎて行った。
他の車もドンドン追い越していった。
「え?助けないの?」と怒りを通り越して呆れてしまった。😮
ドライバーさんと我々で砂をかき出して、何とか危機を脱した。
その間30分ほどだったかと。
ナカの遺跡に到着すると最後の1台がなかなか着かなくて、1時間以上も待った。
到着すると、中から出てきた人達はカンカンに怒っており、「二度とこの会社は使わない!」と言っていた。だよね・・・

ナカ遺跡
クシュ王国とは現在の南エジプトと北スーダンに当たる北アフリカのヌビア地方を中心に反映した文明(B.C.9世紀からA.D.4世紀)で4世紀にエチオピアのアクスム王国に滅ぼされた。
ナカ遺跡と午後に行くムサワラッタ遺跡は共に古代クシュ・メロエ王国時代の遺跡でナカは紀元前250年代ナカマタニ王により建設された。
キオスク(神殿に付随するローマ風の建物)、アペデマーク神殿、アモン神殿の3つの主要な建物が残されている。壁面に彫られたヌビアの土着神でライオンの頭を持つアペデマーク神やエジプトの神々、クシュの王族のレリーフ(ナクタアマニ王、アマニシャヒド女王等)など。

ナカ遺跡
F社のサイトより

昼食は木陰でピクニックランチ

ムサワラッタ遺跡
ムサワラットはアビダマニ王が造った神殿で、ワニとジオス神のレリーフが描かれている。また珍しい象のレリーフが描かれ、象も王の象徴の動物と考えられていたことと、ムサワラッタで象に乗って狩りを行っていたため、珍重した表れであると考えられている。
保存状態が比較的よくて列柱などもあり、クシュ王国最大であった宮殿跡も残っている。

ムサワラッタ遺跡
F社のサイトより

その後、1000年以上に渡って繁栄したクシュ王国の首都メロエへ向かう。
 
食事の際、先に出たある男性の近くには誰も座ろうとはしなくなった。申し訳ないけど、長老の男性にお任せすることに・・・
 
🛏 メロエ泊(超がつくボロボロの民宿)
 
8日目 2月2日
四駆に分乗して一番楽しみにしていたメロエの遺跡(2011年世界遺産登録)の観光へ

メロエの遺跡
F社のサイトより

クシュ王国は、元々エジプト王国の都市ナパタから生まれた国。メロエに遷都した後、一時エジプトまで支配していたこともあり、バユーダ砂漠の中にあるメロエの砂漠にはエジプトとそっくりではあるが、小さめでよりシャープな形のピラミッドが点在している。
エジプトの第25期(B.C.747年からB.C.656年)がクシュ人の王様によって統治がされた。その王様がエジプトのピラミッドを真似して建設し、それがお墓であることが分かっている。
実はナパタ以前より栄えていたことが発掘調査で判明しており、ガイドさんが土を掘り起こして、下の床を見せてくれた。綺麗な状態で残っていた。

ここで、一人でアフリカを旅行しているという日本人の若者と会った。
ジャラビーヤ?と呼ばれるこちらの人の服を着用していた。久しぶりに日本人に会ったようで、会話も弾んだようだ。

後記:この青年は今頃どうしているかな?
 
夕方まで休憩して今度はB.C.350年くらいに建設された南北のピラミッド群の見学。

メロエの遺跡
F社のサイトより

🛏 メロエ連泊
 
9日目 2月3日
早朝、朝日に照らされるメロエの遺跡がとんでもなく綺麗だった。

メロエの遺跡

その後、四駆に分乗してバユーダ砂漠を縦断し、カリマへ向かう。
砂漠の中を中国企業が完成させた立派な幹線道路をひたすら移動。
 
ヌリ遺跡(後記:2013年に世界遺産に登録)
70万平方メートルの砂漠に20基以上の古代ピラミッドが建っており、遠くからでも移動中の車の中から見えてきた。いや~、荘厳な景色だ。
到着して近くで見ると崩れ加減さが古さを表現しており、「よく今日まで形を残してくれたね」と感謝をしたくなるほどだ。
このピラミッド群の中で最大で最古のピラミッドに埋葬されているのが、クシュ王国で最も有名なファラオであるタハルカだ。紀元前7世紀頃のことで旧約聖書にもその名前を残している。

ヌリ遺跡
C社のサイトより

ナイル河畔の街カリマ到着
 
🛏 カリマ泊
 
10日目 2月4日
四駆に分乗してアモン信仰の中心で「聖なる山」と考えられていたジェベル・バルカルとクッル遺跡の観光へ
 
クッル遺跡(後記:2013年に世界遺産に登録)
クシュ王国初期タヌトアモンの王墓や王妃の墓がある。玄室があり、中は素晴らしい古代エジプトの神々の壁画とヒエログリフが残っている。
気を付けないと蜘蛛の巣が張っており、ガイドさんに「もっと手入れをした方がいいんじゃないの」と何気なく聞いてみた。すると「そうなんだけど、政府が予算がないと言って何もしてくれないんだ」と悲しそうな顔をして言った。聞かない方がよかったかな・・・

クッル遺跡
F社のサイトより

化石の森
古代に起きた火山の爆発によって木々が砂漠に埋もれ100万年以上経過し、水晶やガラス質となり珪岩化した木の化石がゴロゴロ散らばっている。
化石好きなので、喉から手が出るほどほしかったが、そこはぐっと我慢。
 
ジェベル・バルカルの遺跡(後記:2013年に世界遺産に登録)
古代クシュ王国初期(ナパタ期)の聖なる山。麓にはバルカル・ピラミッドやアモン神殿などがあり、現在も発掘が続けられている。
太陽神アメンの誕生の地と信じられ、B.C.13世紀ラムセス2世の時代に神殿が建設された。その後、B.C.7世紀にヌビアのタルハカ王がアモン神殿を建てた。
高さ98mの聖なる山に登ると、頂上からはコブラ頭の岩、アモンの聖域、ピラミッド、広い砂漠そしてナイル河畔に広がる緑地が見えた。
天気にも恵まれて、夕日に染まるピラミッド群がとても美しかった。

ジェベル・バルカル
F社のサイトより

🛏 カリマ泊
 
11日目 2月5日
四駆に分乗してオールド・ドンゴラの観光へ
 
オールド・ドンゴラ
クシュ王国滅亡後の6~8世紀にかけて栄えたヌビアのキリスト教国であるマクリア王国の遺跡。ここも遠くからでも車内から見えてきて、茶色のカマクラのような墓地と聖者廟が点在している。14世紀にモスクに建て直されているためにこのような形となって残っている。要塞のような教会も残っている。
 
ハルツームへ戻る。
 
ある男性の相手をしながら、食事をしてもらった長老が「みんな、そろそろ勘弁してくれよ」と訴えてきた。済みませんでした・・・
そのある男性は超がつくほどの我がままで、攻撃的なしゃべり方をして自分から「あの旅行会社とこの旅行会社では自分はブラックリストに載っている」と自慢げにしゃべる人だった。こういう人が一人でもいると旅行も台無しになってしまう。
 
🛏 ハルツーム泊
 
12日目 2月6日
午前中は自由行動
 
昼食後、ナイル川ミニ・クルーズ
ウガンダのヴィクトリア湖から流れてくる白ナイル川とエチオピアのタナ湖から流れてくる青ナイル川の合流地点。
白く濁った色と青く濁った色の違いがはっきりとわかるはずだが、生憎よく見えなかった。
ここで合流したナイル川はエジプトまで流れて世界最長(6,695km)の川となる。

本来であればこの位よく見えるはず
F社のサイトより
ナイル川のミニ・クルーズ
C社のサイトより

✈ 20:55 発 ハルツーム: カタール航空
 
13日目 2月7日
  00:15 着 ドーハ
 
✈ 01:30 発 ドーハ: 同上
  16:30 着 関空
 
✈ 17:50 発 関空: 同上
  19:30 着 成田
 
(結び)
「旅行は添乗員さん次第」といわれますが、今回はどうしようもない人で旅の楽しさも半減してしまいました。
何かあれば顔にすぐ怒りが表れてこの人添乗員としての資格はないんじゃないのかと皆でささやき合った。
しかし、両国とも素晴らしい遺跡が残っているので、興味のある方は是非行かれてください。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?