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中部アフリカ 6か国

(22番)   2014年  2月

中部アフリカ 6か国(① カメルーン、② 赤道ギニア、③ サントメ・プリンシペ、④ ガボン、⑤ コンゴ共和国、⑥ コンゴ民主共和国)へ行ってきました。
参加者は全員で16名、そのうち半分は知っている人でした。

赤道ギニアは観光客受け入れてくれない国として有名で特に個人で行った場合には空港で必ず追い返されます。1回で追い返された人は数知れず。「鍋、釜、コンロ」持参で3回も挑戦したが、ダメだった人の話などが情報として入ってきておりました。また、団体のツアーでも空港で追い返された事例もあり、運に任せるしかないのです。理由は後で述べます。

出発前には、添乗員さんから「家にあるもので使っていないものがあったら、何でもいいので持ってきてください」と言われました。そうです。賄賂です。私は携帯ラジオなどを持参しました。

カメルーンは2002年に訪問済みなので2回目です。空港で出迎えてくれたガイドさんの最初の言葉が印象的でした。「こんな秘境にやってくるのは日本人とドイツ人ぐらいしかいない」と自虐気味に。

いざ出発してしばらくすると道路の脇には見たことのない木が植えてあって、誰かが何の木か質問すると。「キャッサバ」という木で根っこはお芋だとか。
「いや~、この国は「さつたば」が地中に埋もれているのか?」と思ってしまいました。何しろ、初めて聞く言葉なのでどういった形をしているとか想像がつかないのです。
後で、他の人達にも聞いてみると「自分も全く同じことを想像していた」と皆で大笑いになりました。今では大好きな食べ物の一つです。

そして、ガイドさんは地方の出身だったので、自分の村の近くを通る際、娘さんと待ち合わせをしていました。まだ小学生だったその可愛らしい娘さんは我々を見ると泣き出してしまいました。理由を聞いてみるとこんな白い肌色をした人間に会ったのは初めてで、怖かったのだそうです。なんて純粋なのだろう!

2月15日
17:50 成田 発 ANA

2月16日
01:10 発 バンコク エチオピア航空
09:00 発 アジスアベバ(近頃の空港の様子はここは中国かと勘違い   しそうなほど、中国人でごった返していて、レストランも赤ちょうちんがぶら下がった中国系が多い)

12:45 発 マラボ(赤道ギニアの首都で、乗っていた中国人労働者達はほとんどここで降りた。彼らは飲み物のサービスの時もカートから勝手に取って飲んでいた。後ろの席の中国人が座った途端に貧乏ゆすりを始めたので、振り返ってジロリと睨んで無言の圧力をかけるとすぐにやめた)

13:40 着 ドゥアラ(① カメルーンのリトラル州の首都)

カメルーンとはポルトガル語で「エビ」という意味だそうです。
1960年にフランスから独立しました。
国家体制としては共和制、大統領制をとる立憲国家です。
主な輸出用の農産物は綿花、コーヒー豆とカカオです。
人口は約2500万人で250の民族がいます。

ドゥアラはカメルーンの商業の中心地で、ここから350km先にある西部州のクタバへ6時間かけて向かいます。途中でエンジンが故障して21時半ごろホテルへ到着。

2月17日
北西部には小規模の部族が暮らしており、それぞれ小さな王国を形成する首長制社会を維持しています。

午前は仮面造りで有名なバムン族が暮らすフンバンへ。
現在、バムン族は第19代ムボムボンジャカが1992年から就任しています。「頼母子講」という経済互助制度が発達しており、商売を得意としています。

スルタン宮殿とその中にある博物館(11代の王の特大の服や杖で2m60あったとか。ヤシ酒で敵の顎が漬けてある瓶、カバ、象や豹のミイラなど) →王宮前広場で開かれていた市場

次はバンジュン村にあるパミレケ族の王宮へ。
人口は約40万人でバムン族と同じ「頼母子講」により、商売人が多い。

王宮(建物の構造は竹で屋根は藁葺き)→博物館

午後はドゥアラへ戻ります。
18時ごろ、ホテル着。

この辺で今日のホテルの部屋について書いてみましょう。
1.         トイレとバスルームが別になっているのはよい。
2.         バスタブの塗装が剥げてお湯の中でユラユラ。
3.         シャワーカーテンなぞ、もちろんなし。
4.         ドライヤーは論外でなし(いつも持参している)。
5.         ステンレス製のティッシュボックスはあるが中身は空っぽ。
6.         ドアチェーンはチェーンがぶら下がっているだけで、とめる側がなくなっていた。
7.         TVはLG製で、リモコンはPhilips製で映らない。多分電池切れ。
8.         トイレットペーパーをとめるための芯棒がない。

夕食はバイキングだったが、前菜、メイン、デザートまですべてが美味しかったです。

夕食時に本日発生したエチオピア航空のハイジャック事件の影響でフライトが大幅に変更になるという話を聞きました。「よりによって、明日、赤道ギニアへ入国なのに、どえらい事になったもんだ!」と皆がそう思ったはず。

2月18日
当初、12時半出発で13:00着のエチオピア航空だったのが、17:00発に変更となりました。わずか30分で到着するのに・・・

11時ホテル発で中央広場で自由行動。

ピーター大聖堂は聖ペテロとポールの大聖堂で祭壇の奥にあるステンドグラスがとても綺麗でした。

因みにカメルーンは大雑把に言うと南はキリスト教徒で北はイスラム教徒が住んでいます。前回訪問した際、南から北へ飛行機で移動して降り立った途端に、違う国へ来たような錯覚さえ覚えました。

昼食後、空港へ。

17:00 発 ドゥアラ 赤道ギニア航空 (本来はエチオピア航空)
17:45 発 バタ(赤道ギニアの街で本来は経由しないはずだった)
19:00 着 マラボ(② 赤道ギニアの首都)

やれやれ、やっと到着と思ったら、とても厳しいセキュリティ・チェックがあり、その後何と、出発の待合室まで移動。え?何でやねん??

早速、添乗員さんはビザを発行してもらうために、手続きに行きましたが、何とそこの最終決済責任者が行方不明なのだとか。いや~な予感・・・
担当者が戻ってくるまでにケータリングで中華料理を空港まで運んでもらい夕食を済ませました。添乗員さんの言葉を借りると我々は「抑留?」されたのだそうです。

何度も何度も担当者が戻ってきたか、添乗員さんは確認に行きますが、埒が明かずに全員で空港責任者の部屋まで賄賂を持って行きました。どういった人たちが来ているのかが知りたかったようです。
「若いあなたから見れば、御覧の通りのおじいちゃん、おばあちゃんばかりですよ。疲れたから早くしてちょうだいな」と心の中で頼みました。
結局のところ、「本日は、観光大臣が休暇を取っているので、パスポートはここで預かるが、ホテルを予約しているのであれば、そちらへ向かうがよろし」とその責任者が言いました。
添乗員さんは高価そうな賄賂を渡していました。多分、旅行会社が用意したのでしょう。もちろん、我々の旅行費用に含まれているはずです。
形式的には全員で不法密入国ですが、入国できたことに変わりはなく、全員がハッピーです。
長~い、長~い一日で、ホテルに着いたら深夜0時を回っていました。

赤道ギニアは1968年、スペイン領から独立をしました。
ここも共和制・大統領制を採用する立憲国家です。
現在のンゲマ大統領は1979年から長期政権を続けており、恐怖政治でアフリカのアウシュビッツと化したと言われたこともあります。
ここも他のアフリカ諸国と同様にウルトラ汚職国家として有名です。
首都のマラボはギニア湾にあるビオコ島にあり、領土としては大陸側のリオ・ムニとアンノボン島からなっています。人口は約100万人。
経済はカカオとコーヒーの輸出が主な産業であったが、1992年にアルバ島で油田が開発されて以降は天然ガスも輸出されるようになり、一気に裕福な国へと転換を図りました。
それで、観光客が落とす外貨など微々たる金額でもっと多額の収入があるから何の支障もないわけです。

2000年のシドニーオリンピックでエリック・ムサンバニが100mの自由形予選に出場して話題になりました。

2月19日
7:00の朝食が全く準備ができていなくて、観光客を歓迎していないことがありあり。
パスポートを預けたままでは観光をすることができないので、空港へ向かうバスの車内から案内を受けました。

大統領官邸 →大聖堂広場 →石油開発に携わる人用の住宅 など。

近代的なビルやマンションが立ち並ぶ光景と庶民が暮らす家並みには差がありすぎました。

空港に着くと結局ビザは発給されずに政府が黙認をして入国をさせてくれた形となり、表向きは「空港雑魚寝宿泊」という、まことに不思議な経験となりました。

10:20 発 マラボ 赤道ギニア航空
10:30 着 ③ サントメ・プリンシペの首都であるサントメ
時差マイナス一時間

サントメ・プリンシペは大西洋の一部であるギニア湾に浮かぶ火山島でサントメ島とプリンシペ島と他の島々からなる共和制の島国です。
1975年にポルトガル領から独立をしました。人口は約17万人です。
主な産業はカカオの輸出ですが、世界でも最貧国の一つです。

赤道ギニアのすべてに対する嫌がらせに対して、ここのビザの取得はとてもスムーズにいきました。

空港近くのレストランで昼食後、ホテルへ。

夕方、市内観光へ。

中央市場(新鮮な野菜がたくさん) →大統領官邸 →サントメ大聖堂(ザビエルもここに来たことがあり、彼が持ってきたマリア像があります。外側は壁が白くて美しい)→スーパー・マーケット

2月20日
ホテルの前はギニア湾で朝、散歩をしているとシュノーケリングの格好をしている人に出会いました。よく見ると現地の人でイカのようなものを手に持っていました。すぐ近くで獲れるなんて何ともうらやましい。
ホテルは空港からは10分のところにあるが、周辺はとても静かです。
プールもあり、芝生の中央には滝もある。よく停電するが、すぐに復旧します。
アメニティはイタリア製。
全部で65室。エアコン、電話、冷蔵庫あり。
Wi-fiもフロント周辺で無料で使えて、PCも一台置いてあって自由に使えます。ただし、英語圏以外の国は文字の配列が違う(違う言語)ので、なかなか難しいです。
夕食も朝食もバイキングだったが、種類も豊富で特に魚介類が美味しかったです。

終日、サントメ島の観光。
コーヒー プランテーション →コーヒーハウス(敷地内)
グアダルーペにて昼食。

午後はネヴィス漁村へ。
本日は猛暑で温度計を見ると38.3度と表示が。暑くてのびそうだったのに子供たちが元気に川で泳いでいたのには救われました。
アウグスティーノのカカオ農園はアンゴラから奴隷貿易や強制労働でやってきた家族の末裔が営んでいます。

2月21日
10時ごろ、ホテルを出発して空港へ。
昼食は空港内のレストランで。チキンを頼んだ人は残念、出て来ず。

13:10 発 サントメ 赤道ギニア航空
15:10 着 ④ ガボンの首都であるリーブルビル
時差プラス一時間

空港へ着いたら、出口に多くの中国人が待っていて、これまでの雰囲気とは全然違っていました。ところで、我々には誰も迎えに来ていないではありませんか。仕方がないので、カフェにて待つことに。
どうも事故で交通渋滞が起きて到着が大幅に遅れた様子です。
やっとガイドさんが来たと思ったら、5,6人はいて「え?こんなに?」と。案の定、狭い車の中は前方にガイドさん達が堂々と座り、我々は後ろの方で補助席も使って小さくなる羽目に。最初は席が足りないので、どなたかは立ったままでした。添乗員さんはもちろん、ずっと立ちっぱなしです。

彼らは大声でお喋りをして車内での添乗員さんの声が時々かき消されてよく聞こえない状態でした。彼らはマナーを知らずに教育を受けていないことが分かります。どうして誰(自分もですが)も注意しないのかが不思議でした。
更に悪いことに本日はモロッコの国王の訪問で我々が宿泊する予定だったホテルはスタッフ達に取られてしまい、急遽変更になりました。
二泊分でそれもグループ全員分がよく空いていたものです。
暫く使用していなかったのか、部屋の中は黴臭くて息ができませんでした。あれは絶対に体に悪いです。

ガボンはフランス語で「水夫用の外套」という意味です。
1960年にフランスから独立をしました。
ここも共和制・大統領制を採用する立憲国家です。
国土の80%を森林地帯が占めるところから「アフリカの肺」と呼ばれます。
経済は木材と石油の輸出が主です。アフリカの中では国民所得は高い方です。人口は約200万人です。

2月22日
終日、アカンダ国立公園へ。
ドライバーさんは道をよく知らず、何度も間違えました。
ここはマングローブ林となっており、様々な水鳥や野鳥が観察できるはずでした。ボートでクルーズをするのですが、下記の一羽も出てきませんでした。
事前に調べていたのは、「セネガル・ショウビン、ヤシハゲワシ、エボシドリ、シギ、ミサゴ、ペリカン、ダイサギ、アオサギ、ハチクイ、サイチョウ」など。すごく楽しみにしていったのに、何をしに行ったのやら。ただ、マングローブの根元にたくさんくっついていた白い貝はフランス語で「メランダ」というらしいです。

昼食はロッジにて長い間待たされてやっとのことありつけました。

元の場所へ戻ってきたら、また、バスがいませんでした。
やっと来たと思ったら、誰かのバッグが消えておりました。

ホテルに15時ごろ戻り、希望者は市場へ。
ここで、事件が起こります。
私は、こういう場所はどこでも同じなので(正直、飽きている)、ぐるっと回って早めにバスに戻りました。
ところが、男性が両手で、バスの折り畳み式の入口を押さえて入れてくれないのです。
「こら、どかんかい!」と心の中で怒鳴ったのですが、ピッタリと押さえていて動こうとしません。本当に子供じみているし、赤道ギニアばりの嫌がらせだと思いました。
そのうち皆帰ってくるだろうと思ったので、その場でじっとしていたら、離れてくれました。後で分かったのですが、どうも私はカメラを持っていなかったからのようです。

そうこうするうちに、いつもトラブルメーカーの写真キチガイの男性T氏がまず戻ってきました。次に添乗員さんが戻ってきて、カメラを渡すように言うのです。
「はあ、こりゃ隠し撮りしたな・・・」

当人は画面を見せて「ほら、何も映ってないじゃないか。自分は撮っていないし、I氏が撮ったんじゃないか」とまで言いました。

「どうせ、消したんでしょうね・・・」。

そのうち、多くの現地の人達に囲まれてわさわさと残りの人達が戻ってきたのですが、またしても入口をふさいで入れようとしません。
写真撮影は禁止だと言われていたにもかかわらずに誰かが、でっぷりと太ったおばちゃんを撮ったようです。このT氏とI氏はとても仲が悪く、できれば二人ともに旅行中に会いたくはないのです。
よく利用する旅行会社には特にT氏が参加をするのであれば、私は行かないと言ってあるにもかかわらず、成田へ行くといるのです。何度騙された事か・・・
この騒動で1時間もあれば十分な市場の観光も3時間ほどかかり、大変な時間のロスとなりました。

挙句の果てに、帰りのバスの中ではガイドのリーダーが市場の人達に対して激怒し、何度も何度も激高しました。ああいう態度は我々のためを思ってのことだとは思うが、逆に失礼ですよ。我々の怒りを増幅させるような態度をとってどうするんだよ。全く。ガイドさんが観光客を楽しくさせる方向に持って行くのも一つの技術だと思いますけどね。

2月23日
10:35 発 リーブルビル コンゴ共和国の首都であるブラザビルへ ルワンダ航空

飛行機に乗り込んだら、自分の席に他人が座っていたので、「違いますよ」と言うと「あなたが通路側に座ればいいじゃない?」ときた。
「あなたは何度もこの飛行機に乗れるかもしれないが、私は遠く離れた東洋から来ているので、何度も乗れないし、外の景色が見たいのだ」と言うと納得したのか立ち上がりました。
朝からの雨で飛行中は雷がゴロゴロしてきて、落ちた音まで聞こえてきました。
遂に機内アナウンスで「悪天候のためにリーブルビルへ引き返します」と。もう、ブラザビルの空港が見えてきているのに・・・
一端、リーブルビルへ戻り、再度、ブラザビルへ向かって飛行。

16:00 着 ⑤ コンゴ共和国の首都であるブラザビル
この日は観光ができずに移動のみとなりました。
ガイドさんは大阪に15年住んでいたことがあるそうです。
鈴木宗男氏の私設秘書をしていたムルアカ氏の出身地です。

コンゴ共和国は1960年にフランスから独立をしました。
人口は約500万人です。
コンゴとは現地の言葉で「山」と言う意味です。
農業と林業が盛んでキャッサバの生産が盛んです。
ギニア湾に面したクィルー地方では石油の生産も行われています。

2月24日
8時ごろ、ホテルを出発してボートで対岸に位置するコンゴ民主共和国へ向かうために港へ。
出入国管理事務所では又しても嫌がらせにあい、出国するのに2時間もかかってしまいました。川の真ん中が国境になるので、絶対に写真は撮ってはいけないと添乗員さんは何度も釘を刺しました。

⑥ コンゴ民主共和国の首都であるキンシャサに到着して、ここでは40分で入国できました。でも炎天下の中、立ったまま待たされて疲れました。

コンゴ民主共和国は1997年まではザイールと言う名前でした。
1960年にベルギーから独立をしました。
地下資源には恵まれているものの、1990年代の内戦によってインフラが破壊されて、経済は壊滅状態となっており、現在は世界の最貧国の一つとなっています。
人口は約8000万人ですが、正しく統計がとれていないようです。
平和以外は何でもある国で、内紛が続いています。

バスの中でガイドさんは将来の夢として大統領になってこの国を変えたいと言っていました。中央アジアのキルギスと他にもう一か国(国名は忘れた)に行った時のガイドさんも同じようなことを言っており、皆さん、頑張ってもらいたいですね。

コンゴ国営放送の同行取材があり、取材陣が乗り込んできました。インタビューやツアーの様子は夜のニュースで流されたようです。
実はアンゴラへ行った時にも国営放送の取材があり、私がメンバーの代表としてインタビューを受けたことがあります。🎤

アフリカのシャンゼリゼ通り →コンゴ川 →聖マリア教会 →人民宮殿(国会議事堂で中国によって建設された)→マトンガ地区

昼食はワンプレートで短時間に終了

出国は50分で終わったが、ここで賄賂を渡した。何だ、ここで使う予定だったのか。キンシャサに滞在したのはわずか3時間でした。
再度、ボートで対岸に戻りました。

16時ごろ、ブラザビル市内観光へ。

ブラザ卿記念館(フランス人でコンゴ川流域を探検した)→中央駅 →聖アン大聖堂 →ナベンバ・タワー(一番高い30階建てのオフィスビル)→スーパー・マーケット

ホテルは周辺には商店とかトタン屋根の民家の中に立つ4階建ての建物。
庭やプールはない。門を出て数秒で大きな通りに出る。
ベッドはキングサイズでシーツは清潔だった。
水道水は茶色く、鉄さびの臭いがした。バスタブにお湯をためると泥が下に沈んでいる。
シャンプー(持参するので)を使わないでおいたら、二泊目には分量が半分になっていた。メイドさんだと思うが何に使ったのだろう?
ドライヤー、バスローブ、冷蔵庫、湯沸かしポット、シャワージェル、歯ブラシなどはあった。時々、停電がある。
食事はどれも美味しかった。スタッフはとてもフレンドリー。

2月25日
10時半ホテル出発の予定だったのがバスが遅れて、11:40に出発。
エチオピア航空のチェックインの開始時間も遅れてわずか15分の昼食時間しか取れず。
先日のハイジャック事件の影響でかなり厳しいセキュリティ・チェックでした。

14:05 発 ブラザビル エチオピア航空
20:30 着 アジスアベバ(またしても中国人だらけ)

2月26日
02:20 発 バンコクへ (2時間も遅れて水とカステラの提供があり)
15:20 着 空港内のデイユース ホテルで休憩。

2月27日
00:25 発 成田へ ANA
08:05 着 成田

今回は「国盗り」が目的なので行っただけで2回目の訪問はないでしょうね。特に赤道ギニア、ガボン、コンゴ共和国、コンゴ民主共和国の4か国は。

良かったことはエチオピア航空が香港経由ではなかったこと。
何故なら、毎度毎度、香港から大窃盗団が乗り込んできて我々日本人の財布から一万円札だけを抜き取る行為を繰り返していたからです。
ある旅行会社もクレームを何度も入れていたが、聞き入れてもらえなかったのだとか。だったら、他の航空会社がやっているように皆が就寝中に水を配って回るとかの見回り位してもらいたいものです。一番後ろの席でぺちゃくちゃとおしゃべりに余念がないのですから。
業を煮やしたある人が上の棚からお金を抜き取ろうとした瞬間を写真に撮って訴えたそうです。
皆さん、就寝中は貴重品には十分お気を付けください。
それ以降、香港経由はなくなり、今はソウル経由に変更となりました。

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