大切だったもの。粉々になった裕介くんのプラモデル
私が小学校時代を過ごしたのは札幌の住宅街であった。
そのあたりは比較的教育に熱心な家庭も少なからずいたようで、小学校40人クラスの中で中学校受験をする同級生が3〜4人いたと記憶している。
私の家庭は両親が教員であったという事情もあり、その中でも教育だけには力を入れている方であった。それなので、小学校4年生だったか5年生だったかそのぐらいから中学受験向けの学習塾に通うようになった。そんなこともあり、私が小学校の同級生と一緒に遊んだのは小学校4年生ごろまでであった。
一緒に遊ぶと言っても、スポーツがからっきしダメな私は、ひたすらインドア派の遊びをしていた。ファミコンは持っていなかったので、ボードゲームだとかトランプだとか花札で遊んでいた。外で遊ぶときはBBガンで友人と撃ち合いをするのが常であった。
そのころの札幌の小学生の遊びの定番といえば、草野球かサッカー、時々缶蹴りだったので、私はそういうのにはうまく混じれないでいた。時々草野球に加わっても、バットの持ち方やボールの投げ方すらろくに知らなかった私は同級生からも「一目置かれ」ていて、バッターボックスに立った際なんかはピッチャーのやつがアンダースローで投げてくれるような有り様だった。もちろん野球のルールなど知らなかった。
自宅ではプロ野球はおろか、スポーツをテレビで観戦するという文化はなく、今思えばひたすらクソつまらない自然やら観光名所やらについての番組を観ていた。当然のごとく小学校の同級生とも話題が合わない。その頃から今で言う発達障害のような気があったのか、友達と話す時も自分の好きなことをただ一方的に夢中に話し続けていた。会話ということができない人間だった。(それは今も大して変わっていないのだけれど)
そんなわけだから当然同級生に友人も少なかった。大人から見れば友人が多く、色々な奴らと連んでいるように見えたのかもしれないけれど、小学校の同級生で私と気があったのは1〜2人ぐらいだったと記憶している。
近所にあったどこだかの企業の社宅に住んでいたのがその一人であった。名前は裕介くんだったと思う。彼は私と同じく野球やサッカーが苦手で、インドア派であったので、私と馬があった。彼と一緒に遊んでいれば気を遣わないでいられるのでよかった。彼と一緒であれば、インドアなあそびだけでなくて、竹馬で遊んでも楽しかったし、お互いに下手だったのでキャッチボールですら楽しかった。
彼と私の仲が良かったのはもう一つの理由があった。
それは、彼も私もほとんど洋服を持っておらず、ダサいジャージのズボン2着で毎日を乗り切っていたことであり、ダイエーの安売りで買った靴しか持っていなかったことであった。同級生は皆、かっこいいヒモぐつを履いていたし、ズボンもブランドもののジャージやジーパンを履いていたりしたけれど、私と彼だけはダサいジャージしか持っていなかった。
そのことが私たちに強い連帯感を持たせた。もちろん、彼とそのことについて話したことは一度もなかったが。
裕介くんの10歳の誕生日だっただろうか、お兄ちゃんから誕生日プレゼントをもらったと言って、彼は私の家に大切そうにフェラーリF40のプラモデルを持ってきてくれた。まだ箱も開けていない状態で。
彼はあまり器用ではなかったためか、私と一緒に喜びを分かち合いたかったためか、「一緒に組み立てよう」と私を誘ってくれた。私も、今もだけれど、とても不器用だったので、プラモデルを組み立てることができるのだろうかとても心配であったが、彼のたっての提案だ、一緒に組み立てることにした。
プラモデルはほぼ私一人で組み立てたと記憶している。セメダインの跡が出ていたり、バリが取れていなかったりしたけれども、一応はフェラーリの形のようなものにはなった。塗装はしていなかったけれど、やっと完成したと二人で喜んだのを覚えている。
そうしているうちに、同級生の広瀬くんが突然一人で遊びに来た。彼は私たちの住む地域から少し山側にある豊かな家族が住む地域の子供で、カッコいいアディダスのジャージを着ていた。靴もアディダスだったかアシックスだったかを履いていた。
広瀬くんは、うちに上がるなり私たちの組み立てたプラモデルをみて一言、「ヘッタクソ」と言った。そして、私たち二人が一緒に草野球に参加しないことを確認すると帰っていった。
彼が帰ったあと、しばらく沈黙が続いた。2〜3分だったかもしれないし、10〜15分だったかもしれない。とても気まずかった。
私は、徐に玩具箱からBBガンを取り出し、完成したばかりのフェラーリのウインドスクリーン目掛けて1発打ち込んだ。フェラーリの窓は簡単に割れた。それをみて裕介くんももう一丁のBBガンを玩具箱から取り出し、二人でそのフェラーリが粉々になるまで打ちまくった。
フェラーリのプラモデルは粉々になった。粉々になったのを確認し、少しの間満足そうな顔をしていた裕介くんの目から涙が溢れた。それから彼はしばらく泣いた。声を立てないように泣いていたのだが、そのうちうめき声をあげ泣いていた。
私は、しばらく呆気に取られていたが、もうどうしようもないのだということに気づき、「裕介くん、今日はもう家に帰ったらいいよ」と彼に声をかけた。それが正しいセリフではないことを分かってはいたけれど、それ以外の言葉は出てこなかった。彼は帰っていった。粉々になったプラモデルを残して。
彼が帰って、私はその残骸をゴミ箱に捨てた。
程なくして彼は親の転勤で名古屋に引っ越していった。転校して以来、一度も彼とは連絡をとっていない。
あれは、私が今まで行った一番酷いことの一つだった。
いや、もっと酷いこと、してきたかもしれないが。この歳になって自分自身大切なものが増えると、彼が失った大切なものに代わるものは無かったのだと感じる。今になってやっと身にしみてくる。
だから、パンクロックはかくまで美しいのか?
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