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「過去は省みるモノで、顧みるモノではない」

いらっしゃいませ。バーテンダーのtakumiです。

SNS(Twitter)やブログで主に恋愛について思ったことを発信させて頂いてます。

noteの方は久々の更新です。

今日は最近よく聞かれる僕自身の「生き方」とか「座右の銘」みたいなものについて。ふと考えることがあったので。

この前、こんな質問を受けたので、思いつく通りにお答えしました。本当に想いのままに、徒然に。

普段の質問、特にお悩み系の相談には「考えて答える」ことが多いのだけれど、僕自身について聞かれているわけだから直感で答えたわけです。

それで、後でこのツイートを読み返して「過去は省みて顧みないこと。」という言葉があることが、自分のなかで意外だったんですね。

それで、間を開けずに続けてこんなツイートをしました。

文章に書き起こしてはじめてわかる自分の思考。これだから文字を書くというのはやめられない。自分のまだ形に成りきっていない思考をすくいあげて具現化するのに、twitterというツールは本当に優れていると思います。

何を隠そう、僕にとって「過去は省みて顧みないこと。」というこの生き方は、比較的新しい考え方です。それでいて「人に迷惑をかけないよう努力をすること。」ということの次にこの言葉が出てきたのは、いまの自分の中で特に重要視していることだから。

そもそも「省みる」と「顧みる」という言葉の違いについては以下の引用を置いておきます。

「顧みる」は過ぎ去ったことをただ振り返っているのに対し、「省みる」は自分自身の行動の良し悪しについて考え、「反省する」という意味が含まれる。(カンカンタウン~漢字の館~)

要は「過去は振り返るためのものじゃなくて、今の、そして未来の自分のための糧にするためのものだ」ということです。

反省を活かしてこれからの人生をよくするために過去を使うのはいいけど、ダラダラ想い出にふけったり、もっといけないのは過去に囚われて前に進めなくなること。

過去の恋愛、過去の失敗、過去の恥辱・・・あるいは過去の栄光、過去の快楽。過去には良かったことも悪かったこともあるけれど、それらは過ぎ去ったもので、これから前へ進むうえで「過去は過去」と割り切る気持ちが大切です。


普段、公私問わずいろいろな方から相談を受けやすいタチの僕ですが、一定の割合で「過去に対する悩み」というモノがあります。

過去といっても人それぞれですが、要は「過去に囚われて前に進めなくなっている。それを自覚しているのに、それでも過去を断ち切れない。どうすればいいの?」というのが、これらの悩みの本質です。

忘れたら楽なのに、忘れずに辛い想いを引きずり続けるのは何故なのか。

僕は、この悩みを抱える人はどこか「過去の自分を更新せず、停滞した状態でいることに心地よさを覚えている」のではないかと思っています。

忘れられない恋愛なんかはわかりやすいですが、例えば昔の失敗や思い出したくないほどに辛い出来事もそう。

「その出来事さえなかったら今の自分はもっと幸せだったはず」というのは「その出来事が起こる直前の自分に囚われている」とも言い換えられると思うのです。

いったい、どうして過去の事象がなければ今の自分はもっと素敵な人生を歩んでいると言い切れるのでしょうか?大好きな恋人と別れなかった今があったとして、それがもっと不幸な道だったという選択肢をどうしていとも簡単に排除するのでしょう?あの時の失敗がなければ、今の自分はもっとだらしがなかったかもしれないとは思わないでしょうか?

過去の栄光や快楽に浸って前に進めない場合はもっとわかりやすい。これはまさに「過去の自分を更新せず、停滞した状態でいることに心地よさを覚えている」状態そのものですよね。

過ぎ去ってしまった時間を愛おしく思ったり、悔んだりする気持ち。人間ですから、誰しもがその気持ちを持っています。しかし、その気持ちは今の、そして未来の自分がより素敵に生きていくための糧となるべきモノのはずなのです。

過去に囚われ、無意味に顧みてしまう人に贈る言葉があります。

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。

これは平野啓一郎氏の小説「マチネの終わりに」の一節。福山雅治主演で映画化もされ、話題になりました。

「マチネの終わりに」は、スランプに陥るプロのクラシックギタリストである蒔野と、ジャーナリストとして危ない場所にも身を投じる洋子の恋愛物語。

「未来が過去を変える」というのはこの作品のテーマのひとつですが、今思い返すと、僕はこの作品に触れた時に「過去は省みて、顧みない」という生き方が本当の意味で腑に落ちた気がしました。

人は過去を変えられないものとして、自分の後ろにずっと置いておこうとします。あるいは置いておくしかないモノだと認識しています。けれど、不変のものであるように見える過去も、じつは今、そして未来の自分が生きていく道筋の中でいつの間にか、良くも悪くも、変化していくものです。

過去の大失恋があるから、未来に素晴らしい人と出会うことがある。過去の大失敗があるから、今の成功がある。逆に過去の栄光が未来の失態によって帳消しになることだってあります。事実としての過去は変わりませんが、その過去の事実が持っている意味は、これからでも変わる。

そう理解した時に、過去とは顧みるものではなく、省みるものなのだと気づいたんです。

もしかしたら、この先の人生で、ゆっくりと腰を据えて後ろを振り返って過去を顧みる瞬間がくるかもしれない。変わりえない過去の想い出にゆっくりと触れるべき時がくるかもしれない。

けれど、短い人生のなかで、そうやって過去を慈しむのは今じゃない。

「今を、そしてこれからをどう生きるかで過去は変わる。」

僕は今日もこのことを心に刻んで、進んでいこうと思います。そして願わくば、これをご覧になってくださった・・・特に過去の出来事に囚われて苦しんでいる方が、少しでも同じような気持ちを持ってくれたら嬉しいなと思い、この文章を書いたのでした。

余談ですが、文中に引用した「マチネの終わりに」は素晴らしい作品です。原作はもちろんですが、映画は映画で映像作品にしかできない魅力にあふれています。僕は筆者である平野啓一郎氏の作品によく感銘を受けていますが、本作に関しては映画を先に視聴しました。主演の福山雅治さんと石田ゆり子さんの演技はもちろんですが、劇中に挿入されるクラシックギターの音色も最高です。いずれも機会があれば、ぜひ。

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