見出し画像

【発達障害グレーゾーンの生きづらさについて】

発達障害未満なのになぜ生きづらいのか

 「発達障害」という言葉が広く知られるようになり、多くの人が、自分も当てはまるのではないかと感じて、医療機関や相談機関を訪れるケースが非常に増えている。発達障害ではと疑って、診察にやってくる場合にも、大きく二つのケースがある。

 一つは親や教師、パートナーや上司といったまわりの人が、発達障害があるのではないかと疑い、受診をすすめるというケースだ。本人はまだ自覚がなく、親に連れられてやってきた子どもや、パートナーや上司から受診するように言われたという大人のケースも最近多い。

 その一方で、さらに増加が目立つのは、自ら「発達障害」ではないかと疑って、診察や相談にやってくるケースだ。

そうしたケースに共通する特徴は、長年生きづらさや生きることへの違和感のようなものを感じていて、それがいったい何なのか、悩んできたという状況で、もしその原因が「発達障害」によるものなら、一歩前に進めるのではないかという期待も抱いているということだ。

 どちらの場合も、きちんとした診断を行うには、丁寧な問診と診察、発達検査などが必要になる。より正確を期すのであれば、数回にわたって診察を行い、状態を見極める必要がある。

 ところが、あっけないくらい簡単な問診とチェックリストによるスクリーニング検査だけで、ちゃんとした発達検査さえ行われず、診断が下されて、薬まで出されてしまうというケースも珍しくない。

とくに「ADHD(注意欠如・多動性障害)」と診断される場合には、そういうことが起きやすい。

 不注意や衝動性といったADHDの症状は、非特異的なもので、ADHDでなくとも、さまざまな要因で生じてしまうため、スクリーニング検査だけで診断すると、半分くらいが過剰診断による誤診となってしまう。

 その一方で、長時間かけて発達検査も受けたみたものの、結局、障害というほどではなく、「グレーゾーン」、つまり、境界域だと判定されることもある。

 障害というレベルには該当しなかったのだから喜ぶべきはずだが、多くの人は、もっと複雑な反応を示す。

彼らとしては、自分の生きづらさの原因を「発達障害」に求めて、長い時間と労力、費用もかけて診察や検査を受けたのに、結局、どちらとも言えないという曖昧な答えだけが返ってきて、それをどう受け止めればいいのか戸惑っている。

 障害というほどではないと判定されたことは、自分の生きづらさや苦しみが、それほどではないと言われたような気もちになる人も多い。

障害というほどではないのに、自分がこんなに悩んでいるのは、自分がただ過剰反応しているだけなのか。

自分が長年味わってきた苦しみを、軽くあしらわれたような気もちになり、すっきりするどころか、もやもやがかえって深まってしまうこともある。

 では、はたして、グレーゾーンと判定される問題は、それほど苦しむような深刻な問題ではなく、軽く受け止めればいいのだろうか。

生きづらさも、障害レベルの発達障害に比べれば、軽いと考えればいいのだろうか。

 実際に数多くのケースに向き合ってきた経験から言うと、まったくそうではなく、グレーゾーンの人は、障害レベルの人に比して生きづらさが弱まるどころか、ときには、より深刻な困難を抱えやすいということだ。

 障害レベルでないため、特別な配慮や支援もなく、難しい課題にも取り組むことが求められるし、健常者と対等に競わされる立場にも置かれやすい。

グレーゾーンのケースは、ある部分では能力の高いケースも少なくないため、その人にかかる期待も大きくなる。生きづらさや困難が減るどころか、期待値の高さとのギャップに苦しむことになりやすいのだ。

 それだけでなく、グレーゾーンにはグレーゾーンに特有の生きづらさが生じ、それは障害レベルの状態とは質的に異なる困難さだとも言える。後でも見ていくように、グレーゾーンのケースには愛着や心の傷といった問題が絡んでいることが少なくない。

 グレーゾーンは単なる「障害未満」の状態ではなく、性質の異なる困難を抱えていることも多い。

障害レベルの発達障害についての知識だけでは不十分で、特別な治療アプローチやサポートが必要になってくる。

障害レベルの状態よりも、ある意味、幅広い知識やさまざまなケースに対応できる実践的な経験、ノウハウが必要になるのだ。


それらがあってはじめて、その人が必要としているレベルのサポートが提供できるからだ。しかし、そうしたことはあまり理解されていない。

 グレーゾーンという用語は、幼児期のように、まだ症状がはっきりせず、診断に至らないという場合に使われる場合と、青年・成人期にありがちなのだが、症状としては明確になってきているものの、診断基準をすべて満たすには至らないために使われる場合があり、両者では、意味合いが違ってくる。

 幼児期や学童期のはじめに「グレーゾーン」と言われる場合には、まだどちらに行き着くかわからないというニュアンスがある。

それに対して、成人や青年のグレーゾーンとなると、症状や特性ははっきりしているものの、診断基準に達しないため「グレーゾーン」と判定しているということだ。

 子どものグレーゾーンについて書かれた本はたくさんあるし、成人だけについて書かれた本もあるが、実際には、その両者はつながって1人の人間の人生となっている。

 その両者を連続した視点で見ることで、はじめて何が起きているのか、どうすればいいかが見通せる。

いまの問題が将来のどんな問題につながるのか、あるいはいま困っていることが、子どものころに感じていたどんな特性や状況に由来しているのか、それらがつながることで、より深い理解と必要な対処が可能になる。

 そのため、本記事では、子どもだけ、大人だけの書き方にはせず、子どもから大人まで通した問題として、グレーゾーンについて考えていきたい。



今日、発達検査の中核を担になっているのが、ウェクスラー式知能検査だ。

 ウェクスラー式知能検査には、児童用のWISC(ウィスク)、16歳以上の青年・成人用のWAIS(ウェイス)などがある。

ウェクスラー式知能検査の特徴は、全般的な知能指数以外に、四つの各能力について指数が算出されることである。

これは群指数と呼ばれ、「言語理解」「知覚統合(知覚推理)」「作動記憶(ワーキングメモリ)」「処理速度」の四つがある。

 この指数のばらつき方が、その子、その人の発達の偏りを示していると考えられている。検査をして、発達障害かどうかを疑う根拠として、まず全体的な指数(全検査IQ、いわゆるIQのこと)が、平均と比べてどのくらいの水準にあるかを見るとともに、四つの群指数に偏りがないかどうかが重要になる。

 前者は、知的な障害があるかないかを判定する根拠となる。

一方、四つの群指数のばらつきが強い場合には発達障害を疑うというのが、現在の一般的な認識である。

 ただし、知能検査で大きな偏りがあるからといって、それだけで発達障害とは診断されない。診断はあくまで、幼いころから現在までの症状や生活での支障の大きさによって決定される。

 つまり、発達検査では大きな偏りがあるのに、発達障害の診断基準には該当しないというケースもかなりの割合で存在する。

グレーゾーンと判定されてしまうケースには、そうしたケースも少なからず含まれる。一方、発達障害の診断に該当する症状や困難を呈(てい)しているのに、発達検査では、あまり偏りがないというケースもある。


多くのケースで言えることは、グレーゾーンと診断された場合、「障害ではないので安心していい」という意味ではないということだ。

むしろ、これからの働きかけや取り組みによって大きな違いが生まれるため、しっかりサポートしていく必要があるのである。

 医者や専門家がよく使う「様子を見ましょう」を、何もしないで手をこまねいているという意味に受けとると、せっかくのチャンスを逃してしまうことになる。幼い子どものケースほど、このことは重要だが、青年や成人のケースでも、障害ではないので何もしなくていいということではない。

 ただ、残念なことに、子どもであれ大人であれ、グレーゾーン、つまり障害未満と判定されたケースに対して、医療機関はあまり積極的には対応しようとしないのが普通だ。

「様子を見ましょう」ということで、終わってしまうことも多い。

 しかし、子どものケースでは、軽度な課題であっても、できるだけ早くから療育やトレーニングを行うことが、予後を改善することにつながる。

 重い自閉症と言われたケースでも、早期から集中的な療育を行うことによって、健常と変わらない状態にまで回復し、遅れていた発達を取り戻すケースもある。

軽度なケースであれば、早くから適切な働きかけやトレーニングをすることで、弱い部分を強みに変えることさえ可能なのだ。

 逆に、比較的軽度な問題であっても、「グレーゾーン」という言葉を障害ではないと受け止めてしまい、何の働きかけもせずに、自然の成り行きに任せていると、弱い部分はさらに弱くなって、ある時期から急に深刻な問題として表面化するということになりやすい。

 幸運なめぐりあわせで、弱い部分が補われるという場合もないとは言えないが、多くの場合には、課題を放置しているだけでは、改善するどころか、徐々に悪化してしまう。

苦手なことを避けようとしたり、失敗して自信を失ったり、あらぬ誤解やいじめを受けたり、不安や心の傷から二次的な障害を生じてしまったりして、問題が複雑化しやすいのだ。

 「グレーゾーン」は決して様子を見ればいい状態ではなく、細やかな注意と適切なサポートが必要な状態で、それが与えられるかどうかが命運を左右するということを肝に銘じたい。


本当のADHDよりも生きづらい疑似ADHD

 数年前、ニュージーランドで行われた長期間にわたるコホート研究の結果が発表され、世界に衝撃を与えた。

その結果は、成人のADHDと、子どものADHDとは、かかっている人も、その症状の特徴も大きく異なる別なもので、成人のADHDの大部分は、本来の意味での発達障害ではないことを示していたからだ。

 コホート研究は、因果関係を証明するうえでもっとも信頼性の高い研究法で、それだけに発達の専門家たちも驚愕したのである。専門家の多くは、子どものころADHDだった人が、大人のADHDになっていると信じていたからだ。

 実際には、大人のADHDとされた人は、12歳ごろから症状が現れ、大人になってから症状が強まっていたのである。

 この研究でわかったもう一つの重要なことは、大人のADHDは、本来のADHDに比べると神経学的な障害は軽度であるにもかかわらず、生きづらさや生活上で感じている困難は、本来のADHDをもった人よりも強いという事実である。

 実際、さまざまなトラブルや困難に直面し、精神的にも病んでいる人の割合が高かった。

障害としてはグレーゾーンだとしても、本人が味わっている苦労や大変さは、決して本来の発達障害に勝るとも劣らないのだ。

 では、大人のADHDの場合、その実体は何だったのだろうか。

 単純に一つの原因によるとは言えないのだが、そのうちのかなりの割合で、何らかの虐待を受けたり、親の否定的な養育態度にさらされながら育っていたり、安心を脅おびやかされ、過酷な体験をしているというケースが高率に見いだされるのだ。

そうした要因が見当たらない人と比べると、ADHD(正確にはADHDと見分けのつかない疑似ADHD)を発症するリスクは数倍に達するのである。


グレーゾーンは愛着や心の傷を抱えたケースが多い

 「境界ライン」の問題が、単なる境界ではないということを示すために、もう一つ例を挙げよう。

 境界性パーソナリティ障害は、かつて精神病と神経症の境界にある状態と考えられ、「境界」という用語が用いられた。

ところが、この何十年かで明らかになってきたのは、実際には、そのどちらとも異なる性質をもった別の障害で、生きづらさも治療の困難さも、どちらにも劣らない深刻なものだということだ。

 近年ようやくわかってきたことだが、境界性パーソナリティ障害の正体は、愛着障害やそれにともなう複雑性トラウマ(一回の強い恐怖体験によるものではなく、比較的軽度のトラウマが続くことによって生じるタイプのトラウマ)によるものだったのだ。

 同じように、発達障害のグレーゾーンも、単に症状レベルの違いというだけでなく、性質の異なる原因がひそんでいることも考えられるのである。

生きづらさを抱え、自ら診断を求めてこられる人々には、ただ症状が軽いということでは説明がつかない何かがかかわっていると考えたほうが、納得がいくように思える。

 グレーゾーンと呼ばれる状態には、発達障害の傾向をもつものの、幸運にも軽症であるというケースももちろんあるが、愛着障害やトラウマにより生じた、発達障害に類似した状態が少なからず含まれているのである。

 単に症状が軽いというだけであれば、それほど深刻な生きづらさにはならず、発達特性をよく理解し、適切な対処なりトレーニングを施ほどこすことで、さほど問題なく生活し、納得のいく人生を送ることもできる。

 しかし、愛着障害や心の傷が絡んでいる場合には、症状が軽いからと言われても、慰めにも解決にもつながらない。

グレーゾーンを診断する場合には、愛着障害や心の傷が影を落としていないかに注意する必要があるし、そうしたケースでは、その部分への手当てがなされないかぎり、その人が抱えている本当の困難や生きづらさを理解することも、改善することもできないのである。

 その点をしっかり見分けるためにも、グレーゾーンの状態がそもそもどういうものであるかを、きちんと知っておく必要がある。


発達障害に似ているけど、診断に至らない

 発達障害について広く認知されるようになり、インターネットなどにはそうした情報があふれていることもあって、一部の症状がご自身やお子さんに当てはまると感じて、発達障害かもしれないと思われる人も増えている。

それで実際に医療機関を訪れて、診察や検査を受けるケースも急増している。その結果、発達障害の診断を受けることもある一方で、「グレーゾーン」だと言われて、診断には至らないケースが多くなっている。

 障害レベルの状態を山の頂いただきに喩たとえれば、中腹から裾野の部分が「グレーゾーン」だとも言える。

八合目以上を「障害レベル」とするとしても、六合目や七合目では、障害という診断には至らず、「グレーゾーン」とされてしまうわけだ。

その割合は、山の頂よりも、裾野のほうが広いことからもおわかりいただけるように、「障害」と診断されるケースよりも、ずっと大きな割合を占めることになる。

 たとえば、一番わかりやすい知的障害の場合で比べてみよう。

 通常、知的障害と診断されるのか、IQが70未満の場合だ。


その割合は、一般人口の2.2%である。ところが、知的障害のグレーゾーンである境界知能とされる人は、IQが70以上85未満(80未満とする場合もある)の人で、その割合は、一般人口の十数%近くにもなる。知的障害と認定される人の何倍もの人が、グレーゾーンに該当するわけだ。

 自閉スペクトラム症やADHDといった状態も、症状の程度はさまざまな段階があるスペクトラム(連続体)と考えられている。障害レベルの人は一般人口の数%としても、特性や傾向のために生きづらさを感じている人は、その何倍もいることになる。

 より多くの人が該当するだけではない。さまざまな状態がそこには含まれることになる。たとえば、診断にはA、B、Cの三つの条件が必要な障害があるとしよう。

グレーゾーンのケースでは、AとBのみ、BとCのみ、AとCのみという場合やA、B、Cのいずれか一つだけだが、その程度が強く、生活しづらいという場合も含まれる。

それだけでも、六つのパターンが想定されるということであり、障害の中身はケースによってバリエーションが大きく、まったく別の障害と言っていいほど、状態や困難の中身も違ってくる。


この記事が良かったらいいねフォローコメント宜しくお願いします。

【無料グループチャットに参加する▶️】

画像をタップで参加希望

【無料チャットカウンセリングはコチラ▶️】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?