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インナーチャイルド=幼少時に生きようとする力

昨年の秋まで1年間、インナーチャイルドセラピー講座を受けていた。

インナーチャイルドとは、ある感情を擬人化したもの。
例えば自分の中で、
「悲しい」
「いや、そんなことで凹む人と思われたら何か恥ずかしい」
という感情の動きがあって
「全然気にしてないよ!」を表に出したりする。
最初の感情「悲しい」を言うのがインナーチャイルドだ。
あえて子供のイメージで擬人化する。
普通に「本音と建て前」と言えばわかるところを
なぜ謎の横文字で表現するのか。
答えは感情の複雑さにある。

感情には、「本音と建て前」のように切り分けられない領域がある。
その領域を完璧に認識できている人などいるだろうか。
一つの「悲しい」には、
「こわい」「つらい」「期待」がない交ぜにあったり、
別件の「楽しかった」残り香があったり、
「晩御飯つくるの面倒くさい」未来があったり、
全てが一体で同時進行なのだ。

それらがもつれて絡まってしまった時、
整理の糸口となるよう
呼び名とイメージを与えられたのが
インナーチャイルドである。

インナーチャイルドの感情は、
幼少期の喜怒哀楽そのまんま。当たり前である。
・お腹すいた
・喉が渇いた
・痛い
・怖い抱っこして
生きることに直結する感情。
誰かに伝えなければ命を落とす感情。

子供の頃に、この感情をしっかり受け取ってもらっていると
感情は穏やかになっていくらしい。
そうでない場合もある。
ただ、強い感情を抱えたまま大人になっても
それを他者の前で素直に表現しなくなる。
表現を抑えるよう教育されるのだ。
回りが迷惑しないよう、あるいは自身が傷つかないよう。
そのうち教育者と同等の人格を自分の内側に創り上げる。
この教育者が感情を抑制しすぎると
いつかインナーチャイルドの声は聞こえても無視するようになるのだ。

気づかぬうちに自分もそうなっていた。
インナーチャイルドセラピー講座は
内側の声を聞きとるワーク(実践)ばかりだったが
インナーチャイルドの感情なのか
そうに違いないという思考なのか
結局ほとんど判別がつかなかった。
他人の言葉で書かれたインナーチャイルドの意味を
脳が理解しなかった。できなかった。
なんとか意味を説明できるようになっても、試験には落ちた。

その後、産業カウンセラー養成講座を受けた。
講義内容で、
「アレ?これってインナーチャイルドのこと?」
が何度かあった。
勿論、違う言葉なのだが通じるものがある。
というか同じ話をしている。

言葉も文化も環境も違うのに
世界中の心理学者や精神医学者が
同じ「こころ」の世界を掘り進めてきた歴史に感心した。

そんな私も学び続けた甲斐あって
たまに複雑な感情を切り分けて認識できるようになった。
インナーチャイルドと、
それを抑圧する教育者の感情を別々に認識する。

たとえば・・・
目の前の人が怒りだし
「怖!逃げ出したい」とインナーチャイルドがざわつく。
それを察知した教育者は
「いい大人が怖がったら/逃げたら白い目で見られる!」と抑制する。
そして、冷静に応対する大人な自分を演じる。

教育者は大抵、
「またそんな感情!ほら蓋して!」と
本当の気持ちはなかったことにすべく働く。
ここで大切なのは、働いているということ。
教育者はインナーチャイルドを傷つけるつもりなど毛頭ない。
必死に守っている。
唯一知る守り方で、けなげに全力防衛をしているのだ。
そう考えると、インナーチャイルドと教育者に善悪はない。
どちらもその瞬間を必死に生きようとする「こころ」の力。
ただ、もうその教育者はいなくても生きられる大人になったのだ。
身長180㎝の人が補助輪のついた5歳児用自転車に乗って
車道を全力疾走すれば危ないのと似ている。

インナーチャイルドを癒すセラピーがある。
癒すことでやっと、内側に居る教育者と対等に向き合える。

一人で癒そうと思っているそこの頑張り屋さん。
抱えきれない時は、誰かの「こころ」を借りよう。
1時間だけでも、少しお荷物持ってもらおう。
ゆっくり少しずつ、感情の糸をたどって行こう。

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