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希死念慮・自傷行為あれこれ① | 京都・四条の心理カウンセリング カウンセリングオフィスSHIPS 認知行動療法・ブリーフセラピー

 こんにちは。カウンセリングオフィスSHIPS代表です。京都 四条烏丸でカウンセリングルームをしています。オンラインカウンセリングもしていますので、全国からアクセス可能です。

 当オフィスは、ブリーフセラピー、認知行動療法を中心にしたアプローチで、プラグマティック(実用主義的な)支援を掲げてカウンセリングをおこなっています。

 さて、本日は、希死念慮や自傷行為についてあれこれ綴っていこうと思います。シリアスなテーマですが、大事なことなので。

 希死念慮というのは、死にたいという気持ちを抱くことです。消えたい、いなくなりたいという曖昧な気持ちから死をより強く意識する気持ちまでグラデーションです。自傷行為とは、リストカットなどに代表される自分を傷つける行為をいいます。(専門的には、自殺念慮や自殺企図という言葉もありますが今回はおいておきます)。
 当事者だけでなく、周囲の方、すべての方に知っておいてほしいことです。何回かに分けて綴っていこうと思います。
 今回の内容は、以前とある市民公開講座でお話しした内容をもとにしています。


はじめにー重要なお断り

 今回も無用な誤解を招かないように、読んでいただく前のお断りからはじめます。

 まず、以前も書きましたが、こころの悩みや問題というのは、本来個別性が高いものです。ですから、自傷というのは○○で、△△するとよい、という過度に、また安易に一般化できる対処法があるわけでありません。
 これまでの臨床の中で、概ね共通しているなと思うこと、基本として大切だなと思うことを書きますが、どんなふうに書こうともそこに当てはまらない例外的なケースは必ず存在します。

 「いやあ私には当てはまらないけどな」「ちょっと私の感覚と違うな」と思われた方がおられたとしても、それは全然おかしなことではありません。 
 今回の記事に当てはまらない方、そういうケースを否定したり無視したりという意図はありませんので、その点はわかっていただけると嬉しいです。

希死念慮という心理状態

よくある誤解

 まず、最初に巷で、ときに医療・福祉職でさえ、以下のようなことが言われることがあります。

  • 本当に死にたい人は、助けを求めない(死にたいなんて言わない)。

  • 「死にたい」と言っているうちは死なない。

  • リストカットは死ぬつもりのないアピール行動で取り合うとよくない。

  • 本人が「死ぬ」と決心しているならもうとめられないし、とめるべきでもない(労りなど意味がないし、放っておくしかない)。

 これらは本当に誤解です。死にたい気持ちを、怪我による出血に苦しんで痛みを訴えている人だとしましょう。出血している人を目の前にしたら「本当に痛い人は、痛いなんて言わない(痛みに圧倒されてしゃべる元気もないはず)」「痛がっているうちは大丈夫」「痛みを訴えるのは、ただのアピール行動」「本人が痛がっているときに、出血を止められるわけでもない声掛け、労りなんて無意味だし、放っておくしかない」なんて言わないですよね。

 でも希死念慮(死にたい気持ち)って、その苦しみの様子は外から見えにくいし、実際どのような心理状態なのかって誰も教えてはくれないですよね。ですから、希死念慮が生じるとき、人はどのような心理状態にあるのか、できるだけ一般向けに分かりやすく解説していこうと思います。

アンビバレント(両価的)な心理状態

 希死念慮に悩まされるとき、人はその希死念慮になすすべなく従ってしまうわけではありません。実際には、死にたい気持ち(助かりたくない気持ち)と,生きたい気持ち(助けてほしい気持ち)の両方が常にあり、その狭間で常に揺れ動いています。

 矛盾する気持ちというのは、通常同時に存在しますし、そうした矛盾した気持ちを抱えるのが人間です。スケールダウンした例えですが、「痩せたい。でも食べたい」こんな気持ちになることは普通にあることですよね。それは正常な心理です。人はロボットではありませんから、痩せようと強く誓ったとしても、でも同時に食べたい気持ちも抱える生き物です。「どうしたいか自分でもわからない」というような曖昧で、ぼんやりとした気持ちや考えを抱くことだってありますよね。

 そういう矛盾した気持ち、曖昧な気持ちを持つこと自体はなにもおかしいことはないですし、それこそが人間らしさだなあと思うのですが、こと世間でも援助現場でも、まるで矛盾をついて当人を責めるようなメッセージが発せられることがあります。「自傷行為しないって約束したのになんでしたの?」「あなたはどうしたいの?はっきりしなさい。」などなど。
 そんなはっきりとした意思や気持ちをもてることばかりではないのは普通のことなんですけどね。

 ですから、「本当に死にたい人は、助けを求めない」、死ぬと決めているなんてことはありません。本当に、死ぬ直前まで思いつめた人でも誰かにその気持ちを打ち明けることもありますし、逆にそこまで死を強く意識していないような人について周囲がそれを放っておいていいわけでもありません。

視野狭窄な心理状態

 自殺において、単一の要因が自殺を招くわけではありません。複数の問題を抱えながら、徐々に追い込まれていきます。また、自殺者の8-9割に何らかの精神疾患(およそ半数はうつ病)があるといわれています。

 誰でも、考えなければならないタスクが多くなると、頭の中がそれで占められて他のことを考える余裕がない、という経験をしたことがあると思います。死にたい気持ちを抱えている人も、頭のなかで考えることがたくさん渦巻いて余裕がなくなる結果、思考や判断の視野が狭まっている状態となります。これを「視野狭窄(しやきょうさく)」といいます。

 うつ病も、認知的な特徴としては、視野狭窄の病であるといえます。健康なときには「〇〇かもしれない,△△かもしれない」と、さまざまな可能性や判断の選択肢を浮かべられますが、うつのときは思考のバリエーションが病的に乏しくなってしまいます。

 うつ病のときには、現状を打破する解決策として死ぬ以外の解決策が見えなくなり,「もう死ぬしかない」「死ななければならない」という思考状態になることがあります。しかし、これは病気によって視野が狭められてしまった結果であって、決して本人の強い意志や価値観、信念の反映なのではないということを知っておく必要があります。 

孤立と孤独

 したがって、希死念慮に苦しむ人は、病に苦しむ人であって、「本人の意思次第なのだから、勝手にさせるしかない」と放っておいてはいけません。孤立を深めます。そもそも、その意思が、病気によって侵されているわけです。

 では、ここで孤立と孤独について簡単に述べます。「孤立」とは、人間関係を喪失した状態を指します。つまり、客観的な現象としての、人間関係の欠如を表す言葉です。
 一方、「孤独」は、人間関係の欠損・消失により生じる意識のことを指します。つまり、孤立から生じる「さみしさ」などの主観的感覚を表す言葉です。そして、こちらの孤独感のほうが重要です。人と人は、たとえ物理的に離れていたとしても、精神的に離れていなければそれが支えになるものです。

 なお、「孤独」「孤立」が良くないというと、健康的な人のなかには「いや、私はひとりで過ごすのが好きだけどな」「誰かと一緒にいるほうがしんどい」というような感想を持つ方もおられるかもしれませんね。もう少し詳しく述べます。

 孤独には、「積極的孤独(ソリテュード)」と呼ばれるものと、「消極的孤独(ロンリネス)」と呼ばれるものがあります。前者の「積極的孤独(ソリテュード)」というのは、孤立を積極的に選び取っている状態です。誰しも、一人になりたいとき、一人遊びを楽しみたいときはありますよね。それです。主体的選択のうえでの孤立ですから、孤立を解消しよう思えば解消できる一時的な状態でもあり、孤独感としてはポジティブな側面があります。精神的にリラックスしたり、自分の興味関心に集中できたりとストレス発散にも効果的なことがあります。こちらはいいんです。

 問題は、「消極的孤独(ロンリネス)」のほうで、これは望まない孤立による喪失感,寂しさに打ちひしがれている状態です。自分で望んでいない孤独感を抱いており、永続的だとより問題です。
 死にたい気持ちを抱く人は、視野狭窄の影響もあり、孤立し、孤独感を抱きやすい状態にあります。さらに、持続的な孤立・孤独感は、ますます希死念慮を高めます。他者との結びつきのなさは心身の健康状態を悪化させ死亡率を高めることは数々の研究から明らかになっていることです。

 ですから、孤独感に悩める人の孤独感は、健康的な場合の孤独感とはまったく質の異なるものである、ということです。

 最後は、人と人との結びつきです。見捨てないこと。たとえ、気の利いたことが言えなくてもいいんです、打ち明けられた人は、ある種当事者から選ばれた人です。どうか精神的な距離を離さないでいてあげてほしいです。

 次回は、ではこのような状態の当人に、接するときにどのようにしたらいいのか。周りにできることは何か。ということについて書いていきます。

 もし、誰にも悩んでいること、抱えている気持ちを話せずにいたら、そんなときは一人で抱えずカウンセリングにお越しください。

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カウンセリングオフィスSHIPSでは、ブリーフセラピーや認知行動療法に基づくカウンセリングをメインに実践しています。

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