私たちは新型コロナから何も学ぶ必要はない
厄災から人生や自分のために何かを学んだり成長をする必要はない。
厄災は訪れなかった方良いに決まっている。
安心感や安全感でその人を包んでくれている日常性は壊れない方がいいに決まっている。
しかし、厄災はやってくる。理不尽だ。不運で不幸だ。
理不尽でも与えられたものから、何かを学ぼうとする姿勢は個人としては大切なものだろう。
しかし、学びや成長はそのひとの歩みの必然的な結果として、そのひとが見つけるかもしれないもの。その学びや成長には正解もないしゴールもないし、誰かがパッケージしておいて条件が揃えば手渡される素敵な景品のような、あるいは、タスクをこなせば得られる光るメダルのようなそんなものではない。
ツイッター上でこんな画像を見つけて(そのツイ主の職場から配布されたもの、らしいですがweb上で広く拡散されているもののようです)違和感を感じて少し触れてみたくなった。
現在の状況について、他人の価値観や人生に他者から「こうあるべきだ」と何か学ぶべき道や方向づけをすることは私はしたくないと感じている。
ある人が結果として、この図のような学びや成長を見出すかもしれない。
それは「その人がそうだった」というだけで、「そうなるべき」というものでもない。
「困難から学ぶべきだ」「困難を克服して成長すべきだ」そのようなプレッシャーが、厄災に対する個人の自然な恐れや怒りやショックや悲しみや嘆きをどこか「コントロールしてなくすべきもの」「抑圧すべきもの」として扱っているように思える。
そしてそれらの感情をコントロールできない個人への非難にもなる。「いつまで怒ってるの?」「悲しんでいてもどうしようもないじゃない?」「しんどいのはあなただけじゃない」…
その人がいつまで怒ろうが、悲しもうが、辛い感情でいようが、その人が決めることだ。存分にその感情の中にいてもいい。
お互いに影響を与え合うような個人的関係にいる人に対して「もう恐れないで欲しいと私は思っている」などと伝えることは、それもまたその人の自由だろう。
しかし、直接関係性のない第三者の感情に誰も何も指し示す必要はないし、権利がないし傲慢だと私は考える。
(同様に「困難から学ぶべきだ」「困難を克服して成長すべきだ」同様のプレッシャーが、災害や事故や虐待やレイプなどで精神的なトラウマを負った人たちにも投げかけられがちのようにも思う)
上の図を皮肉ってこんな図を作った人もいるみたい…