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本町八月踊り

先週の土曜日は故郷の「本町八月踊り」が、コロナ禍以来五年ぶりに行われた。かねてから久しぶりに見てみたいと思っていたので、幼馴染の夫婦と共に訪れた。大隅半島の東南部小さな町のうえに、人口減少が進んで、あまり日中でも人も通らない。夕暮れ時に出掛けると、あたりには人も見られないし、街灯もまばらで、足元に気を付けながら会場へ向かった。
すでに最初の行事、八坂神社への参拝は終わったようで、行列は次の水神様の方へ移動していた。私は友人夫婦と会場の集会所横の広場で合流した。
まだ数人しかいず、広場には中央に大きな八畳敷きほどのテントの下に、演奏者が陣取る舞台が造られていた。りっぱな舞台だ。暗い中そこだけは明るく裸電球がたくさん吊るされていた。まわりのベンチに腰掛けておしゃべりしながら、行列が戻ってくるのを待つ。しばらくすると遠くから鉦の音が聴こえてきた。暗い夜に四百年続く祭りが始まるのだ。この祭りを見に来たのは十年ぶりくらい、小学校のころには踊りの練習をして参加したこともあるから、行列が練り歩くときの大小の鉦の音、太鼓の音は耳になじみがある。言葉では表せないくらい心の底からなつかしさが湧き上がってくる。いよいよ会場に行列が到着する。
 三々五々と見物客も集まってきた。私達のように県内から帰省した人もいれば、県外から帰省してきた人もいる。何十年ぶりかに会う人、その両親は知っているけど、本人に会うのは初めてという人もいるが、本町のどこの家とはすぐわかる。懐かしい顔ぶれだ。私のことも直接は知らなくても親の名前を言うと、「ああ娘さんね」とすぐわかってもらえる。
お喋りに興じているうちに、楽器隊が到着する。舞台の上に三味線二人、胡弓一人、和太鼓一人、唄い手一人が定位置に着く。まずは皆で唄を歌う。踊り手はこの時はまだ足の動作だけ。儀式的だ。水神様を迎えるのかもしれない。八月踊りは水神様に感謝をささげ、五穀豊穣と無病息災を祈願する祭りで鹿児島県の無形文化財にも指定されている。

今年は裏番

次にいよいよ本格的な踊りが始まる。哀愁を帯びた三味線や胡弓の音色が心地よい。それに太鼓と唄が加わる。三味線や胡弓の繰り返すメロディはしっかり心に刻まれ、飽きることがない。踊りを見に来ただけのつもりが、音楽を聴いて、心が過去へ呼び戻されるかのようだ。踊っている人達は一心不乱の真剣な表情だ。
小学生の時、街の通りで踊りの練習が幾晩もあり、その後本番に臨んだ。当時、本番の日は子供は浴衣、女性は黒い裾模様の入った着物、未婚女性はそれに御高祖頭巾(おこそずきん)をかぶる。男性は浴衣に黒帯、陣笠をかぶる。本町中央の道路上にやぐらを組み、その上で太鼓三味線胡弓を奏で、それに合わせて古老たちが踊り唄をうたう。踊り手はそのやぐらの周りに楕円の輪を作って踊る。昔は夜を徹して踊ったそうだ。街の人たちのほとんどが踊るか、中には踊らない人もいたが見に来たそうだ。
 もう人口も少なくなって空き家も多くなったこの町だが、この日は思いがけなく百名ほどは集まっただろうか。昼も夜も通りを歩く人がいない街なのにこんなに多くの人が集まっている。コロナ禍で五年ぶりなのも影響しているのだろう。祭りは公開される本番と、非公開の裏番が交互に来る。今年は五年ぶりで裏番、踊り手は平服だが、見に来るのは構わないとのことだった。
踊りは六曲。歌も音楽も口伝えで三百年以上続いてきたが、楽器や歌の担い手が減って来て、平成になり、八月踊り保存会を作り、歌詞を書き起こし、音楽は専門家に頼んで楽譜に起こしてもらった。役場で三味線や胡弓の弾き手を募集したところ、本町の住人ではない若者数人が参加してくれることになり、今に至っていた。ありがたいことだ。歌詞集ができたときに名を連ねた人も数人が亡くなり、ますます歌い手も減っていた。尋ねると、今後は来年の本番に向け、毎月踊りや演奏を練習する日を設け、新たに人も募集するそうだ。
 歌詞は越後、佐渡、須磨、大阪道頓堀と日本各地の地名が出てくる。楽器胡弓は中国のもの、踊りはどことなく沖縄や奄美の踊りに似てもいる。日本の北から南から、また中国とあちこちから来た人で昔はにぎわっていたのかもしれない。
伝言ゲームでさえ、たった数名でも正確に伝えるのは難しい。それなのに歌詞が四百年も受け継がれているのは驚くべきことだ。水神様への感謝のほかに、娯楽の要素もあったのだろう。人々は楽しんで歌と踊りを受け継いできたのだ。
たった一晩の八月踊り、今夜は懐かしい近所の人達と語りあい、哀愁を帯びた楽器の音を聴き、昔に思いを馳せた。この祭りがくれぐれも絶えずに続いて欲しいと思いながら帰路に就いた。
https://kankou-kimotsuki.net/archives/43516

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