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立食パーテー

 縁があって毎年十二月に開かれる、とあるパーティーに毎回参加していた。半分は義理だった。そもそもパーティーなんて世の中でもっとも苦手なものの一つである。“ティー”などと、こまっちゃくれた発音をするのも首がかゆくなってくる。ここは日本男児らしくパーテーと呼びたい。

 わけても立食パーテーというものは困窮を極める。片手に液体の入ったコップを持ってウロチョロするだけでも煩わしいのに、もう一方の手に皿を持たなければならない状況になると、それだけで肩が凝って頭が痛くなる。テーブルの上は空母のような巨大なオードブルの器や、誰かのコップやら皿やらがひしめきあっていて針を立てる隙もない。針くらいは立つだろうけれど、コップを立てる隙はない。それで常時、左手はコップのウーロン茶をこぼさないように、右手は皿に乗った食べ物や添えた割り箸が滑り落ちないように精妙なバランスを維持しなければならない。中国雑技団になった気分だ。そこへ脇から知らない人がどうもどうもと名刺入れに指を突っ込みながらズカズカ近づいて来るともうパニックになる。腕が何本あっても足りない。慌てててて目の前の誰かのコップや皿を押しのけて無理やり自分の食器を置き、ポケットから名刺入れを取り出す。窮屈な名刺入れの中から一枚だけを引き抜くのが乾燥肌の僕には難しく、いつも手間取る。家でこっそり練習してから来てるのに、やっぱり手間取る。手間取る僕を、相手は貼り付けたような笑顔で待っている。やっと取り出して差し出したらそれはさっき貰った他人様の名刺で、おやおやという空気が二人の間に流れる。僕はいっそう慌てててててて自分の名刺をまさぐり出して渡し直す。この度はどうも突然のことで、なんて訳のわからない定型文でモゴモゴ挨拶をして、しらじらしいお世辞を言い合って、その人とはそれで終わりである。その後一生関わることはない。一期一会にもほどがある。

 テーブルの上に目を落とすと、もはやどれが自分のコップだったか皆目見当がつかない。皿には自分で乗せた食べ物を記憶しているから分かる。しょうがないから新しく飲み物をあつらえようと思っても時すでに遅し、紙コップの入っていたビニールパッケージは空となってしどけなく倒れているばかりである。飲み物はあきらめて皿にエビチリなんかを控え目にしゃくって白けた皿を彩ってみる。控え目すぎてエビがのらなかったけれど僕は遠慮深いからそのまま赤いソースだけを割り箸につけてチビリチビリすすって会場内をぼんやり見渡す。みんな楽しそうにご歓談している。おひとり様だって「わたしはひとりでも幸せなのよ」というような得意げな顔で無暗に顎を突き出しながら箸をはこんでいる。自分だけ淋しく漂流しているような心地になる。そうすると助け舟のように顔見知りがやぁやぁと寄ってくる。ちょっと安心する。けれどそういう人はたいてい顔の広いフットワークの軽い人物で、会場内をくるくる立ち回っているから僕のところにいる時間も短い。すぐにまた僕はひとりぼっちになってエビのないエビチリをチビリチビリとやって会場を眺め暮らす。そこでふと、同じように淋しそうな美女と目が合って意気投合して会場を抜け出すようなことは1000%なくって、偶然にも若い娘さんと視線がぶつかろうものなら光の速さで顔を背けられる。

 テーブルの上にはたくさんのお料理があるのに、こういう場ではちっとも食欲が湧かない。冷めた手羽先もおいしそうだけれど立ったまま手や口を油だらけにして食べる気がしない。そこへまた名刺を突き出されたら困る。鶏の手も借りたい。くたびれたシーザーサラダは小さな紙皿にのせるにはもさもさしてかさばる。かさばった葉っぱを割り箸の先で畳もうとするけどうまくいかず結局大口を開けて押し込むのも何だか恥ずかしい。その点、干からびたお寿司は手軽で食べやすいけれど、寿司なんていうものは白木のカウンターで無口な大将がぬっと差し出すぶ厚い下駄みたいな板の上から、申し訳程度に二つ三つ並んだのをもったいぶってつまんで食べるから美味しいのであって、エビチリだの手羽先だの無骨な東西の料理が肩を怒らすグローバルなテーブルの上で蜂の巣みたいにキュウリ巻きがぎゅうぎゅうに並んでいるのを見ても食べる気がしない。握りつぶした米にキュウリが刺さっているだけに見える。キュウリと言えばときたまスティック野菜なんていうのがワイングラスに入れられてテーブルの上につんと澄まして立っていたりするけれど、田舎娘が上京して立ちんぼしてるみたいでなんだか胸騒ぎがする。

 せめて席に座って食べられればと思う。立ったままモグモグして、モグモグしながらペチャクチャして、ペチャクチャしながらウロウロするのはお行儀が悪い。立ったまま食べてもいいのは蕎麦だけだ。だけどあいにく僕は蕎麦アレルギーだ。とかくこの世は生きにくい。そうやって自分の不器用さを世間の不便に責任転嫁して心の弱さを慰めているうちに会場が温まってきて、つまらない余興で盛り上がって、余興が終わったのか終わっていないのか分からなくなってきて、全体の雰囲気が分裂しだして、温度にムラができて、一人二人と帰りだす人が現れる頃、ようやく気持ちが片付いて僕も会場を後にする。
 会場を出ると冬の夜の冷たい空気が気持ちよい。自分が自分に戻った気がする。街路樹にクリスマスのイルミネーションが灯っていてそれが滲んで大きく見える。肩を寄せ合うあの恋人たちに多大なる不幸の訪れんことをと祈りつつ、例年帰り道はおしっこを我慢しながら凍えて歩くのだった。

 家に着くと、あぁやっぱり家がいちばんだ、なんて海外旅行から帰ったような大袈裟な気持ちになる。そして帰路にコンビニで買ったお菓子を食べる。そのおいしいこと。しんとした独り暮らしの部屋で、ついさっきまでいた会場の喧騒がまだ耳にこだましている。頂いた何枚かの名刺を紙芝居のようにめくりながら、特に思うこともないけれど、あのときああ言えば良かったなとか、あのタイミングで何故こういうジョークが飛ばせなかったのかと、ぐずぐず反省しているうちに劣等感と虚無感に食傷されて、もう来年は家で大人しくしていようと決意する。そんな調子だから、毎年そのパーテーに通う恒例も十一年目でやめた。




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