忘れられた物語
喫茶店のテーブルに、誰かの忘れていった本がある。
街を見下ろす窓際に、持ち主のいない小説が横たわって
いる。
眼下には街をゆく人々の足がひらめいている。小説の
文字のように小さな人の頭が、さかまく渦のように波打
っている。何かから逃げるように、何かを追いかけるよ
うに。
街はいつも書きかけの小説だ。そこにはすべてが書い
てあり、そしてなにも書かれていない。そこにはなんで
も書けるが、そこにはなんにも書けない。文字は生まれ
つづけ、崩れつづけ、流れつづける。言葉になるまえに
ほどけて、とけて、渦になる。そこに意味はうまれない。
ただ硬い靴音だけが冷たく響く。はじまりも、終わりも
ない物語。
何もかんがえたくないときは、街に出るといい。街を
ゆく人々のなかに、わたしが知っているひとは一人もい
ない。街をゆく人々のなかに、わたしを知っているひと
は一人もいない。この街では誰もが、誰かの他人だ。誰
もが、誰でもない。街は他人でできている。エキストラ
しかいない物語。背景しかない舞台。
わたしは湯気の立つ熱いコーヒーを掌につつみながら、
見知らぬ人の、見知らぬ小説を読みはじめる。この街で、
誰にも忘れられた言葉を。持ち主は小説を忘れたが、ほ
んとうは、持ち主が小説に忘れられたのかもしれない。
わたしは街を見下ろすように、小説に目を落とす。
はっとする。
主人公が私と同じ名だった。私は読んでいるのだろう
か、読まれているのだろうか。
街は、主人公のいない物語である。
街をゆく人々は、物語を忘れた主人公である。
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