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卓球部テンマツ記

 高校の時は卓球部でした。なぜ卓球部を選んだかというと、中学のときに卓球部だったからです。中学では熱心に部活に打ち込んでいました。高校ではどんな雰囲気なのかわからなかったけれど、他にやれそうな運動もないので無難に卓球を選びました。

 私が入部した当初はなぜか三年生がいませんでした。二年生が最上級でした。中学に比べるとずいぶんラフな雰囲気でした。問題は先代が卒業して私たちの代になってからです。部員の数が少ない上にまとまりがなく、活動はほとんどなくなってしまいました。そもそも顧問が部活動に顔を見せないのでした。副顧問は名前すら知りませんでした。卒業アルバムの撮影のときにはじめて見たくらいです。我らが卓球場は滅多に照明の点されることもなく、サッカー部やバスケ部が休憩中にピンポンをしに来るていどの賑わいでした。

 それでも週に一度は部活動が必修の日があったので、そのときだけは部員が集まりました。顧問は一瞬顔を出すくらいでしたが。
 しかしその貴重な一日も、めいめいが宿題をやったり、本を読んだり、隣のスペースで踊っているチアリーディング部を見学したりと、おもいおもいに時を過ごすのでした。奥から柔道部員たちが汗だくでのっしのっしと通っていくときだけ、私たちは居ずまいを正して小さくなりました。

 当然のことながら夏休みは一日も休まず休みました。やることにはなっているけれど、やらないことになっていました。ただし一回も活動がないというのは体裁がわるいので、ほんの一日か二日、活動の義務をもうけました。
 ある夏、その義務を果たしに蝉の声がしみ入る薄暗い卓球場へ繰りだしてみますと、卓球台のうえに牛乳パックがひとつ、置いてありました。嫌な予感がしました。というより嫌なにおいがしました。誰かの自由研究だったのでしょうか。牛乳パックは夏休みに入ってからそこで熟成の時を重ねていたようです。私たちは洗面所へ行ってほぼヨーグルトが完成している中身を、鼻をつまみながら放流した思い出があります。
 そのとき部活に集まったのは私をふくめて総勢二名でした。

 そんな部活だけれどちゃんと大会にも出場しました。ちゃんと顧問から日時と場所の伝達がありますので、あとは各自でちゃんと現地集合です。そしてちゃんと午前中には解散しました。お弁当は不要です。会場で顧問の姿を目撃した者は一人もいませんでした。私たちは信頼の厚い部員だったのです。
 そういえば、大会当日の朝、ラケットを卓球場へ置き忘れたことに気がついて、ちゃんと学校へ寄ったことがあります。ところが卓球場の入り口はちゃんと施錠されていました。どこか侵入できる場所がないか探してみました。運良くひとつの窓に鍵がかかっていませんでしたが、運悪く女子更衣室の窓でした。
 ひと気がないから窓へよじ登って侵入できそうだけれど、そういう時に限って教員が通りがかりそうな予感がします。そうしたら私の高校生活もそこで終了となるでしょう。どうせ一回戦で負けて帰ってくる試合のためのラケットより、“真面目でおとなしい生徒”の名誉を守ることにしました。
 その日の大会はいったいどうやって対戦したのか覚えていません。おおかた学校で履いているスリッパでも持っていって参戦したのでしょう。

 私たちの愛すべき卓球部も、新入生が入部してからは、にわかに活気がよみがえりました。後輩たちが真面目に練習をしてくれたので、すっかり部活動らしくなりました。放課後の卓球場には、ボールをつく音、キュッキュッとフロアを擦るシューズの音、スマッシュを打ち込む豪快な音、威勢のいい掛け声が戻りました。おかげで私たち上級生は安心して宿題をしたり、読書をしたり、チアリーディング鑑賞にふけることができました。

 そんなある日、私は後輩から「先輩お願いします」と練習試合を申し込まれました。私は久しぶりに本気を出してみようとジャージの袖をまくりました。
 ルールのおさらいをして、ラケットのどちらがおもて面かも入念に確認しました。まだ若いもんには負けません。サーブを打つとき、後輩に睨みを効かせながらピンポン玉を地面についたら、おもいのほか弾んでおでこに当たりましたが、試合はすんなりストレート負けでした。
 後輩はニヤニヤしながら私の背中をたたいて励ましてくれました。でも彼は一方でちゃんと先輩を立てられる愛嬌のある奴だったので、ちょっとしか殺意が湧きませんでした。

 ふり返ってみると高校時代にラケットをにぎったのはかぞえるほどでした。顧問が部活を放置しているのも悪いけれど、他の部活だっていつも顧問がいる訳ではありません。それよりも現場にいる部長が音頭をとって、少人数ながら和気あいあいと活動すれば、もうちょっと爽やかな汗をかけたはずです。チームのやる気は自然に生まれるものではなく、リーダーという火付け役が必要なのです。だから私たち部員が悪いのではありません。入部したおりに最初に部長を決めたと思うのですが、あのとき任命されたのはいったいどこのどいつだったか……おぼろな記憶をたぐりよせてみると、はしなくも私でした。どおりでこの三年間、たまに会う部員が口をそろえて「ブチョー、ブチョー」と私を呼んでいたわけです。
 そんなブチョーは当時アルバイトに熱中していて学校が終わったらすぐにロッテリアへ向かわなければならなかったのです。



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