熱帯魚
子供のころ、実家は自営業を営んでいた。熱帯魚関係の仕事だった。店舗で魚を売っていた訳ではなく、熱帯魚店を開業するためのコンサルタントのようなものだった。しかし実際のところ何をやっていたのか子供の私にはよくわからなかった。
商売柄、家ではたくさんの熱帯魚を飼育していた。近所に倉庫があって、天井の高い空間へ壁一面に水槽を並べていた。水族館のようだった。グッピー、エンゼルフィッシュ、ウーパールーパー、ディスカス、アリゲーター、アロワナ、ピラルク、ピラニア、その他名前の知らない種々の魚がきらきらと蛍光色を反射して泳いでいた。
倉庫の中はいつもむっとする温度で、独特の野趣のある匂いに満たされていた。どれだけ数が多くても魚は鳴かないから、倉庫はいつも静かだった。水槽にエアポンプのあぶくの弾ける音が絶え間なく響くばかりだ。そこで私はときどき水槽の水換えを手伝った。水の音に囲まれて倉庫に一人佇んでいると、私は不思議な心地よさをおぼえた。
魚以外にも生き物がいた。イグアナは水槽のなかに据えた流木の上にいつも四角張ってとまっていた。狭い水槽の中で、長い尻尾を折り返してじっとしている。彼はまるで静止画のように動かない。動くのが見たくて水槽の前にしゃがみこんで待っていても、こちらが根負けしてしまうのだった。剥製なんじゃないかと思われた。けれどたまに餌のキャベツをおもむろにくわえて、ゆっくりと咀嚼していることもあった。見た目は恐いけれど、大人しくておっとりとしているから可愛く思った。
ワニもいた。小さなワニだ。やはり水槽の中へ入れていた。ワニもまた無用な運動はせず、じっとしていた。いったい彼らは水槽の中で何を考えていただろう。
なぜか分からないけれど、サルもいた。リスザルであった。リスザルは商材なのか、父親の趣味なのか、分別がつかなかった。狭い檻のなかを忙しく行ったり来たりして、いつも驚いたような顔でビー玉みたいな瞳をキョロキョロさせていた。つがいで飼っていたので、私たちは彼と彼女に、悟空とチチという当時流行っていたアニメに登場する夫婦の名前を付けた。けれどサルは凶暴ですばしっこいから、檻から出して一緒に遊ぶ機会はなかった。
加えて当時は飼い犬もたくさんいたから、うちはずいぶん賑やかだっただろう。いつかうちへ遊びに来た学校の同級生は「動物園」と言った。日本中が好景気に沸いていた時代だから、そんな贅沢もできたのだろう。
バブルがはじけると家業も傾き、やがて商売を畳んだ。そして自宅も倉庫も売り払って、家族はアパート暮らしになった。その後、あの“動物園”の住人たちがどのような運命を辿ったのかはわからない。
幾星霜が過ぎた。今は家族も離れ離れに暮らしている。私はつい先年、近所にある熱帯魚屋にふらりと入ってみた。扉をくぐると、熱帯魚屋に特有の、むっとした空気と野性味のあるざらついた匂いが鼻をついた。それは臭くて、そして懐かしい香りだった。
薄暗い店内で、生き物たちは水槽のさびしい照明を浴びながら、鳴きもせず暴れもせず、小さな生命の灯をひそやかに燃やしていた。水面にはじけるあぶくの音が絶え間なく響く。
いくつかの水槽は水替えの最中だった。床の排水口へ、どこからか伸びてきたホースの口が、ちょろちょろと水を吐き出していた。水は底の見えない暗闇へ音もなく落ちていった。
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