今日はどうされますか
子供の頃から四十歳手前まで、一貫して同じ美容室に通っていた。かれこれ三十年ほどになる。担当者もずっと同じHさんだった。若い頃は松田聖子にそっくりの美人だった。後年は気さくなおばさんになった。
この美容室はその昔、母親が通っていた店だった。小学生のときに僕がそれまでのスポーツ刈から真ん中分けにしたいと言いだして色気づいたので、母は自分の担当のHさんに電話で根回しをして、僕の美容室デビューをお膳立てた。はじめての美容室は事前に母から髪型の要望を伝えてあったので、僕はちょこんと座っているだけだった。その頃はまだ、毎回母に予約してもらっていた。
中学生のときも、高校生のときも同じ美容室に通った。二十歳頃に一家で少し離れた地域へ引っ越しをしたけれど、引き続き車で通った。特に愛着があった訳ではないが、馴染みの店の気楽さが捨て難かった。
担当のHさんは店のオーナーの奥さんだった。夫婦で切り盛りをする小さな店だった。いつも一人か二人の若い従業員を雇っていた。しかし若者の顔はくるくると入れ替わった。
Hさんの雑談の中に、息子さんのことがよく出てきた。美容師の専門学校に通っていると言っていた。あるときから太った不器用そうな男の子が店で働きはじめたけれど、それがHさんの息子さんであることを知ったのはずいぶん後だった。
息子さんは気取ったところがなく素朴で愛嬌があった。いつか息子さんが洗髪をしてくれたとき、彼はニット帽を目深にかぶっていた。僕はそれを、彼の美容師としての気取りだと思っていた。が、洗髪台に僕を座らせると彼は「今日寝癖ついちゃってて帽子とれないんすよ」と小声で打ち明けた。僕はそういう彼が気に入った。
そんな彼もいつしか自分の店を持ち、オーナーという肩書になっていた。同じ地域に店を出し、親の店も手伝っていた。オーナーになった彼はすっかり貫禄がついていて、かつての寝癖のついちゃった彼を思い出すと、その成長に感慨を深くした。
僕は雑談が苦手なのでカットをしている最中はあまり話をしない。Hさんもそれをご存知だからいたずらに話しかけたりしない。ときどきこちらの調子が良くて珍しく話の弾むこともあったけれど、たいていは雑誌に目を落とすか、瞑想に耽っていた。けっして鏡は見なかった。三十年通っても慣れないものは、鏡の中の自分の顔だった。
「今日はどうされますか」「いつもと同じ感じで」それしか会話のない時もあった。「いつもと同じ」だけで万事の済むことが僕にとってこの店に通う唯一の単純な理由だった。新しい美容室へ行って「どうされますか」と言われても、何と言っていいかまるでわからない。そんな消極的な理由で三十年おなじ店に閉じ込められているようなものだった。
オーナーはいかにも美容院のオーナーという洒脱な風体で、いつもクールに取り澄ましていた。上得意であるはずの僕の顔はさすがに見知っているだろうけれど、会話をしたことは一度もない。しかしそんなドライさが、かえって僕の性に合っていたのかもしれない。
そのお店にも平成が終わると共にぱたりと行かなくなった。一つはコロナ禍で利用しづらくなったことと、いま一つは生活環境の変化にともない自家用車を手放して通いづらくなったためだ。そうしてひとたびセルフカットや千円カットに挑戦してからは、美容代を掛けるのが馬鹿々々しくなってしまった。実情に合わない古い慣習に縛られていることに、いつも心のどこかで違和感を覚えていたから、これもよい機会だったと思う。
そういえば、母親のカットについていった幼い頃、母の施術が終わるまで店の奥の休憩所のような場所で遊ばせてもらった記憶がある。ひとりで遊んでいると、若き日のオーナーとそのときの従業員がやって来て構ってもらった。オーナーに促されて収納箱の中に入ったら面白半分に蓋を締められてしまった。中は真っ暗でなにも見えないから僕はすぐに出ようと思ったけれど、外から蓋を押さえつけられて出られなかった。外からオーナーの笑い声が聞こえた。
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