藤田嗣治と黒澤明と河合隼雄の『母性社会日本の病理』
フジタとクロサワ
画家の藤田嗣治と映画監督の黒澤明について考えてみるとこの二人、共通点があります。
二人とも父親が陸軍の軍人、特に戦いに出る軍人ではなく、医者と教育者としての軍人だった、ということ。
もう一つは、世界的な名声を持っていたということですね。
しかし、二人とも日本社会のサポートに絶望し、藤田は海外に移住し、黒澤は、長い間、海外資本で映画を撮らざるをえなくなった、と。
どうも当時の日本社会は、世界的な芸術の才能を持った人物を充分に活かせなかった、充分にサポートできなかったんでしょうね。
「芸術の才能」とは、すごくシンプルに考えれば「オリジナルな何かを生み出す力」で、その力は人と同じように生きて、同じように考えていたのでは生まれないわけです。
人とは違う視点、変わったことを試せる能力が重要になります。
しかし、そのような人間を、日本社会は、集団に同調させようとします。
「人と同じことをやれ」
「人と違って恥ずかしいぞ」
とね。
どうしてこういうことが起こるんだろうと考えてみると、日本は母性原理の方が強い母性社会だからではないでしょうかね。
母性社会日本の病理
「母性社会」とは、心理学者の河合隼雄が1976年に提唱した卓抜した日本文化論です。
河合によれば、人間の心には父性と母性の原理の対立があり、この対立する原理のバランスの取り方によって、その社会や文化の特性が作り出される、と。
父性原理とは、極端に言えば子供をその能力や個性において類別し、「よい子だけがわが子」という規範によって鍛えてゆく、と。例えば、多くのキリスト教がこれに当てはまります。
一方、母性原理とは、我が子である限りすべて平等に可愛いのであり、子供の個性や能力は関係ない、と。例えば、多くの仏教がこれに当てはまります。
どちらにも良い点があり、悪い点があり、そのバランスを取ってある社会は成立していくわけですが、日本社会は古くから母性原理が強く、そのためすべての区別があいまいにされ、すべて一様に灰色になり、白と黒とのハッキリとした対立は示されない、と。
なるほど、なるほど。
日本社会は「才能」や「個性」を重視しない
つまり、日本社会は、古くから、「才能」や「個性」を重視しないわけです。それは、きっと、今もそうですね。昔より多様性が認められてはきてはいるように見えますが、全体としては。
そのため、藤田や黒澤のような存在は、河合の名付けた「場の論理」みたいなものからはみ出す存在であり、日本社会でと〜ても重視される「場の平衡状態」の維持に危険をもたらすわけです。
わかりやすくご説明しますと、日本で、ある人数が集まって会議とか寄り合いとかをする場合、その場で本当に意見を戦わすよりも、事前になんとなーく内容が決まっていて、なんとなーく話をしつつも、なんとなーく落としどころに落ちていく、みたいなこと多いですよね?それが「場の平衡状態の維持」です。
で、そこで、なんとなーく落としどころに落ちていく結論とは違う、しかし正しい意見を言うとしますよね。
それは日本では通らないんです。正しいことを言ってても、「わかんねぇ奴だ」とか言われたりします。それが「場の論理」です。
この場合、みんなでなんとなーく諒解している「場の論理」に、正しいか正しくないかという「個の論理」を持ち込んでるわけです。「場の論理」というのは、正しいか正しくないか、善か悪か、とは別の判断基準なんです。
面倒くさいですね?(笑)
ほんと、もう、くだらない、と、わたしは昔から思ってたんですが、しかし、それはそれで重要な知恵なんでしょう。社会を維持するための方策なんでしょう。
河合隼雄の『母性社会日本の病理』はとても示唆に富んだ本で、特に昭和40年生まれの私より上の世代の日本社会に属する人には、ほんとに参考になると思います。我々より若い世代の頃は、母性原理が多少薄れていたかもしれないので、参考になるかどうかわかりませんが。
結論
結論としては、
「アジアから離れた方がいいかも」
ってことです。本書で河合が記した、おおよそ下記のような内容があります。
ある若者が大人になるためには、あるいは自我を確立するためには、イニシエーション(通過儀礼)が必要になります。
年がたてば体は大人になりますが、心まで大人になるわけではないんです。いますよね。いい年して子供みたいな人。
で、イニシエーションというのは父性原理によって行われます。しかし、日本では母性原理ばかり存在しているので、若者は父性を求めて右往左往して、結局イニシエーションが行えず、「永遠の少年」になってしまう、と。
父性とか母性とか言ってるのは、男とか女とかということではなく、例えば、多くの大学も母性原理で運営されてるわけです。日本では。ですから、イニシエーションを求めて大学に入っても、それが得られないわけです。
なるほどなぁぁ。
そうすっと、あれですね、藤田や黒澤のような存在、あるいは人とは違う才能を持ちたいと願っている、あるいは持っているという人は、日本社会とは離れるべきすね。日本社会っつーか、母性社会から。だから、アジアから離れるべきかもね。結論としては。