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小説:「恋の奥志賀高原音楽塾」 第ニ話



第6章 五日目 白根火山、万座温泉、混浴


木々の葉からしたたる滴が美しい朝の奥志賀高原。

高原センターの前の広場を、ゲーダイとサダオが話しながら歩いている。二人とも、首にタオルを巻いてる。


食堂。マコとミサキが朝食を食べている。ミサキが話している。

「なんかさ、すっかり師弟だね」

マコが尋ねる。

「ゲーダイとサダオ?」

ミサキが答える。

「うん。今日も朝早くから2人で練習してさ、一緒に朝の散歩してさ」

マコがミサキの向こうを見て、驚く

「あっ」

首にタオルを巻いたゲーダイと首にタオルを巻いたサダオが朝食のプレートを持ってやってきた。サダオが言う。

「あれ?タツヤくんは?」

ミサキがビックリしてサダオを見ながら、答える。

「れ、練習してるみたいです」

サダオがテーブルに座る。「あ、ここで食べるんだ」という顔でマコとミサキが見る。サダオが気にせず言う。

「しかしさ、今日、木曜日なんだってな。まいっちゃうよ、まだ4日しかたってないんだな。てことは、日本に来て、まだ5日しかたってないじゃん」

サダオが、なぜか悔しそうにパンにバターを塗り始めた。なにを言ってるのか、皆よくわからなかったが、ミサキが尋ねてみた。

「もっと早く過ぎた方がいいんですか?」

サダオが、なぜか悔しそうにパンにバターを塗っている。

「うん。20日ぐらいにさ、神奈川フィルのヒロヤスくんと、うまーいナポリタン食う約束してんだよ。早く食いたいよ」

マコが不思議そうに尋ねる。

「「20日ぐらい」って?」

サダオが、なぜか悔しそうにパンをムシャムシャ食べながら答える。

「ヒロヤスくんが、「お店予約しておきますね、20日で良いですね?」なーんて言うからさ、「20日ぐらい、ってしといてくれよ」って言ったんだ。いくら約束だからって縛られるの苦手なんだよな」

3人はキョトンとした。ツッコんでいいのか悪いのか、よくわからないので、マコが話題を変えた。

「サダオ、ゲーダイはどう?」

サダオは、急に笑ってコーヒーを一口飲んだ。

「そりゃ、わかんないな。重要なのはさ、練習したかどうか、その練習の質が良いかどうか、だよ。ここの来る人たちは練習はするだろうけど、重要なのは練習の質なんだよ。練習の質を高めるには、先人に聴いてもらって、その場でアドバイスをもらうのが一番だけど、その点、ヒトミ君はオレに目をつけたわけだから、筋がいいよ。それは言えてる」

ゲーダイが「えへへ」と笑ってパンをかじった。そのゲーダイを、ミサキとマコがいぶかしげに見た。




音楽堂で4人が練習している。弾き終えて、マコがちょっとビックリした顔でいう。

「なんか良くなってない?」

ミサキもちょっとビックリした顔で言う。

「ほんと。ほんと。いい感じになってる。ハーモニーがよくなってるよ。ねぇ?ゲーダイ?」

ゲーダイが首をかしげる。

「ごめん。わたし、よくわかんない。まだ自分のことに一杯一杯で。。。」

ミサキがフォローする。

「いいのよ、いいのよ。でも、サダオ先生にくっついた成果がすぐに出たじゃなーい。良かったじゃなーい」

ミサキが微笑みかけると、ゲーダイも微笑んだ。


4人が奥志賀高原リゾートのバス停に立っている。エンジ色と白でデザインされた長野電鉄のバスがやってきて、止まる。みんな乗り込んで、一番うしろの席に並んで座る。

道中、みんなそれぞれに左右前後を眺めている。

猿の群れが道ばたで休んでいる。子猿が可愛い。

蓮池のバスセンターで4人が降りる。ちょっと先のバス停に止まっている長野電鉄の「白根山」行きバスに乗り換える。

渋峠に登っていくバス。登るに連れ、だんだんと下界の町並みと南アルプスの雄大な景色が広がり始める。

渋峠の手前、長野と群馬の県境あたりに来ると、道の上に温度計があった。タツヤが言う。

「わー。19度だって。さすがに涼しいんだなー」

マコが尋ねる。

「下界は何度?」

ミサキがガラケーを調べる。

「東京では32度だって」

マコが言う。

「夏に涼しいとこにいてさ、下界の人々は暑いんだろうなーって思うと、なんか幸せ感じない?」

みんな少し考えてから、同意してうなづく。


群馬側に入って少し進み、国道の日本最高地点を通り過ぎると、風景が変わる。見通しのよい、すごく高低差のある、でも草原みたいなところに出る。マコが左側の窓の外を見る。

「わー、すごい景色」

タツヤが釣られて左側の窓に顔を近づけると、マコと頬を寄せ合うようになった。マコが少しポッとなっていると、ミサキとゲーダイも頬を寄せて同じ窓から見ようとしはじめた。マコが言う。

「なによ。あんた達、他の窓もあいてるでしょ」

ミサキが悪い笑顔で言う。

「だってぇー、タツヤといい雰囲気になっちゃマズいからー」

みんな笑った。

バスが白根火山バス停に到着した。バスを降りる4人。8月とは言え、平日の乗車客は少ない。

あたりを見回して、ミサキが声をあげる。

「うわー、スゴいとこねー」

ゲーダイが、ちょっと離れたところにある小さな建物を指さしてタツヤに尋ねる。

「あれなに?」

タツヤが、ゲーダイが指さす方向を見て、答える。

「たぶん、シェルターだよ。もしも噴火した時に逃げ込むの」

ゲーダイが高い声で可愛い子ぶる。

「えぇー?噴火するのー?」

タツヤが答える。

「何度も噴火してるらしいよ。この前は20年くらい前らしい」

ゲーダイの反対側から、マコが「いやーん。こわーぃ」と言いながら、タツヤの腕につかまった。ゲーダイが、「あ、やられた」という顔をして、「こわーい」と言いながらタツヤの逆の腕につかまった。3人でやじろべえみたいになった。

少し離れた所にいたミサキが急いで戻ってきて、タツヤの正面に立った。腕はもう埋まっているので、正面から抱きつこうとするが、タツヤの左右にいるマコとゲーダイが手を出して止めた。

白根火山バス停の近くに、ヘンなカタマリが一つできている。

マコとミサキに前進をはばまれながら、ミサキがタツヤに言う。

「なによ。こんなハーレム状態なのに、なんか言いなさいよ」

タツヤは、少し微笑んでいた。

「ありがとうございます。いい思い出になります」

マコが首を振る。

「いーえ。これから混浴が待ってるのよ。そっちの方が、きっと夢で何回も見るくらい、ステキなものだわ」

ミサキとゲーダイがケラケラ笑った。タツヤは困った顔をしている。



西武観光バスの青いバスが、万座温泉に向かうつづら折りの道を下っていって、万座プリンスホテルのバス停に止まった。4人が降りてきて、マコが言う。

「いやー、すごいとこねー。匂いもすごーい。地獄絵図みたーい」

ミサキが不思議そうに尋ねる。

「あんた、よく地獄絵図なんて知ってるわね」

マコが笑う。

「おばあちゃんが、子供の頃、よく見せてくれたの。でも、スゴいねー。こんな山の中にちゃんとしたホテルがあるんだねー」

ミサキが説明する。

「このホテルにも温泉はあるんだけど、混浴はそこのスキー場を降りていったとこにあるらしい」

マコがウキウキした様子で尋ねる。

「スキー場なんかあるの?」

4人で、ホテルの横の道を少し進むと、スキー場らしき、坂になった草原に出る。スキー場の向こうには、見渡す限り山々の光景が広がっている。マコが驚く。

「すごーい。奥志賀もいい眺めだったけど、ここもスゴいねー」

ミサキも驚く。

「ほんとだねー。東京から数時間で、こんなとこあるんだねー」

マコが、急にスキー場を駆け下りていった。

「うっひょー」

ミサキがそれを見て、ついていく。

「うっひょー」

タツヤはゲーダイを見た。ゲーダイは首を振った。

「あれはムリ。ぜーったい転ぶし」

たしかに、マコとミサキは途中で転んだ。しかし、すぐに立ち上がって、また走り出して「うっひょー」と連呼している。ゲーダイがあきれながら言う。

「若いなー、あの人たち」

タツヤがあきれながら、同意する。

「世界的ピアニストが、あんな感じだとは思わなかったなー」

ゲーダイが真面目な顔で言う。

「逆に、あんな感じだから世界的ピアニストなのかもよ?」

タツヤが少し考え込む。

「そうかも」

少し考え込んだあと、タツヤが「うっひょー」と言って駆け出し始めた。それを見たゲーダイも、負けじと「うっひょー」と声を出して駆け出し始めた。二人とも、途中で3回転んだ。



万座高原ホテルの入口に4人が立っている。泥と芝生を顔につけたまま、ミサキが厳しい顔でみんなに言う。

「いいね。みんな。ほんとに混浴だからね」

泥と芝生を顔につけたまま、マコが両手を挙げて叫ぶ。

「ヤッホー!コンヨクー!」

泥と芝生を顔につけたまま、タツヤが驚いてマコを見る。

「さすがだ。さすがの精神力」


万座高原ホテルの中にある売店の前に立っている4人。泥と芝生を顔につけたまま、タツヤがつぶやく。

「「湯浴み着」だってさ」

泥と芝生を顔につけたまま、ミサキがつぶやく。

「お風呂の水着みたいなヤツだね」

3人が湯浴み着をジッと見ている。泥と芝生を顔につけたまま、マコが叱る。

「ダメよー。ダメダメ。タオルだけ。いい思い出になるじゃない」

泥と芝生を顔につけたまま、タツヤが驚いてマコを見る。

「つ、つおい。さすがの精神力」

万座高原ホテルの混浴露天風呂は、内湯とは別に、露天で8つの浴槽があり、4種の温泉がひかれている。浴槽ごとに温泉の色が違っている。

男性用の出入り口から、タオルで前を押さえてタツヤが出てくる。たくさんの露天風呂を見て「へー」と感心する。

女性用の出入り口からマコの声がした。

「ゴー、ゴー、レディース、ゴー」

女性用出入り口から、タオルで前を隠しながらミサキとゲーダイが出てくる。ミサキとゲーダイは恥ずかしそうにタオルで前の全体を隠しているが、マコは堂々としている。タオルを腰に巻いて、ムネは腕で隠している。マコが露天風呂を見て言う。

「すっごーい、たっくさんお風呂あるー」

後ろからミサキが心配する。

「マコ、マコ、見えちゃうよ、見えちゃうよ」

マコが笑い飛ばす。

「見えたっていーじゃない。二人ともキレイだよ」

マコが露天風呂の方に少し進んでふと見ると、男性用出入り口で、ボーッとマコたちの方を見ているタツヤを見つけた。マコがムネを隠している方の手もあげて、両手を振る。

「あ。タツヤだ。タツヤー」

タツヤ、ボーッとしてマコを見ている。少し間を置いて、手を振り返す。マコが手招きしているので、タツヤはフラフラと近寄っていく。マコがビックリする。

「あ?鼻血出てる」

タツヤが指で鼻をこすって確かめる。

「あ、ほんとだ」

マコが心配そうな顔で言う。

「たーいへん。休んでなよー」

タツヤがきっぱりと首を振る。

「いやいやいや、それどこじゃねーでしょ」

タツヤが前を隠していたタオルで鼻を押さえた。マコとミサキとゲーダイが、ふとタツヤの下を見て、少し目をむいて、上を見て、また下を見た。3人が、自分の下の方をガン見していることにタツヤが気づく。

「あっ!」

タツヤは小走りに近くの湯船に入った。3人は、そんなタツヤを見て悪い顔で笑った。


川沿いの青いクリーム色の露天風呂に杯って、川の向こうを眺めている4人。マコが言う。

「はー、気持ちいいねー」

ゲーダイがうなづく。

「気持ちいいねー」

ミサキが笑う。

「これで、ほんと、みんな裸の付き合いだ」

ゲーダイが心配そうにタツヤを見る。

「タツヤ、鼻血どう?」

鼻にたくさん何かを詰め込んだタツヤがうなるように言う。

「・・・・・」

ゲーダイとミサキが耳に手をあてて聞き返す。

「なんて?」

マコが通訳する。

「「オレのことは気にしないで」だって」

ミサキが感心する。

「よく聞き取れるわねぇー。耳がいいのかな?」

うしろから声がかかる。

「おー、みんな!」

4人が振り返ると、セージが立っている。

「セージ!」

「セージ先生!」

セージが下に湯浴み着を着て、上半身裸で立っている。ミサキが文句を言う。

「えー?!セージ先生、湯浴み着ってー。あたし達はスッポンポンなのに」

セージがみんなの入っている露店風呂に入ってきながら、笑う。

「なーんでスッポンポンなんだよ。オレはムリだろー。立場があるからさー」

マコが笑う。

「そーよー。セージには立場があるわよ」

セージが言う。

「マコ、どう?混浴」

マコがビッグスマイルで答える。

「すんごく楽しぃ!欧米にないじゃない」

セージが首をひねる。

「欧米にないか?そうか、ヨーロッパの北の方くらいか。あるのは。でも、あそこら辺も水着着るから、ないのか。欧米には」

マコが尋ねる。

「草津、どうだった?」

セージ、タオルを頭にのせて答える。

「うん、すごく喜んでたよ」

セージ、マコ以外のみんなを見て言う。

「あのさ、この週末さ、マコを草津にちょっと貸してほしいんだ」

ミサキが言う。

「え?マコ抜けるの?」

セージが言う。

「草津で音楽祭やってんだけどさ、昔とっても世話になった先輩が来ててさ、どっから聞いたのか、マコのすごいファンらしくてさ、奥志賀に来てるんなら、草津で一曲弾いてくれって、すごい熱量で頼まれちゃってさ。。。」

マコが言う。

「そしたらさ、この4人で一緒に行こうよ。そしたら、空いた時間練習できるし。セージ、いいでしょ?」

セージが言う。

「うん。いいんじゃないか。あとで聞いてみるけど」

ミサキが言う。

「草津の一番いいホテルのスイートルームで、飲み放題食べ放題でお願いします」

セージが苦笑する。

「ミサキくん、厳しい条件出すねぇ」

ミサキ、少しふくれる。

「だってぇー、マコの演奏料とかウヤムヤになっちゃうんでしょ?きっと」

セージが苦笑しながら、うなづく。

「まーなー。日本人同士のお願いだからなー」

ミサキが言う。

「演奏料の話すると「あいつは金にうるさい」とか言われちゃうんでしょ?」

セージがさらに苦笑する。

「そーだなー。ほんとだ。わかったよ。草津の一番いいホテルのスイートルームで、飲み放題食べ放題でお願いしてみるよ。マコモもそれでいい?」

マコ、微笑してうなづく。

「えぇ。ありがとう、ミサキ」

セージが感嘆する。

「ミサキくんはいいネゴシエーターなんだなー。知らなかったよ」

ミサキが少し照れる。

5人が露天風呂に入っている。良い湯そうだ。セージが「あれ?」と声をあげて、タツヤに話しかける。

「どしたの?鼻血?」

タツヤ、鼻に盛大に何かを詰め込んでるので、鼻声だけど、力強く言う。

「ハナヂです。ハナヂですけど、この、もう二度と訪れることがないかもしれないハーレムを、いま去るわけにはいかないじゃーないですかー!」

セージ、すごく楽しそうに笑う。

「ふははははは。そうだな。その通りだ。ふははははは」




ホテル・グランフェニックス奥志賀の庭に、ネオンが浮かび上がっている。

ペンションの個人練習室で、タツヤが、汗をかきながら懸命にチェロを弾いている。

寮の個室練習室で、ゲーダイが全身を使ってヴァイオリンを弾いている。

音楽堂で、マコが一心不乱にピアノを弾いている。



ホテル・グランフェニックス奥志賀の2階のバーカウンターで、セージとサダオが並んで座って飲んでいる。サダオが声をあげる。

「えー!だいじょぶですか?あのチーム、2日も休ませて」

セージがスコッチを飲みながら、気軽な感じで言う。

「だいじょーぶだろー。マコもいるし。草津でも練習するって言ってたし」

サダオが言う。

「でも、室内楽はただの演奏とは別物ですよ」

セージがサダオの方に体を向ける。

「あのさ、サダオさん、マコって可愛そうなのよ」

サダオ、不思議そうな顔で、

「え?そうなんですか?」

セージ、体を元に戻して、スコッチを少し飲んで、言う。

「うん。彼女のパパ、ステージパパでさ、バイオリニストらしいんだけど、学校行かせないで、自宅学習にして、音楽漬けにしたんだって」

サダオが驚く。

「へー。今どき、そんな子いるんですねぇ」

セージ、難しい顔でうなづく。

「うん。アンネの真似らしい」

サダオが尋ねる。

「アンネ・ゾフィー・ムター?」

サダオが難しい顔で答える。

「そう。アンネも子供の頃、中学だっけ?カラヤン先生に見いだされてベルリンフィルとツアー始めちゃったから、ロクに学校とか行ってないらしいんだ」

サダオがうなづく。

「あぁ、そいえば、そんなこと言ってましたね」

セージがやわらかい顔になる。

「ま、それはそれでね、世界的音楽家になったんだから良かったんだろうけど、なんかさ、オレたちから見ると可哀想じゃない?同世代の友だち、いないんだぜ?」

サダオがうなづく。

「うーん、そら、そうですねー」

サダオがウィスキーを飲み干したので、セージはバーテンダーに「二人ともおかわり」と目配せした。セージが言う。

「オレもサダオさんもさ、子供の頃から同級生とか仲間とかいて、バカなことやったり、誰かを好きになったり、失恋したりしてさ、楽しかったじゃない」

サダオが、なんか神妙になる。

「そうですねー」

セージが言う。

「前さ、マコと話してた時、「友だちいないんだ」って言うのよ」

サダオが驚く。

「いないんですか?」

バーテンダーがおかわりを持ってきて、セージとサダオの前に置いた。バーテンダーが去って、セージが話し始める。

「いないらしいんだよ。ビックリしちゃったよ。ま、年上の友だちはいるらしいけどね、なんてのかな、同世代のさ、恋の話したり、ファッションの話したりっていう友だちがいないんだって」

サダオがウィスキーを口に含みながら言う。

「うーん。そりゃ、確かに可愛そうだ」

セージがサダオの方に体を向けて、顔を少し近づけた。

「でしょ?でしょ?だからさ、「室内楽面白いよ」って教えてあげたの。室内楽って楽器を通したナマの対話だからさ、オケでやってるより、みんな近づけるでしょ?」

サダオがうなづく。

「そうですね。なるほど」

セージが体を戻して続ける。

「だからさ、ここのこと教えたんだ。「みんなマコと同世代だから、参加しなよ」って。でもさ、誘った本人が言うのもナンだけどさ、あのスケジュール満杯の人気ピアニストがだよ、スケージュルキャンセルして、こんな若者向けの音楽塾に生徒として参加してくんだぜ?サダオさん」

サダオが「うーん」とうなづきながらウィスキーを飲んだ。スコッチを一口飲んで、セージが言う。

「だからさ、今回はマコに仲間と楽しくやらせてあげたいんだ。許して。サダオさん」

サダオが急にドギマギして、目の間に手を上げて左右に振りながら、

「いやいやいや、そーゆー深いお考えがあれば、ボクは何も」

セージが大きな笑顔をサダオに向ける。

「ミサキくん達にとってもいいことだと思うんだ。世界的奏者の実生活に触れられるわけだからさ、うんと得るモノあるよ」

サダオが笑いながら言う。

「斎藤先生たちと北軽井沢で合宿したようなもんですね」

セージが苦笑しながら手を振る。

「やめて、やめて。アレは思い出したくない」

サダオ、さらに笑う。

「はははは。オレも思い出したくないですよ。でも、勉強にはなりましたよね」

セージが、やっぱり苦笑している。

「まーなー。ナンだカンだ言って、トーサイさんには色んなこと教わったなー。あの人、怒りっぽくて人格に難があったけど、戦争前後は日本で最高のチェリストだったわけだからな」

二人ともグラスを口に運ぶ。

バーの大きな窓から、ライトに照らされて奥志賀の夜が浮かんでいる。



第7章 六日目 鼻血、情熱、生命力、就職


奥志賀高原音楽堂が夏の陽に照らされている。

音楽堂内でマコ、ミサキ、ゲーダイ、タツヤが合わせている。

4人の前で、首にタオルを巻いたサダオが立ちながら聞いている。

曲が最大の盛り上がりにきたところで、サダオが立ち上がったまま両手を振って言う。

「そうだ、そうだ、鼻血を出すくらいのフォルテだ!フォルテ!フォルテ!鼻血だせー!」

笑いが起こって、演奏が止まる。タツヤが不満げに言う。

「サダオせんせー、勘弁してくださいよー」

サダオがキョトンとする。

「なんで?いい意味で言ったんだぜ」

タツヤが苦笑する。

「いい意味ってなんすか?」

サダオが真顔で答える。

「なんていうか、生命力っていうか、情熱っていうか、それがここのフォルテだぜ」

タツヤが少しスネた顔で言う。

「先生たち、笑ってるでしょ?」

サダオが真顔で首を横に振る。

「そんなことないよ」

タツヤがスネ顔で繰り返す。

「ウソですよ。笑ってるでしょ?」

ミサキが半笑いで口をはさむ。

「笑ってんな。ぜーったい、笑ってんな」

サダオが頬をゆるめる。

「はは。ちょっとな。ちょっとだけな」

みんな笑った。タツヤは不満げ。



食堂で、マコ、ミサキ、ゲーダイ、タツヤがランチをしている。タツヤがふと向こうを見ると、女の子二人がタツヤの方を見て笑っていた。

「まーた笑われた。今日、もう5回目だ。「ハナヂ」とか呼ばれてんだ。きっと」

ミサキが笑いながら言う。

「「ジョーネツ」かもよ」

タツヤが小さくつぶやく。

「やめろ」

ゲーダイが笑いながら言う。

「「セーメーリョク」かもよ」

タツヤが小さくつぶやく。

「やめろ」

マコがするどく言う。

「タツヤが気に入らないなら、ぶん殴ってきてやろうか?」

みんなビックリしてマコを見る。ミサキがたしなめる。

「やめてよ。マコ。あんた、急にイケイケになる時があるよ」

タツヤが泣き真似をしながらマコに言う。

「ありがとう。マコ。でも、オレは、マコのステキな体を見られたから、それだけですごく幸せだよ」

マコが、ごく自然に言う。

「あら。また見せてあげよか?」

タツヤが無言でウンウンうなづく。ミサキがあきれる。

「やめてよ。あんたも、ウンウン、じゃないよ」

マコがつぶやく。

「あたし、体見せるの抵抗ないんだよねー。ママがダンサーでいつも体出してたから。タツヤが喜ぶんなら見せてあげるよ」

タツヤ、心から興味深そうにうなづいている。ミサキがあきれる。

「あんたもあんたも、やめなさいって。日本じゃ、友だちはそーゆーことしないの」

マコが「ちぇ」という顔をしたと、名案を思いついたように言う。

「あ。恋人ならいーんでしょ?タツヤ、恋人になろうよ」

ゲーダイがすかさず言う。

「ダメ。タツヤはあたしのこと好きだから」

ミサキも負けない。

「何言ってんの?タツヤは昔っから、あたしに気があるのよ」

マコがつっかかる。

「なによ。今頃先輩ヅラしないでよ。

タツヤが急に名案を思いついたように言う。

「そーか!」

3人がタツヤを見る。

「だーから、マコの舞台はいつもミニスカートなんだ?お客さんへのサービスなんだね?」

マコが照れる。

「さ、サービスっていうか、まぁ、それがウリっていうか」

タツヤ、感心して、興味深そうに、

「へー。自分で考えたの?」

マコ、やっぱり照れながら、

「うーん、エージェントと話し合って、、、」

ミサキが興味深そうに、

「へー。エージェントって、そんなことまで一緒に考えるんだ」

マコが答える。

「弾いてるだけじゃ、なかなかお客さん来てくれないじゃない?上の方に行くと、演奏だけでそんなにスゴい違いって聞かせられないのよ。ま、厳然たる違いはあるんだけど、普通のお客さんが聞き分けられるほどじゃない、っていうか。だから、視覚的な違いの方がわかりやすいじゃない?そんなことをエージェントと話してて、あーなったの」

3人が感心して「へー」と感心する。ミサキが「あっ」と思い出す。

「マルタ・アルゲリッチ知ってる?ピアニストの」

マコが答える。

「もちろん。パーティーとか、演奏会とかでよく会うよ」

ミサキが言う。

「あの人、毎年日本で音楽祭やってんだよ」

マコがミサキを指さして言う。

「あー、そうそう、別府でね」

ミサキが言う。

「何年か前、聞きに行ったんだ。ミッシャ・マイスキー出てたから。でさ、なんで大分の別府みたいな片田舎っていうか、観光地で音楽祭やってるかっていと、若い頃の友だちが企画出したらからなんだって」

3人が「へー」と言う。マコが尋ねる。

「へー。日本の人?」

ミサキが答える。

「うん。日本の人。伊藤京子さん。フランスに留学した時、アルゲリッチにピアノ習って、友だちになったんだって。気が合って」

ゲーダイが言う。

「へー。友情の音楽祭なのね」

ミサキがキラっと目を光らせて、ゲーダイを指さす。

「ゲーダイ、いいこと言った。その通り。友情の音楽祭!」

ミサキがマコを指さした。

「だからさ、マコ、あたしの故郷で音楽祭やってよ。町に企画出すから」

マコは不服そう。

「えー?やるのはいいけどー、「若いのに生意気だ」とか言われるんじゃない?」

ミサキが言う。

「だいじょぶ、だいじょぶ、小さい町だから人少ないし、生意気そうじゃないようにするから」

マコが笑う。

「生意気そうじゃないようになんて、できるのー?ま、いいよ。あんたの頼みなら。町に企画出してみなよ」

マコ、ミサキに手を伸ばして握手する。握手しながら、ミサキに顔を近づける。

「でも、飛行機代くらい出してよ」

ミサキ、顔を近づけたまま微笑んで言い返す。

「あたり前でしょ。なんとかするわよ。演奏代も」

マコは手を離してイスの背にもたれ、外に目をやる。奥志賀の緑がすがすがしい。

「あんたの故郷、夏も涼しいんでしょ?」

ミサキが答える。

「うん、わりとね」

マコが言う。

「じゃ、さ、8月にやろうよ。毎年。みんなも避暑になるでしょ?あたしも8月は休みにするから」

ミサキが、うれしそうに笑う。

「いいねー。盛り上がってきたねー」

マコがゲーダイとタツヤを見て言う。

「あんたたちも参加してよ。ミサキにお金出してもらって」

ゲーダイが目ヂカラを込めて言う。

「うん。必ず行くよ」

タツヤは少しぼんやりした感じで言う。

「行きたいけど、行けるかなー」

マコが意外そうに尋ねる。

「なんで?」

タツヤが答える。

「だって、来年就職だし」

ミサキがブーたれる。

「なんだよー、冷めること言うなよー。ムリに休んでこいよー」

タツヤが苦笑する。

「まだ入ってもいない会社休めるかどうかなんて、わかんないでしょ?それに、来年の夏は、シューショク早々だろうし」

マコが言う。

「そっかー。タツヤは就職する年なのかー」

ミサキが言う。

「あたしも大学院終わって就職の年だよ。あたしは就職はしないけど、気楽な学生生活は終わり」

マコが尋ねる。

「演奏の仕事はないの?」

タツヤが難しい顔をする。

「オケのちょうどいいとこに、ちょうどいい席が空いてればねー」

ゲーダイがうなづく。

「なかなか難しいみたいねー。先輩たちの話とか聞くと、強力なコネか運がないと」

マコが言う。

「あら、タツヤ、日本学生コンクール優勝者なんでしょ?コネないの?」

タツヤが難しい顔をする。

「日本学生コンクール優勝者なんて、毎年毎年生まれるわけだから。オヤジが生きてれば何とかなったかもしれないけど」

少し間。みんな飲み物を飲む。マコが気の毒そうに言う。

「そうー。演奏の仕事って、そんなにないの」

ゲーダイが言う。

「ないよー。パイ少ない上に、希望者多いしさー。マコがうらやましいよー。大変そうだけど」

マコ、愛想笑い。



第8章 七日目 草津温泉、次のステップ


志賀高原の木戸池の横を白い長電のミニバンタクシーが走っている。前の席にマコ、後ろの席の真ん中にタツヤ、その左右にゲーダイとミサキが座っている。後ろの荷物席にはチェロとビオラとバイオリンのケースが載っている。ミサキがマコに話しかける。

「いやー、でも、部屋楽しみー。奥志賀高原ホテルに続いて、スイートかなぁ?マコはスイート泊まること多いんでしょ?」

マコが前の席から右側の木戸池を眺めながら言う。

「うん。スイート用意されてること多い」

ミサキが身を乗り出して、前の席に顔を近づける。

「どんな感じ?」

マコが泣きそうな顔で後ろを振り返る。

「広いねー。広すぎる。奥志賀高原ホテルくらいのスイートだといいけどさー、よくあるのはあの2倍くらいあるからさー、一人だと困っちゃう」

ゲーダイが前の席に向かって身を乗り出して言う。

「ゼータクねー。マネージャーとかついていかないの?」

マコが答える。

「うん。あたしはね」

ミサキが提案する。

「そしたら、タツヤどう?仕事探してるし」

マコ、両手をホホにあてて、可愛い子ぶる。

「いいかもー。でも、タツヤとスイートなんか入っちゃったら、何されちゃうんだろー」

タツヤが低い声で答える。

「手込めだよ。手込めにされるよ」

車内が笑い声に包まれる。



タクシーは、横手山のドライブインを右に見て、渋峠を抜けて、白根山を抜けて、坂を降りていって、草津の温泉街に入った。

タクシーが大きなホテルの前に入っていくと、エントランスに日本人らしき人が3人、外国人らしき人が3人立っている。その前にタクシーが止まると、男二人が駆け寄ってきた。

タクシーの後ろのドアが開く。ミサキが出てきて、タツヤが出てきて、ゲーダイが出てきた。駆け寄ってきたメガネをかけた男がミサキに向かって話し始めた。

「これは、これは、どーもどーも、ヤン先生。ようこそおいでくださいました」

メガネをかけた男が名刺を胸から出して、ミサキに渡す。ミサキは渋々受け取る。うしろでゲーダイとタツヤが笑っている。メガネをかけた男が話しを続ける。

「わたくし、草津音楽祭で委員をやっております中沢でございます。ここ、私どものホテルでございますので、ご案内させていただきます」

中沢社長にくっついてた男が中沢に声をかける。

「社長、社長、」

中沢社長、振り向く。

「なんだ、なんだ、立花、なんだ」

秘書立花、右後ろの方を指さす。中沢社長が見ると、マコが外国人らしき人たちをハグして挨拶している。

中沢社長、少し立ちつくす。メガネをズリあげて、小走りにマコの方に向かう。



マコとミサキとゲーダイとタツヤが、仲居に先導されて部屋に入ってくる。ミサキが声をあげる。

「うわー、すごーい、ひろーい」

タツヤが声もあげる。

「ながめ、すごーい」

ゲーダイも声をあげる。

「・・・」

3人ははしゃぎながら窓際に駆け寄る。

マコ、冷静に、お金を袋に入れて仲居さんに渡す。

「ありがとう。これから、お世話になります」

仲居が固辞する。

「いえ、あの、こーゆーものはいただかないように音楽祭からキツーく言われております。お気持ちだけいただきます。ありがとうございます」

マコ、ちょっとビックリする。

「あら?そうなの?じゃ、無理に渡してあなたが困ってもいけないから。。。」

袋をしまう。仲居が言う。

「何かお困りのことがありましたら、何なりとおっしゃってください」

仲居が出て行って、マコが部屋の中を振り返ると、3人がジトッと見ている。少し間。マコが言う。

「なによ」

タツヤが感じ入ったように言う。

「マコって、やっぱ、大人だなー」

ミサキが同調する。

「大人だわー」

ゲーダイも同調する。

「チップの渡し方なんて、さりげなくて、カッチョいいものー↑」

マコ、苦笑。

「なにそれ?チップくらい渡すでしょ?」

タツヤが首を振りながら言う。

「いやー、さすがだわー。オレたちと違うわー」

ミサキが同調する。

「違うわー。ほんと、違う」

ゲーダイがうなづく。

マコが苦笑しながら窓際に寄って、4人で外を見る。見渡す限りの森が広がっている。マコが言う。

「いい眺めだけど、すごくいい眺めだけど、ちょっと森に飽きてきたわね」

みんな、うなづく。



4人がホテルのロビーでお茶をしながらキャッキャ言っている。向こうから中沢社長と秘書立花が小走りに寄ってきて、ミサキに話しかける。

「ヤン先生、いかがですか?お気に召しましたか?」

ミサキが「へ?」という顔になる。マコとゲーダイとタツヤが笑いをこらえていると、秘書立花がたしなめる。

「社長、社長、ヤン先生はこちらです」

中沢社長、懐から新しいメガネを出してかけ直す。ミサキをガン見してから、マコを見る。「あ!」と小さくつぶやいて、向きを変える。

「ヤ、ヤン先生、当ホテルはいかがでしょうか?」

マコは笑いながら答える。

「とっても良いホテルだわ。おもてなし、ありがとう」

中沢社長、少し笑う。

「あ、ありがとうございます。ただいま、ピアノの調律が終わりましたので、よろしければご案内しますが」

マコ、喜んで立ち上がる。

「えー!それはうれしー!見せて、見せて」




中沢社長と秘書立花が先を歩いて、マコがついていっている。その後ろを、ミサキ、ゲーダイ、タツヤが歩いている。ミサキが小さな声で言う。

「やっぱマコすごいよねー。「とっても良いホテルだわ」なんつってんだもん」

タツヤが同調する。

「セレブだね。セレブ」

ゲーダイも同調する。

「だねー。違うわー。さすがだわー」

マコが振り向いて小さな声で叱る。

「やめてよ。バカ」

ミサキ、ゲーダイ、タツヤがヘンな顔をして応戦する。あまりにヘンな顔なので、マコは苦笑する。




ピアノのある広めの部屋に入る。普段は物置らしい。ピアノの前に立って、中沢社長が詫びる。

「先生、すいません。家にあるピアノを持ってきたんですが、ご趣味に合いますかどうか」

マコが気軽に答える。

「いーの、いーの。ピアノがあれば」

中沢社長が重ねて詫びる。

「それと、こんな部屋で、すいません。24時間いつでも弾けるように、離れた場所に設置したもので」

マコが気軽に答える。

「いーの、いーの。いつでも弾ける方がいいから。みんなで四重奏の練習もできるし」



夕方の草津の温泉街。ミサキ、ゲーダイ、タツヤがタオルを首に巻いて歩いている。ゲーダイが言う。

「草津は色々あって楽しいねぇー」

ミサキが答える。

「志賀高原は何にもないもんねー。それがいいとこだけど」

タツヤが腕時計を見て、言う。

「マコはまだ練習してんのかな?」

ミサキが答える。

「まだ練習してるでしょ?だから一流の音楽家なんでしょ?あたし達と違うのよ」

タツヤが不服そうに、

「だって、もう2時間以上たったよ。明日は一曲しか弾かないから、練習早めに切り上げて、あとでどっかで合流するって言ってたじゃん」

ミサキがちょっと考える。

「そいえば、そうね。迎えに行ってみよっか?」




3人がホテルに帰ってくる。ロビーを通ると、ゲーダイがマコを見つけて「あら」と言う。ミサキとタツヤに手振りで教える。

マコが、高級な応接セットのようなイスに一人で座って、口を開けて爆睡していた。3人が少し見てる。ミサキが小声で言う。

「写真撮っちゃおっかなー」

ゲーダイとタツヤの顔が明るくなる。3人とも「イヒヒヒ」と小さくつぶやきながら近づいた。口を開けて爆睡しているマコを真ん中に、3人それぞれガラケーで自撮りを撮った。そして、3人それぞれに写真を見返し、口を押さえて笑いながら写真を見せ合った。親指を立てて「グッド」のサインをしあっている。

ミサキがタツヤにガラケーを渡し、「あたしを撮れ」というジェスチャー。ミサキは、口をあけて爆睡しているマコの口に人差し指を入れて、ガラケーに向かって笑っている。タツヤが写真を撮ると、マコが目を覚ました。

「なにしてんの?」

ミサキとゲーダイとタツヤが爆笑した。ホテルのロビーに声が響いた。

4人がロビーの応接セットに座ってお茶を飲んでいる。マコは少しボーッとしている。

「いやー、なんか、オンセンマンジュウ?出してくれたから、食べたのよ。おいしいのね。あれ」

ミサキが尋ねる。

「いくつ食べたの?」

マコが答える。

「4つ」

ゲーダイが驚く。

「食べ過ぎでしょ」

マコが笑う。

「そうなの?食べ過ぎなの?なんか、小っちゃいしさ、せっかく出してくれたんだから全部食べなきゃと思って、そしたら、なんか眠くて眠くて」

タツヤ、笑いながら言う。

「じゃ、温泉でも入りに行く?奥志賀と違って、ここは温泉街あるよ」

マコが両手を上げる。

「オンセンガイー!聞いたことあるー。行こう行こう」




夕方の草津の温泉街を歩いている4人。マコがうれしそうに、あちこち見ている。

「へー。ここは賑やかで楽しいねー」

ミサキが応じる。

「ねー。色んなものがあるねー」

マコが言う。

「楽しいなー。アメリカはヨーロッパにはないなー。この感じ」

タツヤが言う。

「よかったね。草津温泉来られて」

マコが言う。

「よかった、よかった。セージがヘンなお願いしてくれて」




マコとミサキとゲーダイが、西の河原露天風呂の広ーいお風呂に入っている。日が暮れかけているので、ライトアップされている。3人はキャーキャー楽しそうに、ハジからハジまで5分ほど歩いて、また戻ったりしている。とにかく、見たことがないくらい広い、25mプールが7、8個入るような広い露天風呂。




日が暮れた温泉街を4人が歩いている。マコが言う。

「さーて、食事しようか」

ミサキが不思議がる。

「え?なんで?ホテルで出るんじゃないの?」

マコが答える。

「それは明日の夜ね。今夜は、ここら辺のどっかで食べるの。だって、演奏の前の日に、たくさんご馳走食べて飲みまくっていられないもん」

気づくと、マコは一人で歩いていた。振り返ると、ミサキとゲーダイとタツヤが驚愕した顔で立ち止まってマコを見ている。マコがビックリする。

「あれ?どしたの?」

ミサキとゲーダイがつぶやく。

「ごちそう〜」

「ごちそう〜」

マコが苦笑しながら、3人の所に戻る。

「なによー。ここら辺でご馳走食べればいいじゃない」

ミサキが強い口調で抗議する。

「あんた、わかってないわね。ホテルで出るスゴいご馳走は、ここら辺で食べるとスゴい金額なのよ」

マコがちょっと困る。

「え?そうなの?ゴメンネ。怒らないでよ。あたしがオゴるよ」

ミサキとゲーダイ、少し顔を輝かせるが、タツヤが強い調子で言う。

「ダメだよ。マコ。仲間にそんなことしちゃ。ミサちゃんもゲーダイもダメだよ。マコの演奏のルーティンがあるんだから、尊重しないと。オレたちはオマケなんだから」

マコとミサキとゲーダイがタツヤを見る。見てる。見てる。ずっと見てるので、タツヤがドギマギし始めた。

「な、なに?」

マコが言う。

「いやー、タツヤ、かっちょいいなー。ほれ直した」

と言うなり、タツヤの右腕に抱きついた。ゲーダイが負けじと左腕に抱きついた。

「あ、やられた」

という表情でミサキがどこに抱きつこうか考えていると、タツヤが言う。

「ミサちゃん、やめて。ヘンなとこに抱きつかないで。白根火山のバス停と違って、みんな見てるよ」

ミサキが回りを見回すと、ほんとにみんな見てた。なぜって、そこは温泉街だから。




草津の温泉街にあるレストランで、4人が食事を終えた。ミサキがゲーダイに言う。

「ねぇ?ケーキ食べるでしょ?食べ放題だってさ」

ゲーダイ、何も言わずケーキが並べてある場所に向かう。ミサキもついていく。向かい合って座っているマコとタツヤが取り残される。タツヤが尋ねる。

「マコは食べないの?」

マコが苦しげに言う。

「温泉まんじゅう食べ過ぎたから」

二人、お茶を飲む。マコが言う。

「あたしたちって、何か似てるよね?」

タツヤが少しビックリする。

「そう?どこが?」

マコ、ケーキをみつくろっているミサキとゲーダイに目をやりながら、

「パパに音楽仕込まれてさ、パパを喜ばそうとしてたでしょ?」

タツヤ、少し考えた後、深くうなづく。

「あぁ、たしかに」

ミサキとゲーダイが、皿にたくさんのケーキを載せて帰ってくる。二人とも、テーブルに座って笑っている。ミサキがマコとタツヤを交互に見ながら、言う。

「あたしたちは、これから至福の時間に入るから、あんたたち、話しかけないでね」

マコとタツヤ、ビックリして「はい」とつぶやく。

ミサキとゲーダイが満面の笑みでフォークを持ち、ケーキにさして口に運ぶ。「おいしー」「うめー」とかブツブツつぶやいている。少し見てから、マコがタツヤに言う。

「でもさ、あたしのパパはまだ生きてるから次のステップ教えてくれたけど、タツヤのパパは早くに亡くなっちゃったから、次のステップわかんなくなっちゃったんじゃないの?」

タツヤ、バクバク食べているミサキとゲーダイを見ながら、答える。

「そうなのかなー?そうなのかもなー。なんか、昔ほど情熱持てないんだよねー」

マコ、バクバク食べているミサキとゲーダイを見ながら言う。

「パリに来なよ。あたしの家の部屋貸してあげるから。そこから、誰か先生んとこ行ったり、オーディション受けたりすれば?きっと、違う風景が見えるよ」

タツヤ、思いがけない提案にビックリする。

「え!そーれは、素晴らしいお話だけど、うーん」

マコ、タツヤを見る。

「なんで「うーん」なの?」

タツヤ、困惑する。

「だって、来年就職だしさ、ってことは、奥志賀から帰ったら、さすがに就職活動しないとマズいしさ。。。」

マコ、バクバク食べているミサキとゲーダイに目をやって、言う。

「就職なんて、いつでもできるじゃない。あなた才能あるんだから、使わないと。パパが鍛えてくれた才能を」

タツヤの顔が輝く。

「ほんと?マコから見て、オレ才能ある?」

マコ、作り笑いでタツヤに顔を向ける。

「もう言わない」

タツヤ、不審気に、

「なんだよー、、、意地悪だなー、、、言ってよー」

マコ、一度外を眺めて、またタツヤに顔を向ける。悪い顔で笑っている。

「いひひひひ。もう言わない」

「言ってよ−」「言わない」を繰り返すマコとタツヤ。ミサキをゲーダイはケーキをバクバク食べ続けている。




マコがホテルで練習していると、タツヤとゲーダイが静かにドアを開けて入ってきて、端の方に座る。

マコ、曲を弾き終えてから話しかける。

「どしたの?」

ゲーダイが答える。

「ゴメンね、練習中に。ミサキがいないからマコの練習聞いてんのかなーと思ってきてみたの。でも、いないね」

マコが答える。

「来てないよ。こんな夜に、どーしたんだろう?」




少し暗くなったロビーの応接セットに、ミサキが座っている。ケータイで電話している。

少し離れた角から、壁に手をかけて、マコ、ゲーダイ、タツヤが顔を出す。マコが小声で話す。

「なんで、こんなとこで電話してんの?」

ゲーダイが言う。

「男じゃない?」

タツヤが同意する。

「男だな」

マコが中腰になって、ミサキの方に中腰で近づいていく。ゲーダイとタツヤも笑いをこらえながら、ついていく。

ミサキが、いつもより一音高い、甘い声で話している。「やだもー」なんて言いながら、勢いで後ろを向くと、マコとゲーダイとタツヤが農民座りのような格好でミサキを見上げていた。ミサキは「ヒッ」と驚いてケータイを切った。マコが舌打ちする。

「あっ!切りやがった」

ゲーダイも舌打ちしながら言う。

「なんだよー。全然話聞けなかったじゃんよー」

タツヤが尋ねる。

「ミサちゃん、誰?誰?相手、誰?」

ミサキ、微笑する。

「そのうち、わかるわよ」

ミサキはなぜか余裕の笑みで部屋に向かった。農民座りの3人は取り残された。




第9章 八日目 チャリティライブ、ジュディ・オング、超絶技巧トルコ行進曲


当日の草津温泉は快晴だった。

草津音楽の森国際コンサートホールに人が入っていく。入口には手書きの看板が立ててある。

「ピアノの妖精マコ・ヤンが草津温泉に!緊急、一曲だけのチャリティ・コンサート」

会場に入ると、満員でムンムンしている。ミサキ、ゲーダイ、タツヤが一番うしろの左側の席に座っている。ゲーダイが感嘆する。

「すごいねー。おととい決まったばっかりのに、満席じゃん。マコ、人気あるんだねー」

タツヤが同調する。

「ほんとだねー。何席あんだろ」

ミサキが言う。

「600席だって」

舞台の袖で、マコが普段着でスタンバイしながら指を動かしていると、背広を着たエネルギッシュな老人が近づいてきた。老人のうしろに関係者らしき男が2人ついている。エネルギッシュな老人がマコに話しかける。

「どーも、どーも、ども、ヤン先生、このたびはありがとうございます。わたくし、町長の山田でございます。先生の演奏の前に、一言ご挨拶させていただきます。どうぞ、よろしくお願いします」

マコ、ビックリしながら一礼する。マイクを通して中沢社長の声が聞こえた。

「本日は、ニギニギしくありがとうございます。マコ・ヤン先生のご厚意によるミニ演奏会を始めさせていただきます」

客先から拍手。ミサキとゲーダイとタツヤも拍手している。ミサキがつぶやく。

「社長、司会までやるんだね」

ゲーダイが笑う。

「出たがりなんじゃない?」

タツヤが疑問を口にする。

「あの格好なに?」

舞台の上に中沢社長が登場して、裾の長いドレスのようなものを着ている。ミサキが言う。

「あー、っとー、ナンだっけ?アレ?テレサ・テン?」

ゲーダイが苦しそうに言う。

「いやいや、違う違う。ナンだっけ?オーヤン・フィーフィー?」

3人が「うーん」となっていると、舞台上の中沢社長が話し始めた。

「えー、マコ・ヤン先生は台湾のご出身で、バイオリニストのお父さまとダンサーのお母さまの間にお生まれになり、早くから天賦の才能を発揮され、小学生の頃から活躍されています。

それがね、山を越えた志賀高原で開催されているセージ先生の音楽塾にいらっしゃってるということでね、どーか草津にもお呼びできないかと、セージ先生に頼み込みましてね、どーにかこーにか来ていただけることになりました」

場内、拍手。中沢社長、続ける。

「昨日ね、私どものホテルに到着されたんですけどね、ヤン先生、お若い。あんまりお若くて、ジュディ・オングもビックリ!」

中沢社長、両手を斜め上に挙げる。場内に「魅せられて」が流れ始める。ミサキ、ゲーダイ、タツヤ、顔を見合わせて一斉に言う。

「ジュディ・オングだ!」

「魅せられて」にノって、舞台上でステップを踏んでいる中沢社長の腕が伸び始める。ミサキがビックリする。

「あ!手が伸びてる。なに?なに?」

「魅せられて」のサビに向かって、中沢社長の腕が伸びる。どんどん伸びる。まだ伸びる。ビックリして成り行きを見守る観客。

「Wind is Blowing from Aegean〜」と「魅せられて」のサビが始まるところで「バキっ」という音がして、中沢社長の伸ばした腕が両方折れた。観客から「あー」という歓声。

中沢社長、舞台上で観客に背を向けて、腕につけていた木材やローラーを外して悔しがっている。秘書立花や音楽祭の関係者が4人駆けつけてきて、片付ける。

片付けている前を山田町長が横切って、舞台の真ん中にくる。しかめっ面で、自分が持っているマイクで話を始める。

「なーにやってやってんだよ。しょーがねーなー。タカトシは。昔っから」

客席に笑い。町長、続ける。

「皆さん、ごめんなさいね。ヘンな余興お見せしちゃって」

客席にまた笑い。町長が話を続ける。




舞台袖に引っ込んだ中沢社長が、舞台と逆の楽屋方向を見てうなだれている。横にマコが立っている。舞台方向を見ている。

「中沢社長さ、、、」

中沢社長、呼びかけられたことに気づかない。少し間があって気づく。

「あ、は、はい?あ、ヤン先生、すいません。盛り上げられなくて、、、」

マコが微笑みながら中沢社長に顔を向ける。

「社長さ、良かったよ。もうちょっとだったじゃない」

中沢社長、何を言われているかちょっとわからず「は?」となってポカンとしている。マコが続ける。

「ジュディ・オングさ、ずいぶん腕の長いヤツやろうとしたんでしょ?」

中沢社長、微笑して、

「え、えぇ、右と左の腕が二階席につながって、そっから万国旗を出す予定だってんですが、、、昨日はうまく行ったんですが、、、」

マコが大きな笑顔になる。

「いいよ、いいよ。そーゆー人、好きだよ」

舞台にいる町長がマコを呼び込んだ。

「それでは、マコ・ヤン先生、どうぞー」

マコが舞台に出ていく。舞台袖で、中沢社長がジッと見ている。舞台上でマコが町長と握手して、マイクを受け取る。町長は舞台袖に引っ込む。マコがマイクで話しはじめる。

「みなさん、こんにちはー」

会場の子供たちが声をあげる。

「こんにちはー」

マコが続ける。

「えーとね、今日は急な話だったから、お願いされたの一昨日なの(^_^)だから今日は一曲しか弾けないけど、ピアノを習っているみんなが多いらしいね?ピアノやってる人はどのくらいいる?手をあげてみて」

会場にいる子ども達の8割方が手をあげる。

「あらー、ずいぶんたくさんいるのね。じゃーね、今ステキなことが起きたから、ちょっとお話するね」

舞台袖で中沢社長が聞いている。

「今ね、腕伸ばそうとしたオジちゃんが失敗しちゃって、笑われて、怒られたよね。でもね、あれは素晴らしいことなんだよ。あのオジちゃんね、みんなに喜んでもらおうとしてね、すごーく長く伸びる腕を用意したのね」

客席の子ども達が真剣な顔で聞いている。舞台袖で中沢社長と町長が真剣な顔で聞いている。

「だけどね、失敗しちゃったの。でもね、それは素晴らしいことなの。何十回も、何百回も失敗しないと、成功は生まれないから」

舞台袖で中沢社長と町長が真顔で聞いている。

「ピアノの練習も同じだよ。何十回も、何百回も失敗しながら、うまくなるんだよ。だからね、ピアノをやってるみんなは覚えておいてね。失敗を恐れちゃダメ。何度何度も失敗しなきゃダメ。笑われても、怒られても、怖がらないで、何度も何度も、繰り返し繰り返し失敗するの。そうしたらね、いつの間にか上達してるよ。わかった?」

会場の子供たちが「はーい」と声をあげる。

舞台袖で中沢社長と町長が真顔で聞いている。町長が口を開く。

「タカトシよ」

中沢社長が答える。

「はい?」

町長が言う。

「あの先生、ずいぶん若いのにいーこと言うな」

中沢社長が笑顔でうなづく。



舞台上のマコ、ピアノの前に座って言う。

「はい、じゃね、今日はみんなが知ってる曲を弾こうと思うの。「トルコ行進曲」知ってる人ー?」

客席の子どもたちがたくさん手をあげる。一番後ろの席でミサキが驚く。

「トルコ行進曲ぅ??そんな簡単な曲やるのー?」

ゲーダイがうなづく。

「やっぱさー、ナンだカンだでやる気なかったんじゃない?」

タツヤが「うーん」とうなる。

マコがトルコ行進曲を弾き始めた。まさに、みんなが知っているトルコ行進曲だ。子どもが弾くよりも少し早いスピードで、子どもが弾くよりも歯切れのよいタッチではあるが、あのトルコ行進曲だ。会場から少し笑いが起きた。

それが、16小節を過ぎたあたりから音が増え始め、スピードが速くなり、なんだか違う音がところどころ混じり始めて、32小節あたりからは、音が著しく増え、スピードがすごく速くなった。ハッキリと超絶技巧な曲に変わり、まったく別の曲のようになり、子どもたちも、子どもたちの先生もまるで弾けないレベルの演奏になった。

※ユジャ・ワン氏演奏による参考動画↓

客席にいる子ども達は、ピアノをやっている子もピアノをやっていない子も、すっかり目を輝かせて、少し口を開いて、微笑んでいる。

舞台袖で見ている中沢社長も町長も、ビックリした顔をして、少し口を開いて、微笑んでいる。

マコは、「超絶技巧トルコ行進曲」を一曲だけ弾いて、ホールに集まった600人の人々を一人残らず微笑ませた。

演奏が終わるやいなや大きな拍手が鳴り響き、「ブラボー」という事があちこちから聞こえた。

一番後ろで聴いてたミサキもゲーダイもタツヤも力一杯拍手をしている。タツヤがつぶやいた。

「すげー。やっぱ、世界がいる」




ホテルの部屋で、広ーい大きな机に料理が置かれている。マコ、ミサキ、ゲーダイ、タツヤが一列に並んで座って、ビックリしている。仲居さんたちが、次々と豪華な料理を運んでくる。どんどん、どんどん、運んでくる。広ーい大きな机が豪華な料理一杯になった頃、中沢社長と秘書立花があらわれた。中沢社長が尋ねる。

「先生、いかがでしょう?足りないものは、ありませんか?」

マコが色んな料理に目をやりながら、言う。

「足りないものって、こんなに食べられないよ、社長」

中沢社長、ちょっと困った顔になる。

「あれ?食べられませんか?みなさんお若いから、と。。。ま、アレでしたら残してください。よろしければ残ったモノは、お包みしますから」

中沢社長が、秘書立花が持っているビール瓶を受け取って、マコにビールを注ぎ始める。

「ヤン先生、今日はほんとうにありがとうございました。感激いたしました。わたくし、子どもの頃から体が弱くて、ピアノばっかり弾いてたんですよ」

マコが驚く。

「えー!そうなの!なによ、社長のピアノ聴かせてよ」

社長、ビックリして恐縮する。

「いやいやいや、そんなそんなそんな、めっそうもない。でもですね、ピアノの音が大好きなんです。先生のピアノよかったです。ほんとに、よかったです。やっぱり我々とは違います。みんな、世界の、一流の音を感じたと思います。ほんとうにお呼びして良かった。ありがとうございました」

中沢社長、深々と頭を下げる。なかなか頭を上げない。なんとなく困って、マコ立ち上がって、中沢社長のそばに寄っていく。

「社長、写真撮ろう」

中沢社長が驚いている。マコは秘書立花に目配せした。秘書立花は、ポケットからデジカメを出した。

「はいはい、社長、あのデジカメ見て」

秘書立花が一枚撮った。マコが「見せて」と言って、デジカメの写真を見る。

「あー、社長、もっと笑わないと。ほら、表情硬いよ」

中沢社長、硬い表情でデジカメを見る。

「あ、ほんとだ」

マコが秘書立花に言う。

「それ、連写できる?」

秘書立花、うなづく。マコが言う。

「じゃ、次は連写ね」

マコが中沢社長と腕を組む。秘書立花、連写する。マコが急に中沢社長のホホにキスをする。マコが秘書立花に言う。

「撮った?撮った?見せて、見せて」

写真には、マコがキスをして中沢社長がビックリする様子と、キスが終わったあと中沢社長が幸せそうに笑うところが写っていた。マコが満足する。

「おし。いい笑顔。じゃ、お酒持ってきて。ジャンジャン持ってきて。安いのでいいよ」



第10章 九日目 下着、白いマセラティ、セージの思い出話


朝。

タツヤが「はっ」として起き上がる。なぜか、スイートルームの床に寝ていた。あたりを見ると、少し離れたところでミサキとゲーダイが、床の上にノビている。でも、マコがいない。

タツヤ、浴衣姿でふらふらと部屋を出て、エスカレーターでロビーに降りてると、応接セットに座って、マコが紅茶を飲みながら新聞を読んでいた。タツヤは何だか安心して引き返す。



スイートルームに帰ってきてみると、ミサキとゲーダイが上半身だけ起き上がって、別々の方向を見てボーッとしている。ミサキがタツヤに気づく。

「あ、頭痛い。あ、あんた、どこ行ってたの?温泉?」

タツヤ、床に座りながら答える。

「マコがいないから探しに」

ミサキが尋ねる。

「いたの?」

タツヤ、うなづく。

「うん。ロビーで紅茶飲んでた」

ゲーダイが声をあげる。

「へー」

3人ともボンヤリする。ミサキが言う。

「も一回飲む?飲み放題だし」

タツヤ、ヤーな顔でイヤイヤしながら言う。

「二人とも、なんで下着なの?」

ミサキとゲーダイ、ブラジャーとパンツ姿の自分に気づく。

「キャッ」

「キャッ」




スイートルームの広ーい机にモーニングが並べられ、マコがパンを食べている。

「「マコのことが大好きになったから、裸踊りで歓迎する」ってきかないのよ」

マコの向かいにミサキとゲーダイとタツヤが並んで座っている。モーニングは並べられているが、食べていない。ミサキが尋ねる。

「だれが?」

マコ、パンを食べながら答える。

「あんたとゲーダイが」

ミサキとゲーダイ、顔が引きつる。マコが静かに続ける。

「で、服脱ぎだしたから、「やめなさい、やめなさい」って止めて、やっと下着だけになったとこで止めたのよ」

ミサキが言う。

「えぇぇ!?なんか、マコ、ありがとう」

ゲーダイも続く。

「ありがとう」

タツヤが悔しがる。

「なんだなー。見たかったなー」

マコがコーヒーを飲みながら、静かに言う。

「あんた、ヘラヘラ笑って見てたよ」

ミサキとゲーダイがタツヤを睨む。

「見たのね」

「見たのね」

タツヤが困惑しながら答える。

「見たのかなー。見たんだろうなー。でも、ぜんぜん覚えてないのって、見たうちに入るのかなぁ」

ミサキとゲーダイとタツヤが「うーん」と考え込む。

マコがまたパンを食べていると、「先生、先生」という声がして、中沢社長と秘書立花が部屋に入ってきた。マコ、手を振って答える。

「おはよー」

中沢社長、いま気づいたように、マコとみんなに挨拶する。

「あ、おはようございます。みなさんも、おはようございます。」

中沢社長、マコに近寄って、

「先生、お車用意しますが、ご出発は何時頃に?」

ミサキが口を挟む。

「あ、迎え呼んだんだ。だから、いらないよ」

マコ、不安げにミサキを見る。




ホテルの玄関に、荷物と楽器を持った4人が立っている。

ミサキがやけに谷間を強調した服を着ているので、マコとゲーダイとタツヤが見ている。マコが言う。

「あんた、谷間出し過ぎじゃない?何を狙ってんのよ」

ミサキが「ふふ」と笑って、いつもより少し高い声で言う。

「そ、そう?いつもこんなもんじゃない?」

マコがあきれてゲーダイを見てミサキを指さした。「いつもこんなもん、だってさ」という目配せをすると、ゲーダイは首を横に振った。

そこに、白いマセラッティが横付けされた。ビックリして中を見ると、佐田さんが運転している。マコが「あっ」という顔をしてからミサキを見ると、ミサキが「えへ」という顔をしている。佐田さんが運転席から降りてくると、ミサキが駆け寄っていく。いつもより少し高い声で言う。

「佐田すぁーん、ありがとー。助かる−」

佐田さん、生真面目な顔で照れながら「イヤイヤイヤ」なんて言いながらも、目はミサキの谷間に釘付けになっている。

ゲーダイがマコの方に近づいてきて、小さな声で尋ねる。

「あれ、誰?」

マコも小さな声で答える。

「ミサキのファン。音楽じゃなく、ミサキの谷間のファン」



白いマセラティが5人を乗せて、渋峠を通り過ぎた。助手席のミサキはチェロを抱えて座っている。ミサキが、運転している佐田さんに言う。

「ごめんね。4人もお世話になっちゃって」

運転している佐田さんが、チェロを見て、前を見て、ミサキの谷間を見て、前を見て、も一回ミサキの谷間を見て、前を見て、答える。

「気にすんなよ。音楽する人をサポートしたいんだ。奥志賀の音楽塾もサポート会員なんだぜ。年5万円の方ね。パンフレットに名前載ってるんだぜ」

ミサキがいつもより少し高い声で言う。

「いやーん、ステキー」

後ろにバイオリンとヴィオラを抱えて乗っているマコ、ゲーダイ、タツヤ、苦々しい顔で二人のやりとりを見ている。




奥志賀高原ホテルの前に止まっている白いマセラティが走り出すと、その向こうでマコとミサキとゲーダイとタツヤが手を振ったり、頭を下げたりしている。作り笑顔で手を振っているマコがミサキに言う。

「なによ。この展開」

ミサキが「えへ」と笑う。ゲーダイが笑う。

「許したな。なにか、許したな」

ミサキが楽しそうに言う。

「許してないよー。あはははは」

ミサキが一人スキップ気味にホテルの中に入っていく。他の3人がボンヤリ見てる。




夜。

奥志賀高原ホテル横の従業員用食堂で、音楽塾のみんなが夕食を食べている。

入口にセージが入ってきて、誰かを探している。あっちの方の机にマコ達が座っているのを見つけたので、なぜか指さしながら「あっ」という顔をして近寄っていく。マコ、ミサキ、ゲーダイ、タツヤが紅茶を飲みながら真剣に話している。セージが声をかける。

「あのさ、ちょっといい?」

4人がセージに気づく。マコが急に立ち上がる。

「あ。セージ、いいとこに来た。座って、座って、ここ座って。タツヤを叱って」

セージ、「えっ」となるが、マコに強引に座らされる。代わりにマコが机の横に立って話し始める。

「セージ、初めて外国行った時、フランス?貨物船に紛れ込んで行ったんでしょ?その時、具体的な仕事なんかなかったんでしょ?」

セージ、困りながら答える。

「ないよ。仕事なんて。あ、あ、ちょっと待って。その前に、マコ、ありがとな。草津好評だったってお礼の電話来たよ」

マコ、ちょっと照れる。

「チョロいもんよ」

セージ、笑いながら立ち上がって、マコをハグする。座って、タツヤの方を向く。

「で、なに?外国行く話してるの?」

マコ、イスを引っ張ってきて、セージとタツヤが向かい合ってる横に座る。

「タツヤがさ、来年就職するって言うのよ。どっかオーケストラ探して、オーケストラがなかったらフツーの会社に就職するって言うのよ。日本学生コンクール優勝者がなーに言ってんのって。せっかく音楽仕込んでくれたお父さんが泣くよって。世界のセージだって、成功できるかどうかなんてわかんないのに貨物船に紛れ込んでフランス行ったんだよって」

セージが驚く。

「マコ、よく知ってんな。あれ?日本語読めないんじゃないの?」

マコが答える。

「読めないわよ。でも、英語でもセージの本出てるじゃない。あとDVDとか。みんな、知ってるでしょ?セージの若い頃の話」

3人の反応がニブい。マコが「アレ」ってなる。セージが問いかける。

「タツヤくん、外国行きたいの?」

マコが口をはさむ。

「自分の力も試してみたいけど、日本はオケ少ないからなー。いい募集なかったら普通の会社に就職するしかないなー、なんて言ってるから、オケなんてアメリカにだってヨーロッパにだってたくさんあるんだから、外国で試してみればいいじゃないねー」

セージが「まーなー」とうなづく。マコが続ける。

「そしたら「マコは天才だから」なーんて、みんな言い始めるから、あたしだって何時間も車に乗ってシカゴやトロントのオーディション受けに行ったし、何時間も電車に乗ってドイツのケルンやイタリアのトレントまでオーディション受けに行ったし、だいたいセージだってそうじゃない?貨物船に紛れ込んでフランスまで行ったんでしょ?」

セージ、微笑む。

「そうだよ」

マコが尋ねる。

「なんかツテがあったとか、仕事が決まってたとかじゃなくでしょ?」

セージが大げさに手を振る。

「仕事なんか決まってないよー。パリに大学の仲間は何人かいたけどな。あのな、タツヤくん、」

タツヤが「はい」と言って恐縮している。セージが静かに語りかける。

「キミから見ると、オレなんて順風満帆に見えるのかもしれないけど、ぜーんぜんそんなことないんだぜ」

タツヤ、ちょっとビックリする。

「そ、そうなんですか?」

タツヤ、深くうなづく。

「そうさー。桐朋卒業しようと思ったらトーサイさんに留年させられちゃうし、一緒に指揮勉強してた仲間はみんなは出世しちゃってさー、当時テレビの仕事がバンバンあったから、みんな金持ちでさー、オレなんか部屋にテレビもなかったよ」

4人、驚く。

「エーッ」

セージが懐かしそうな顔で続ける。

「カラヤン先生が初めてベルリンフィルと来日した時は、銭湯のテレビで1時間見たなー。でも、テレビの音悪くてさ、細かいとこが聞こえないんだよ。で、そのうち、ニューヨークフィルが来るって聞いたんで、どーしても生で聴きたくて、必死になってチケット探して、やっと聴きに行けたんだ。うんと後ろの方だったけどな」

4人、固唾をのんで聞いている。セージ、何だか感極まったようで、少し黙る。テーブルの上を見回して、ゲーダイに声をかける。

「ヒトミくん、その水もらっていいかい?」

ゲーダイが恐縮する。

「あ、すいません。なにか持ってきますか?ワインとか?」

セージ、手を振りながら、ゲーダイの前に置いてあった水を一気に飲み干す。

「で、ニューヨークフィルやっとこさ聞けたんだけどさ、これがまた素晴らしいんだ。「本場の音って、こんなに違うのか」って衝撃を受けたな。もー、全然違ったよ。日本のオケと」

4人、セージの話に引き込まれている。

「日本にいちゃダメだ、と思ったよ。「思った」ってのは弱いな。「やむにやまれぬ」って感じだな。ヨーロッパやアメリカに行って、本物の音で修行しないと、オレは一生本物になれないって焦ったな」

タツヤがうなる。

「へぇぇー」

ミサキが言う。

「世界のオザワ、でも?」

セージ、ミサキに向かってうなづく。次にタツヤを見据えて言う。

「誰だってさ、それなりの存在になるためには、どっかで「えいや」って飛び込まないといけないんだよ。うまくいくかは、わかんないけどさ。普通に会社員になるんなら必要ないけどな。でも、飛び込んだら飛び込んだで何とかなるもんだよ」

ゲーダイが尋ねる。

「何とかなりますかね?」

セージ、ゲーダイの方を向いて、ゲーダイを見据えて言う。

「なるさ。それがキミの思い通りかどうかは別だけど、必ず何とかなる。次のステージに立てる」

ミサキが感極まっている。

「先生、あたし、この音楽塾3年目ですけど、いま一番感銘を受けました」

セージ、苦笑い。

「なんでだよー。オレの本くらい読んでこいよー」

マコ、得意げにタツヤを見る。

「ね?タツヤ、セージも同じでしょ?タツヤも冒険に出なさいよ。ニューヨークかパリなら、あたしの家の部屋使わせてあげるから」

セージが合いの手を入れる。

「あー、タツヤくん、こーゆー友だちいるとラッキーだぜ。あっちで生きてると宿泊代つらーいから」

タツヤ、マコとセージを交互に見る。

「なんか、お二人に踊らされてないすか?」

セージ、苦笑いでマコを見る。マコ、ちょっと怒る。

「失礼ねー。世界的音楽家二人があんたのために話しているのに」

タツヤ、急に真顔になって、立ち上がる。

「ほんとだ。色々、ありがとうございます」

深々と礼をする。セージとマコ、苦笑する。


第三話↓