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詩人の脳は空よりも広く【エミリ•ディキンスン#632】

ディキンスンの詩は噛みごたえがある。しっかりと噛まないと理解できない。詩の批評家Helen Vendlerの『Dickinson』がイントロダクションであげている『The Brain- is wider than the Sky (脳は空より広い)』を訳してみたい。いったいこの詩のテーマはなんだろう。

“The Brain- is wider than the Sky –
For – put them side by side –
The one the other will contain
With Ease – and You – beside –
The Brain is deeper than the sea –
For – hold them – Blue to Blue –
The one the other will absorb –
As Sponges – Buckets – do –
The Brain is just the weight of God –
For – Heft them – Pound for Pound –
 And they will differ – if they do –
As Syllable from Sound – “
(#632)

ネブラスカ大学英文科教授のモーデカイ•マーカス著『ディキンスン 詩と評釈』にあるこの詩の最後の二行の訳を引用しよう。

頭脳と神はもし違いがあるとすれば違ってくるだろう
つづりが音声と異なるように

やや意味不明だ。この訳では第一連も二連も意味がわかりにくい。そもそも「脳を空と並べる」とはどういう意味だろうか。Youは誰なのか?スポンジは何?バケツな何なの?この詩の他の翻訳は手元にないが、こんな訳で何を理解できるのだろうかと心細い。

そこへ行くとVendlerはやはり鋭い。この詩を、最初の二連(2つの節=スタンザ)は最後の一連のためにあるという。三連目をうたいたいためにあるという。三連目はかつてホイットマンもうたったように、神からの独立を吟じているという。神さまという実体のないものをただ崇める中世的な思想から脱して、近代の人間は自我を発見したわけだが、そういう神よりも強いもの=自我を表した詩であるとVendlerは解説している。

Vendlerの解説を手がかりに見ていこう。

Brainは「詩の脳」、あるいは「詩人の脳」だ。それはこの世(Sky)よりも大きいという。ふたつを並べてみると、片方はもう片方をのみこんでしまう。そしてYouものみこむ。Youとは読者だろうか。それともこの詩をささげた恋する相手だろうか。

二連では、詩は海よりも深く蒼く、海を吸い込む力があるとうたい、三連では、詩の脳は神さまの重さがあるという。エミリーにとって神さまとは自然のなかに存在するものである。つねに神さまのことを詩に封じこめているから、その重さがあるというのだろう。三連では神さまは音に似た「お告げ」をくださるが、わたしは詩で音節、つまり「言葉をかたれる」という。

どこかデカルトの思想「我思うゆえに我あり」に通じるところがある。自分が思うから自分が存在し、世界が存在する。自我の確立であるとすれば、この詩はディキンスンの「詩人としての自信」であろう。詩があるゆえに自分は強いという宣言だと思う。こういう理解のもとに、この詩を訳してみよう。

詩人の脳は空よりも広く
ならべてみれば 
詩は空を楽々とのみこみ
あなたのそばに達するー

詩人の脳は海よりも深く
青へ青へと染まる
詩はバケツにいれた海水を
吸いこむスポンジのよう

詩人の脳はちょうど神の重さ
量ればぴたりと等分
されど詩人と神は違う 
詩人は音節を 神は音を発す
(#632ことばのデザイナー訳)

この詩は詩人の創造力をうたいあげている。創造する力は何よりも強い、とうたっているように思える。

その創造の力は何からつくられてるのだろうか。

ひとつは恋かもしれない。たった一度きり会った牧師への。あるいは理解者か。兄嫁や一握りの支援者、師事した教授。あるいは彼女が引きこもっていた家、それがあった町、そのまわりの自然。鳴り響く教会の鐘もありそうだ。世に認められたいという心の底の希望か。認められるほど読者が成熟していないというあきらめかもしれない。

ぼくは何よりも、彼女はただ創作をしたかったのだと思う。なぜなら創作とはこの世で最も素晴らしく、もっとも崇高で、もっとも困難であるからだ。エミリーはそれをする者は(とりわけ散文でなく詩文で)神にも匹敵するものだとうたったのだ。

創作の原動力の中心には「ひとりぼっち」があった。彼女の作品からその創作を解き明かしていけば、ひとりぼっちの正体が見えてくるはずだ。


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