原点は卒業文集とmixiと、家族からの手紙
父が他界して20年近く経つが、節目で手紙をくれる人だった。
はじめてもらった手紙は小学校に上がる6歳?の時。
同じ家に住んでいるのに、わざわざ切手を貼って郵送で届いた父からのひらがなだらけの手紙。
入学おめでとう的な内容とともに、「お祝いのプレゼントを車のトランクに隠してあるよ」と書かれた、ちょっと小1にはレベルの高いサプライズ。
高校生になり、また手紙をくれるようになった。
定期テストの成績が出た時、部活の大会が終わった時、大学入試に合格した時…ねぎらいの手紙がおこづかいと一緒にそっと机の上に置いてあった。
そんな父に影響されてかはわからないが、2個上の姉からも数回手紙をもらったことがある。
高校受験の当日、部活を引退する大会が終わったとき、大学受験のとき。
励ましと褒めと労いと喝を絶妙に届けてくれるストレートな文章で、読んで泣いたことを覚えている。
手紙をくれたことは本当にありがたいと思っているが、感動する家族との話をしたいわけではない。
私は父と姉の文章力に嫉妬しているのだ。
相手の大事な節目に送る手紙で、泣かせるほどの心を動かす文章を書けることに羨ましさを感じていた。
そんな手紙をもらいつつ、同じ時期に自分は大学入試の小論文にどうにも苦戦していたこと、社会人になってから定期的に突如やってくる「毎日日記書いてみようかな」が一切続いたことがなく、どこか文章を書くことに苦手意識を持っていた。
書きたい気持ちはあるけど、上手じゃないからなぁ…のまま過ごしてきた。
人の書く文章を読んで初めて憧れみたいなものを感じたのは、中学生の頃に先輩が書いた卒業文集を読んだ時だったと思う。
たしか、すっごいくだらないどうでもいいことを大まじめに書いた修学旅行の思い出。
飽きずにテンポよく読めて、所々クスッとさせるような文章。
「クスッとさせたい」がおそらく自分の一番の欲求だった。
大学生の頃に流行ってたmixi。
フォロワー(当時でいうマイミク)はほぼ友達だったので、日記感覚でたまに文章を書いていた。
もう退会しているので自分が何を書いていたかは覚えてないが、
どこかしらに「クスッと」を入れ込む意識で文章を書いていたような気がする。
今思えば、苦手意識があったはずなのにmixiは書けてた。
読む相手は友達だし、若さゆえの仲間意識から来る「自分の思いを知って欲しい」という承認欲求を満たす目的もあって。
退会してよかった、絶対世に残したくない。
きっと、「読んでくれる誰か」がいれば私は書けるんだと思う。
日記が書けなかったのは、自分が読むだけのために書くことができなかったからなんだろう。
noteを始めたのは、
・今の自分の思考を整理してどこかに残したかったから。
・自分がどんな文章書くか、どれくらい書けるか客観的に知りたかったから。
・読んでくれる人が知らない人ばっかりだから。
・文章書けて損はないから、アウトプットの訓練のために。
ただただ自由に書いてOKなこのnoteは、なんて画期的なんだろうと思う。
自分の気持ちや過去を好き勝手に書き綴った文章を、知らない人が読んでくれる不思議な感じ。
おまけにハートまでくれちゃう。嬉しい。
読む側としてもおもしろく、いろんな発見がある。
普段生活していたら出会わないであろう人の境遇や生活の一部を文章から知ることができたり、「これ言語化できるのすごいな」という文章に出会えたり。
勉強になる。
世の中にはいろんな状況・考え方の人がいる、というのを色々な記事を読んで実感することができる。
自分の悩みなんてたいしたことねぇ、と実は何度かnoteの記事に救われている。
最近はインスタよりnote読んでる方がおもしろい。
あんなに中毒みたいに用もなく見てたのに、インスタ。
卒業文集もmixiも家族からの手紙も、子どもの頃のほんの日常の一部だったはずなのに、振り返ってみたら大人になってから新しいことを始めるきっかけになってたりする。
今noteを始めたことも、数年後に何かにつながっているかもしれないと思うと、またおもしろい。