
麻雀の打ち方は、その人の生き方だ
麻雀の打ち方には、その人の生き方が出る。それはもう、ありありと。
ここぞというときに勝負できなかったり、目先の利益に飛びついてしまったり、深く考えられず行き当たりばったりになったり。
心の弱さや愚かさ、狡猾さ。もちろんそんなネガティブな面だけではなく、思慮深さや正直さ、勇気なんていうものもとてもよく見える。
麻雀は、人生や経済を凝縮した遊技である
私の両親は、福岡市の歓楽街、中洲で小さな雀荘を営んでいる。6月末で創業37年になった。つまり私は、雀荘に育てられてきたわけだ。
幼い頃から、麻雀は身近にあり、休みの日に家族と麻雀を打つのが何よりも楽しみだった。
サムネイルに載せた言葉は、母の言葉だ。
将棋は兵法、囲碁は陣地取り、麻雀は経済。
時代で変わる天下取り。経済を知らずして、永続的な反映はなし。運・不運を経済で乗り切る、高橋是清の世界がここにはある。
いつごろからだったか忘れたが、あるときから母がしょっちゅう言っていた。きっと良いキャッチフレーズを思いついた気持ちだったのだろう。
正直、なんのこっちゃ意味が分からなかったし「はいはい、また出たよ」と聞き流してきたのだが、最近になってようやくその言葉の意味がわかるようになってきた。
麻雀は、頭脳ゲームのくくりで将棋や囲碁と並べられることも多いが、それらとは明らかに異なる性質を持っている。そしてこの違いがあるからこそ、麻雀というゲームに経済や社会、人生の縮小版のようなものを感じさせられるのだと思う。
麻雀と、将棋・囲碁との違い。ここでは次の3つを強調したい。
①麻雀は不公平であること
②麻雀は不完全情報ゲームであること
③麻雀にはギャンブル性があること
(なお、私は将棋や囲碁には詳しくないので、認識違いがあるかもしれません。その場合はごめんなさい。)
理不尽を受け入れなければ、スタート地点に立てない
麻雀のゲームのスタートは、将棋や囲碁と違い、全く公平ではない。配牌は運任せ。最初からめちゃくちゃ有利な人もいれば、どうやっても勝てないだろというほど悲惨な人もいる。
配牌がボロボロだからといって、そこで諦めてはならない。少なくともここからどうやったら勝てるかを誰でも考えるはずだ。麻雀とは、理不尽の中から勝ちを手繰り寄せるゲームなのだ。
このように考えると一局一局がまるで人生のようだな、と思う。
生まれたときに与えられたものは、人それぞれ全く違う。どんな家庭環境に生まれてくるかは選ぶことはできない。全く違うスタートを切った人たちが、ある程度定まったルールの中で自分のあるべき姿を模索していく。
配牌が悪いからと、途中で勝負を降りることもある。ここは考え方が色々ある(後述)のだけど、完全に降りてしまった勝負で返り咲くことは、ほぼほぼない。
不完全な情報の中から、勝ち筋を探す
当たり前だが、将棋や囲碁では、盤面がオープンになっていて、相手がどこに(なんの駒を)置いているのかは見れば分かる。
一方で、麻雀は、自分の持ち牌と、場に捨ててある牌以外は見えていない。これからどんな牌が回ってくるのかも分からない。持ち牌が違うので、人によって得ている情報も、もちろん違う。
麻雀は、不完全情報ゲームだ。場の状況を見ながら、相手の状況や自分が勝てる可能性を推測し計算する。
そして勝利の確率をあげるために、できるだけ多くの情報を得ようとする。今、見えている牌の種類と数だけでなく、対戦相手の表情や性格、癖などさまざまな情報のピースを脳内でパズルのように組み合わせて、場を把握するのだ。
このように考えると、麻雀は、ビジネスのようだな、と思う。騙し騙されと言うと言葉は悪いかもしれないが、見えない・分からない状況の中から情報を収集し整理し、自らの勝ち筋を探す。情報強者が情報弱者を食い物にする世界だ。
麻雀は、勝つか負けるかの白か黒ではない
ここで麻雀が持つギャンブル性について触れていくのだが、一つ断っておきたい。賭け麻雀は違法である。ので、私は賭け麻雀を推奨するつもりも肯定するつもりも一切ない。
がしかし、一般論として麻雀にはギャンブル性が少なからずある。将棋や囲碁での賭け事もあるそうだが、麻雀は1対1でないことや、一発勝負ではないこともあり、その性質は異なっている。
なぜあえてこの点を強調したいのかというと、ギャンブルとして麻雀を見ると、そこに「リスク」という概念が生まれるからだ。
プロがやる、スポーツとしての麻雀は別として、一般人が楽しく卓を囲む場合、このリスクがあるかないかで打ち方が全く変わってくる。
リスクがない場合、すなわち負けても痛みを伴わない麻雀では、誰でも強気になれる。他者のテンパイよりも、自分の手をできるだけ大きなアガリへ近づけることに意識を集中できる。仮に負けたって、それで終わりだ。だってゲームだもん。
一方、リスクを伴う場合、一つ一つの選択の重みが全く違う。勝つか負けるかの二択でもなくなる。負けたときのリスクと勝ったときの利益を天秤にかけながら、幾重もの意思決定を迫られることになる。
麻雀の戦い方は、まさにその人の人生観そのもの
ここに、その人の人間性や性格、人生観が面白いほど表れる。
自分の牌や相手の様子、残りの牌や、親、点棒、残りの局数、これまでの点数差などもろもろの状況を整理して、攻めるか守るかの塩梅を決める。
これが理想。実際には、そんなに冷静に分析できないし、分析の仕方も結構人それぞれだ。
・すべて確率で考え、最も勝利の確率が高い選択をする人(データ重視)
・相手の様子から、安全牌と危険牌を推測する(直感重視)
・周りにテンパイの気配がある場合は、すぐ降りる(弱虫)
・色々考えるのが面倒になって、エイヤッと勢いでいっちゃう(無鉄砲)
・自分の望む形で揃えられないと分かった途端、勝負を放棄する
・大きな手は見逃したとしても、アガリの可能性を最後まで捨てない
など、こうした麻雀の傾向は、その人の人生における意思決定の傾向にも似通ったものが絶対にある、というのが私の自論だ。
勝つための麻雀から、負けない麻雀へ、そして迷走
と、ここまで偉そうに語ってきているが、実は私は麻雀は全く強くない。ただ好きなだけで、強さのレベルで言えば、良く見積もっても中の下だ。幼稚園児のころから麻雀に親しんでいたので、歴だけは長い。
ふと振り返ってみたときに、自分自身の麻雀の傾向の波が、人生の波と一致することに気づいた。
高校生のときまでは、無鉄砲な、自分が勝ちたいだけの麻雀だった。
でも、大学に入ってからは、それでは一切通用しなくなった。周囲のレベルが上がったということもあるのだが、私の無鉄砲な一手がことごとく誰かの当たり牌だった。
「お前は何も考えずに麻雀を打っている」
と言われているようで(実際に言われたかも)、すごく傷ついた。それが嫌で、私はできるだけ負けない麻雀を打つようになった。基本的に勝負には出ない姿勢を貫いて、負けることはなかったが、もちろん大きく勝つこともなくなった。
人生を振り返っても同じだった。自分が勝ちたいだけだった時期は、失敗も恐れなかったし、ただただ突っ走ってた。でも、負けない麻雀を打っているころは、人生でも、できるだけリスクを回避し、自分が痛まないよう、傷つかないよう振舞ってたなぁ、と今なら思える。
傷つくことも、何かを無くしたりすることもなかったから楽だったけど、この時期に成し得たことは一つもない。
じゃぁ、最近はどうかというと、完全に迷走している。勝負どころで退いてしまったり、変なところで攻めてしまったり、これまでだったらあり得ない見逃しやチョンボもある。
でもこうやって麻雀と人生を照らし合わせながら考えると、自分が今どこが弱いのかよく分かる。頭を使っていないのか、自分だけしか見えていないのか、感情が先行しているのか、勇気がないのか。
まぁ、だから今の迷走期も、試行錯誤と捉えれば悪くないかな。
おわりに
今回の自粛期間で、両親が経営する雀荘も大打撃を受けました。昨年は父が大病をし、もう若くもないし、兄弟の誰も継ぐ予定はないので、大好きだったあの店も、いつまであるか分かりません。(今は元気に営業中。)
ちょうど37周年を迎えるというので、キリが良い数字ではないけども、私と麻雀をつなげるものを一つカタチとして残しておきたく、このnoteを書きました。
(2年前の写真だけどちょびっと宣伝:ttps://www.tontonhouse1983.com/)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
<おわりにのおわりに>
こうした、リアルな人生さながらの勝負観を身につけられるので、私は子どもたちにこそもっと麻雀が広がってほしいと思っています。
手を動かしながら、自分で考える癖がつくので、きっと頭も良くなるはず。
雀荘は18歳未満入場禁止なので、おうち麻雀をぜひお楽しみください。
子どもたちと麻雀中
— 但馬 薫 Kaoru Tajima (@kaoruchaaaan) August 24, 2019
役覚えるまでは大変かなー pic.twitter.com/IP6HI93tYY
<なかなかおわらない追記>
ダダすべりするかもと思っていたら、予想外に今たくさんの人に読んでいただいているので1点追記を。
「麻雀観=人生観」をこうして言語化することができた背景に、藤田晋さんの書籍「仕事が麻雀で麻雀が仕事」(竹書房)があります。2年前に読んだのですが、この本をきっかけに自分の麻雀に対する考え方を深めることができました。
ここまで読んでくれたあなたならきっとハマると思いますのでめちゃくちゃおススメです。