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きっとみんな地続き

祖父が亡くなって諸々終わって、少し落ち着いてきました。

そんな日々の中でふと思うことがあります。

きっとみんな地続きなんだなあって。


この夏、とあるオンラインの授業を受けました。

村上靖彦先生という、質的現象学をやっている先生だったのだですが、その先生の主な研究のフィールドは、いろいろな人々の語りの研究です。
介護職の方や看護師さん、ヤングケアラーに至るまで、対象は様々ですが、そういう人たちの語りを録音し、逐語録を作り、その内容を分析し、その方から見た世界や社会の構造を浮き彫りにするというような研究でした。

今回はその研究の内容についてはあまり触れないのですが、その中で取り上げられたとある看護師さん?多分そうだったと思うんですけど、介護士さんかな、とにかくケアをする立場にいる方の言葉が印象に残っていて。

その中でもうすぐ亡くなる方のケアをする話が出てくるんですけど。
元々その患者さんは、インタビューを受けた方の担当ではなかったそうなんですが、元々担当だった方が感情移入しすぎてしまって、担当を続けられなくなってしまったそうなんです。
で、その彼女に担当が変わったらしいんですけど、その方はそんなに感情に溺れることなくケアをすることができたらしいんですね。
それは、その患者さんと私は「地続きだから」だと彼女はいうんです。

地続き。地続きってどういうことなのかなってそれを聞いて考えました。
つまりはまあ、その方と自分が同じ地平に立ってるっていうことだと思うんですけど、そうするとどちらかというと感情的に共鳴してしまうような気もするじゃないですか。
でも、そうじゃないんですよね、そのインタビューに答えた方からすると。

じゃあどういうことなのか。

自分のどこかの姿かもしれないってことなのかなって、思って。

そんな遠い話でも、非現実的な話でも、物語でもなくて、自分にも起こることとして捉えるってことなのかなって思いました。
そうしたら、私の場合は、少し頭の奥がスッと冷える感じというか、急に手触りがわかって、少し落ち着くというか、そういう感じがするんです。
わからないから怖いってことはありますよね。
自分を相手に近づけすぎてもいけないけど、同時にわからないこととしてしまっても難しい。
その微妙なところに立って、対等な人間として、可哀想とか思わずに接したり考えたりすること、それが「地続き」ってことなのかなって思いました。

そういうふうに考えると、「地続き」って難しいですよね。
意外とみんなできないっていうか。

店員さんに対して理不尽にキレているおじさんも、車椅子に座って移動している女性も、公園で遊んでいる子供も、犯罪を犯して刑務所にいる人も、きっと地続きなんですよね。
地続きなんですけど、みんな切り離して考えてしまいますよね。
もちろん犯罪者と同じなんて言われて気分のいい人はいないと思いますけど、でもやっぱり同じ地面に立って同じように考えて生きている人で。

誹謗中傷とかって、そういうところから始まるんじゃないかなって思いました。
誰かを下に見たり、同情したり、崇拝しすぎてしまったりするから、起こるんじゃないかなあ、なんとなくだけど。
みんな色々かんがえて悩んでいる地続きの人間なのになあ。

そんなことを思いました。

だから私は、認知症になった祖父を可哀想だなとは思いません。
いつかの私の姿だからきっと。

長々と書いてしまったけど、この気持ちは忘れたくないな。



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