グラフィックデザイナー48歳。これまでを振り返る。 その3
就職が決まり、いよいよグラフィックデザイナーになる。
僕が就職した会社は、SP(セールスポロモーション)専門のエージェンシーで、当時創業約30年、東京本社と各主要都市に支店・営業所があり、静岡に製造工場も持っている従業員数約500名ほどの規模でした。もともとは、デザイナーの部署というものもなく、手描きのPOPライターさんがスーパーなどのPOPを作っていたそうです。その後、大手スーパーの日常で使うプライスPOPを効率よく量産できるシステムを開発してから急成長を遂げ、主要なスーパーや量販店を中心に、売り場演出のプランニングからデザイン、製造までを行うようになっていました。そんな成長期のまっただ中に入社したので、営業もプランナーも、デザイナーも部署の垣根を越えて仕事を獲ってくるような自由さがあり、毎日が本当にエキサイティングでした。同期入社で営業の友人とデザイナーの僕は、そんな奔放な先輩達から毎日のように飲みに連れ出され、仕事とは!や、人生観、はたまたどうでもいい話しまで、体育会系のノリで可愛がってもらいました。今の時代だったらすぐに問題になりそうなパワハラ的なお酒の一気飲みや、時には殴り合いの喧嘩や、お店に出入禁止になったりと、本当にはちゃめちゃだったな〜と思いますが、良い意味で人間臭さがあって、みんな熱くて、良い時代だったなと思います。(誤解の無いように言っておきますが、僕は喧嘩や暴れたことはありませんよ。でも当時の支店長の薄くなった頭に、酔った勢いで背後からキスして、タバスコ入りの日本酒を飲まされたことはあります。。)
僕が入社して1年くらいはMacが導入されてはいたものの、まだ本来の使い方が誰もわからず、デザインを提案する時の仕上がりイメージ(カンプ)の色付けだけをフォトショップでやるくらいで、印刷にまわすときの主流は版下でした。はじめて版下に色指定をする仕事を任されたとき、小さなリーフレットの1ページだけだったのに半日かかった記憶があります。CMYKの見本帳とにらめっこしながらパーセントを決めていくんですが、経験がないので、頭に中で色がイメージできないんですよね。今、Macでやったらあっという間の作業ですが、当時は面倒くさいことをいっぱいしてました。
写植屋さんに、フォントを指定して文字を紙焼きにして持ってきてもらったり、それをトレスコで拡大・縮小してさらに紙焼きしたものをカッターで一文字ずつばらしてスペーシングし直し、さらに版下に張り込む、なんて業務を少しだけですが経験しました。この経験は、紙面に対してどの位置にどの大きさのテキストが良いのかなど、簡単にやり直しがきかない分身長に吟味するので、構成の訓練になったし、手で文字詰めするので、身体でその感覚を覚えられたと思います。
社内での主な仕事であるSPのデザイン、特にスーパーの演出ツールというのは、いわゆるグラフィックデザイナーがやる雑誌の紙面や広告をデザインするのとは違ってかなり特殊で、例えば「節分」とか、「こどもの日」とか、年間を通してある様々な催事ごとに400mm角くらいのポスターにビジュアルを作るんです。庶民が日常で利用するスーパーなので、お洒落さや格好良さとは無縁な世界で、親しみやすさと、らしさ、店内を明るく楽しくさせることが重要なんですよね。それでいて、なんとなく○○スーパーらしい統一感がある。スーパーも1社だけではなく何社取引があったので、一人で複数社担当していたりすると、「こどもの日」だけでも何パターンも作らなくてはいけなくて、それを数年やるとあっという間にネタ切れになっちゃう。カメラマンに写真を依頼して、キャッチコピーと本文テキストが用意されていて、イラストレーターにイラストを描いてもらって、それらをレイアウトして上手くまとめる…。みたいな流れだとやりやすいのですが、予算の無いものが多く、カメラマンやイラストレーターに発注できない。今のようにフリー素材なんかもほぼ無かったので、基本的にデザイナーが簡単なイラストを描けないと厳しかったんですよね。
シンプルなイラストまたは柄とタイトルのみで、ぱっと見て何の催事なのかがわかるようにデザインする。配色や、タイトル文字の見せ方などは鍛えられたかもしれません。今思うと、ロゴのデザインにもどこか通じるものがあるかもしれませんね。筆文字が上手な上司がいたことで、見よう見まねで書けるようになったり、イラストも割り箸ペンや様々な画材を工夫して描いてみたりと、この会社時代に習得したテクニックは、今の仕事にもとても役立っています。
広島へ転勤になる。
入社2年目からは、担当のクライアントを持たせてもらい、本格的にデザインに取り組みました。先方に出向いてプレゼンしてもあっけなく瞬殺されたり、社内の営業からダメだしされたりということも多く、とにかく大変でデザイン面はもちろん、メンタルはかなり鍛えられたと思います。そんなある日、3年目からは広島の営業所でやってもらえないかと打診があり、一人暮らしをしたことがなかったこともあって、それも良いかも!と深く考えずに二つ返事で引き受けてしまいました。広島の営業所は当時デザイナーが僕1人と、営業が3名、パートが3名という小さな事務所でした。営業3人が受注してくる仕事を一人で引き受けるので重なると大変でしたが、頼りにされて期待が大きい分、自分の力を存分に発揮して貢献したい!というやり甲斐も大きかったです。しかし、上司も後輩もいない部署で、デザインのことで悩んでも誰にも相談できない、自分で解決するしかないという孤独も味わいました。
クライアントへ商談に行くとき、人手が足りず、自分一人で出向くことが多々あり、デザインの説明やチェックバックを聞いたりと、デザイン面のことだけですが自分一人で進められるようになっていきました。クライアントの担当者と直接話すことで得られる、「信頼していただいている」という実感から、仕事をするってこういうことなんだな、と今まで感じたことの無い充実感を味わいました。この感覚は、一人でもやっていける。という感覚に近く、将来独立するイメージを持ったのもこの時期だったかもしれません。
初めての一人暮らし、一人で仕事をまわせる感覚を得ることで、本当の意味で両親や上司からの自立ができたように思います。
身体を壊して独立を決意する。
広島での充実した楽しい日々は2年で終わり、再び大阪に戻ってきます。2年の間に大阪の仕事はさらに忙しくなっていて、大阪の営業やデザイン部署からは僕の戦力をあてにして、待ってましたとばかりに多忙なクライアントを複数担当することになり、のんびりしていた広島生活から激務生活へ一変しました。
社内の期待も大きかったので、それに応えるべく頑張りすぎてしまいました。外部の制作会社へ振り分けるなどしてうまく回さなければいけなかったのに、ほぼ全てを抱え込んでしまって、連日深夜3時過ぎに帰宅して翌朝9時に出社するような毎日が続きました。深夜2時から後輩デザイナーと打ち合わせをしていたら、営業が会社に戻ってきてびっくりしたり、みんなどんだけ働くねん!って。明日にプレゼンを控えたのポスターのデザインを後輩と1案ずつ考えて、あーだこーだ良いながら少しでも良いデザインになるように必死で取り組んだり、本当に過酷だったけど後輩を指導する中で、自分も成長できた時期でした。でもそんな生活を長く続けられるはずがありません。。案の定1年ほどで身体を壊してしまいました。自分でデザインしないと気が済まない根っからのデザイナー気質と、会社内で上手に立ち回れない不器用さもあって、このまま会社で働き続けるのは難しいと判断し、会社に迷惑がかからないように1年の猶予をもらって退職することに決めました。
この頃、社内振替伝票というものを取り入れていて、営業から受けた仕事に対して自分が行ったデザイン料金はいくらです。と料金を決めて営業に提示していたんですね。営業としては、社内のデザイナーに依頼しているので外注するよりもデザイン料が浮いているわけですが、僕たちデザイナーはただ働きしているわけではないということを営業にちゃんと意識してもらうためにやっていました。当然、デザイナーがそのデザイン料金をお給料としてもらえるわけではないのですが…。
言い方は悪いですが、身体を壊すほど働いて、月に○○○万円の作業をしていてもお給料は変わらない。仮に同じ量の仕事をフリーランスでやれたら、全て収入になる。と思ってしまったんですよね。何の根拠も無いけれど、やれるような気がしていて、無謀にも独立を決めたのでした。
↓送別会を開いていただいた時の一枚。
退職してから20年が経ちますが、この会社はその後も立派に成長されていて僕がいた頃よりももっと会社らしくなっています。その上、嬉しいことに今も尚公私ともにお世話になっています。
次回はフリーランスになってからにつづきます。