母親を亡くして気づいた5つのこと
4月21日に母親が息を引き取ってから1ヶ月が経った。その時を迎えるまで、親を亡くしたら、自分はどうなるのか? 仕事が手につかなくなるのではないか、精神的におかしくなるのではないか…などと心配していた。
結果、意外と普通に日常を送れている。しかし、母親が亡くなる前と後とでは、世界の見え方が一転した。どう変化したかを書き綴っておきたい。
もはや「子ども」ではない
年齢を重ねようと、自身が出産して”母”になっても、母親は無償の愛を注いでくれる、甘えさせてくれる唯一の存在だった(世の中そんな母親ばかりではないことは重々承知だが)。
弱音を聞いて、慰めてくれる最大の支援者を失ったことは痛い。同時に、もはや「子ども」ではない自分を受け入れ、老いと向き合い、弱音を吐き合い慰め合える仲間を作っておくことが大事だと思った。
誰がいつ、どこで、どの順番でこの世を去るかわからない。
一人に依存していてはいけない。他愛のない会話ができる人との関係を大切にしたい。
自分の深層には常に家族が潜んでいる
母親が入院して日に日に衰弱していった4ヶ月間のうち、様々な家族の問題が勃発した。それは、無きものが降って湧いたのではなく、長年蓋をされてきたパンドラの箱が開いたのだ。
母親がいることで何とか成り立っていたものが、一気に崩壊し、ストレスを抱えた家族は皆(私も含め)、どこかネジが飛んだかのようにおかしくなった。でも、現実は逃げても追いかけてくる。向き合うしかない。
ということで、冷静になって考えれば考えるほど、自分が抱えている問題は、家族に紐づいていることが判明した。家族に腹を立てても、結局それと同じものを自分も少なからず持っているし、家族ほど自分のことを知らしめてくれる存在はないと実感した。
明日生きているかわからない
「危篤になっても、高い新幹線代払って帰ってこんでええからね」
入院する前日に、電話で話した時、母親が私に言ったことだ。
それを聞いた私は、容体の深刻さを知らず、「また大袈裟なことを言って…」と思っていた。
なぜなら、その数ヶ月前に会った時、ピンピンしていたから。
「お役目終了認定」が降りたら、ふっとあの世に呼ばれるのだろう。それは年功序列ではない。
「来年のことを言うと鬼が笑う」という諺があるが、来年どころか、明日どうなるかさえわからない。「生と死」のスレスレのところで生きているのだ。
資産、なくて結構
世の中、資産運用ブームだが、親には資産がほとんどなかった。葬式代を引いたらわずかな貯金が残ったぐらい。
「残された父親は年金とそのわずかな貯金で生きていけるのか?」と、やや心配になるが、子どもにとってはそれぐらいがありがたい。
親が株式やら債券やらを持っていたら…。相続で揉めたり面倒くさいことになるのは目に見えている。
私も葬式代程度の現金だけを子どもに残して身を引くことを目指したい。
腹八分で十分
母親は、女性は男の人に養ってもらえばいいという考え方の人で、専業主婦を貫いた。何かあるごとに、「食べさせてもらっているから、(夫に文句があっても)仕方がない」と言う。そんな母親に抗うが如く自立心を高める私に対して、母親はいつも「無理せんでいい、頑張らんでいい」と口をすっぱくして言っていた。私がフェミニスト的な考えを持つようになったのは、母親の存在が大きい。
でも、母親を亡くした今思う。「何をそんなに頑張ろうとしていたのか?」と。
貧困化が進む日本において、男性に”食べさせてもらう”なんてことは難しいし、社会との接点を持つためにも、できるだけ働き続けたい。でも、働くにせよ、何をするにせよ、自分も家族も円満で心身ともに健康であることが大事ではないか。それを継続するのは相当大変である、ということが今更ながらわかり、母親の偉業を理解した。
専業主婦の母親は子どもたち、家族のためにたくさん働いてくれていた。その大変さを知っているが故に「無理せんでいい、頑張らんでいい」と言っていたのだと気がついた。母親の言うことは正しかった。
「もっと、もっと」は目指さず、腹八分でいい。今は、そう思う。