「人間」のいみについてのメモ
RADWIMPS「棒人間」と芥見下々「呪術廻戦」アニメについての走り書き。
アニメ10話までのネタバレを含みます。原作を読めていないので、齟齬や不十分があったらごめんなさい。
人間とは何か ー外見と内面
人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。(太宰治「人間失格」)
「人間とは何か」、これは永遠に尽きない問いのひとつだ。答えは簡単に出ないし、唯一のものもない。だから問い続けることが意味になってきた。「呪術廻戦」もその脈列にあるとおもう。
このはなしの大きな特徴は、本来なら見えない人間の内面を、「呪い」としてグロテスクに物質化したところにある。内面と外見という点で、まず「棒人間」を連想したのだ。
僕は人間じゃないんです ほんとにごめんなさい
そっくりにできてるもんで よく間違われるのです
(RADWIMPS「棒人間」)
突飛な歌い出しだけれどもファンタジーではない。「人間じゃない」とは、ふつうより劣っている自分を極端にしめした表現だ。
手に入れた幸せは忘れるわ 自分のことばかり棚にあげるわ
怒らせ、苛つかせ、悲しませ 僕は一体誰ですか?
どうせこんなことになるのなら はじめから僕の姿形を
人間とは遥かほど遠いものに してくれりゃよかったのに
中身にどれほどの差があろうが、人間はだいたい同じ見た目をしている。「みんなちがってみんないい」とはなかなかいかない。同じ人間なのに同じことができない劣等感が、「姿形」だけで「人間」認定されていることへの苦悩として表れているわけだ。
人間ほど個体差のある動物はいないだろう。内面はほとんど違う生き物といいたいほど違っても、外見が同種であってしまうばかりに、同じ社会で生きなければならない。そうして比較が生まれ、比較による苦渋が生まれ、「ふつう」が生まれ、「ふつう」からの逸脱も生まれる。はじめから外見が人間でなかったなら、他の人間と比べてできないことを嘆かなくてもすみ、相手から「人間」を期待されることもないし、人間の美徳などというものに照らして自らを劣等感でさいなむこともなかったのだ。
僕は人間じゃないんです ほんとにごめんなさい
そっくりにできてるもんで バッタもんのわりにですが
何度も諦めたつもりでも 人間でありたいのです
「人間じゃない」とは彼にとって自己嫌悪の言葉であり、「人間でありたい」と願うことの裏返しであるわけだが、そういう痛切さも受けとりつつ、わたしは結果的にこの歌がぶつけてきた反問を強調したいとおもう。つまり、「見た目が人間」である自分を「人間」の範疇外におくことで、「見た目が人間であるなら人間である」という当たり前を相対的に問うことができていた、という。「人間じゃない」「バッタもん」の立場は、外見で決定される「人間」の定義を疑うポテンシャルをもっているのだ。
さて、「呪術廻戦」に出てくる「呪い」たちは、およそ化物というべき恐ろしい見た目をしているが、それは人間の負の感情が生んだものだ。「大地からなる呪い」である漏瑚は次のように話す。
人間は嘘でできている。表に出る正の感情や行動には必ず裏がある。だが負の感情ーー憎悪や殺意などは偽りのない真実だ。そこから生まれ落ちた我々「呪い」こそ、真に純粋な本物の人間なのだ。偽物は消えて然るべき。
(アニメ5話からの書き起こし)
「正の感情には必ず裏がある」というのは暴論だが、彼自身が負の感情の集積だからそうもなるだろう。
漏瑚は人間社会を転覆しようとしているらしいが、自分たちを「本物の人間」と呼んでいることに注目したい。人間を超えようとするのではなく、あくまで「人間」を絶対視し、なりかわろうとしているわけである。
あのいびつな姿形の化物をだれも人間とは呼ばない。けれども漏瑚の主張では、外見は人間の条件ではないのだ。人間と同じ見た目をすることが人間になることではない。みな同じような外見のなかに「裏」の内面を隠しもつものではなく、外見に偽られない内面こそが「人間」の条件であるという。
醜悪な姿の「呪い」たちだが、内面を強い根拠とする漏瑚の「人間」論を照らしてみたとき、改めて「人間」のありかたを考えることになる。彼らの身に具現化されたグロテスクさは、そのまま自分たちのほうへ跳ね返ってこないだろうか。
また「人間を起源とする呪い」である真人は、人の魂にふれて肉体を変形させる術を使う。肉体に魂が宿るのではなく、「肉体の形は魂の形に引っ張られる」と語る彼は、次のようにも話している。
魂はある。でもそれは心じゃない。
おれはこの世界で唯一、魂の構造を理解してる。それに触れることで、生物の形を変えているからね。
喜怒哀楽はすべて魂の代謝によるものだ。心と呼ぶにはあまりに機械的だよ。
人は目に見えないものを特別に考えすぎる。見えるおれにとって、魂は肉体と同じで、なにも特別じゃない。
(アニメ10話から書き起こし)
彼にとっては内面と外見という普遍的な区別じたいが無効である。彼が変形させた人間はことごとく「呪い」と似たグロテスクな異形と化す(呪術師が「呪い」とまちがって殺してしまうような)。まるで本質はすべてが醜いのだと嘲笑わんばかりに、彼には「真人」、真の人間という名が与えられているのだ。
人でないものに人が襲われる物語は根強い。一説では、食う食われるの食物連鎖から抜け出してしまった人間という種族が、生きる実感を得るために、自分たちが食われる話を創り継いでいったのだという。古くは八岐大蛇から、最近では「寄生獣」「進撃の巨人」「鬼滅の刃」のヒットもそこに連なるだろうか。
捕食者の存在を想像することは、餌としての自分を想像することだ。すべての生き物の支配者になってしまった人間が、そんな自らを、小さく脆弱な一匹としてとらえなおしてみることだ。その転換のなかにはたしかに、「人間とは何か」と問う試みの一端があったはずである。
人から生まれながら人とはかけ離れた「呪い」の側から、できあいの「人間」の定義に亀裂をいれていくはなしだというのが、「呪術廻戦」のわたしの解釈。彼らに反対できるのか、そもそも反対するべきなのか、排斥していいのか。主人公たちはこれからこの問題にぶつかっていくことになるんだろうが、それは読者の側も同じだろう。これからの展開を、自分のこととしても、しっかり見ていくつもり。