葬式にて。分かられてたまるか!

おじいちゃんが亡くなって、お葬式まで終わった。でも、まだおじいちゃんがいなくなったことを信じていない。おじいちゃんがいなくなったのではなく、もう会えないけどずっと一緒にいるのではないかという気もする。おじいちゃんの体から魂がフワーっと抜けて、私の心にポンっと灯ったような気もした。おじいちゃんがいなくなったというより、おじいちゃんに会える世界から、もう会えない世界に変わってしまったようだ。もう元の世界には戻らないんだと思う。

おじいちゃんが亡くなる少し前からお葬式が終わるまで、数々の混乱や矛盾があった。そして、「人間っておもしろいな」などとぼんやり考えた。おじいちゃんとの思い出といえば、おばあちゃん家でテレビをみたことや、おやつを食べたことや、一緒に遊んでもらったことなど。でもそれらの記憶が、もう既に思い出しにくくなっていることに驚く。たぶんおじいちゃんとの最近の思い出が、病院で調子が悪くなっていくおじいちゃんに何度も会いに行ったという思い出だから。だけど出棺前に最後に見たおじいちゃんの顔は、今にも起き上がって「何してんだよー」と言ってきそうな顔をしていて、混乱した。

涙が止まらないが、何の涙なのかよく分からない。悲しい涙?ありがとうの涙?感動の涙?なんか変だけど、部活の引退のときの涙に近い感情もある。でも苦しいし、いったい何の涙なのかも分からず涙を流し続ける。私はいかにもな感じで泣くのが嫌いで、でも涙を止めることはできないから、流れるに任せることにしている。マスクをつけていれば、涙も鼻水も垂れ流しだ。涙をぬぐったり鼻をかんだりするのが「いかにも泣いてます」な感じで、嫌なのだ。かっこ悪くて。涙なんて乾くし、鼻は垂れて床に落ちないよう、最低限すするにとどめる。鼻は最後に一回かんで、涙は流れ切ったころにサッと一回ぬぐっておしまいだ。人前では静かに泣くに限る。などと思いながら泣いていた。

おじいちゃんが亡くなる直前から、いろんな時間が用意されていた。おじいちゃんに声をかける時間、死亡判定の時間、体を清めてもらってから顔を見る時間、おばあちゃん家に連れて帰ってごはんやお団子をお供えする時間、お線香をあげる時間、納棺式で体に触れて、旅支度をする時間、お経をよんでもらう時間、お棺の中におじいちゃんの好物と手紙とたくさんの花を入れる時間、おじいちゃんのおでこに触れる時間、火葬場へおじいちゃんを送り出す時間、骨を拾って骨壺に入れる時間

無駄といえば無駄。何をしたっておじいちゃんは生き返らない。だけど、全部参加したい。亡くなる前も、亡くなってからも会いに行きたい。もう食べられないのはわかっているけど、お棺の中に入れるため、おじいちゃんの好物を一生懸命買いに走った。同時にそれをぼんやり見つめる自分がいた。

おじいちゃんが死んでしまいそう、死んでしまった、そのあと、どの時間も悲しいに違いない。けれど、しばらく会っていなかったいとこやおじさんおばさんに会えた。もちろん悲しいんだけど、いとこみんなでコンビニにアイスを買いに行ったりするのがものすごく楽しくて、今までのどのときと比べても、なぜか一番楽しくて、嬉しいのに混乱した。私が大人になったからか、怖いだけだったおじさんとも楽しく話せた。今までお正月なんかに親戚で集まったときは、ここまで楽しくなかったのに。どうしてこんなに楽しいんだろう。悲しいのに。四十九日でまたみんなに会えるのもうれしくて、混乱する。

火葬場での流れもすごかった。亡くなった後あれだけ大事にされていたのに燃やしてしまうの?!だし、焼きあがるのを待っている間に親族は昼食を食べるのだ。なんて残酷…でもそんな残酷さはいったん置いておかれるほどの非日常、ということなのか。おじいちゃんが焼かれている間に自分は食事をして、おいしいねなどと言っているおかしさ。極めつけは、おじいちゃんの骨を見て、「こちらがあばら骨でございます」「こちらが頭蓋骨でございます。丈夫なお骨だったようで、とてもしっかり残っておられます」などという説明を、「へ~」と皆興味津々で聞いているのだ。なんか変だなと思いながら私も真剣に聞く。

いろんな矛盾や混乱があり、でもそれが人間で、生きているってことなんじゃないかと思う。思ってたのと違う。わけのわからない涙。無駄なこと。悲しいのに楽しい。好きだけどさようなら。なんか変なんだけど真剣。ひとことで片づけられない。どんどん混乱させていこう。決めつけられたり分かりやすい言葉で説明されたりするたびに思うのだ。「分かられてたまるか!」と。

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