新しさより、生きている手応え。
対談 服部滋樹氏×鞍田崇氏
http://motokurashi.com/fukuiken-sabaeshi-renew-taidan/20160212
http://motokurashi.com/fukuiken-sabaeshi-renew-taidan-2/20160228
http://motokurashi.com/fukuiken-sabaeshi-renew-taidan-3-2/20160312
先日というかもう少し前に、『暮らしニッポン・フォーラム』〜地域が紡ぐ普遍的価値〜という講演を聴いた。
クロストークに参加されていた鞍田崇氏が気になり(ほかの方々も面白かったんだけれど…)、ネットで見つけたものの一部が、上の3つ。「灯台もと暮らし」、中條美咲さんの記事。
そして気づいた。
noteにこんなロゴあったやないの〜。
フォローしようか考え中。
うわ〜、なんか共感するわ〜。
対談形式なんだけれど、今日聴いていて深掘りできなかったところが捉えられていて、分かりやすかった。
もう若者じゃないけれど、自分で手をかけてものづくりすることで、じぶんの生きている手応えが感じられる。
ものづくりの側にも立つことで、新しい地域やひととの関わりが育つ。
繋がりのバリエーションが、田舎という1点にいながら、重層的に多角的に深まる。
山陰地方は、移住者比率が国内で上位に食い込むほど多い。
その人たちが、田舎暮らしの中で新しい価値創造をそこの人たちと模索し、提案・実行して、新しい風を吹かせている。
小さなコミュニティだけれど、横のつながりは、子育てや農業参加・起業などで広がっていく。SNS発信や田舎暮らしなどの雑誌での紹介などあるけれど、土台はプラットホームみたいな人や家族や場。
ネットで見つけて、実際来てショートステイで感じを掴んで、移住するかどうか決める。
SNSが間口を広げ、その後ジゲの移住の先輩とのアナログなやりとりが繋がりを深めるという感じ。
そしてその人たちのそれまでの情報や知識、人脈が次のひとを呼んでくる。…といった感じにわたしには見えている。
遠回りだけれど少し書く。
数年前、PTAの家庭教育講演会を教養部で企画した。
もう仕事でクタクタで自分に余裕のない状態で、ダメなじぶんを再確認する受け身型講演会はキツイ。
じゃ参加型でいこう。
講師は、兵庫の山崎清治氏がいい。
http://www.hyogo-intercampus.ne.jp/sugoist/interview/yamasakiseiji
地元で聴き損ねた講演会のテーマが気になっていたので、参加した人に感想を聞いて、教育委員会にも力をお貸しいただいて、みんなで開催した。
反応は、受け身型より良かったから、以降参加型も選択肢の1つになったようだ。
…でも。
反響はあっても、家庭の実生活に落とし込めたかというと、そうはなっていない。
単発参加型というスタイルだけでは、本来の家庭での親子や夫婦、地域との関わりに一石を投じるには及ばないと、我が家も含めて痛感した。
珍しいお客さん、立派で有名なひと、じぶんの生活圏外におられる方々は、物理的にも心情的にも遠くなりがちだ。
そのときその場で共感し、唸ったりしてもまた日々の喧騒にかき消され、心身の疲労は重なり、妻として嫁として親として、いやいや素の自分としてしっかりやれてないなんて、自尊感情が削られていく。
わたしってなんなんだ。
頭を振って、目の前のことをやる。やっつけ続ける。
実践した方々の成功例は、うちではトレース不能。
絵に描いた餅。ズズーンと落下。減速。
しかしそこへ、等身大の人たちがコミュニティに入って一緒に暮らす。
会おうと思えば会える。
何気ないやりとりも気軽にできる。
関わっていると少しずつでもできそうと思えてくる。
最近、いろんな企画イベントに食指が動かないのは、どんなにすごい目玉企画でも、打ち上げ花火みたいに繋がりがブツ切れだからじゃないかと思う。
お客で行って、案内通りのサービス、タイムテーブル通りの進行。最後に交流会。食べて飲んで、終わり。
なにか良いこと聴いた。新しい価値観・見方に、自分も刷新された気がする。
気が、する。
そしてまた、自分を刺激してくれるもの探しの行脚を繰り返すのだ。
これは気の合ったひとと出会えると楽しいけれど、自分だけで終わったら再び虚しさに襲われる。サロン化した場もよほどのことがない限り、苦手。
今は発信できる場が拡がったから共有できるし、個で終わるばかりではないけれど、未消化のまま飲み下していないか、…コーヒーやドリンク剤みたいに、上っ面の実感に中毒してないか、時々じぶんに尋ねてみた。
そしてそれから、遠くへ出かける頻度が減った。
まずは、ふらつかないで足元からと言い聞かせる日々。
ここから見える景色。ここで今、関わるひとや物事を通して見えるじぶん。
これから。
どういう手段・ツールであれ、この繋がりの継続や深さ広さを狭い範囲から濃くしていくのが、まずは大事なのかなとも思う。
愛想の良い人見知りには、濃い関わり合いはハードル高い。
そして手応えは、数字みたいにわかるようでわからん綿菓子より、やっぱり直に関わってみて深くなるもんだなと、ひとも、土や植物・虫相手にも思うことが多い。
…こんなときわたしはこう感じるんだ。
そういったじぶんの今のかたちは、頭だけでなくやっぱり手足を動かして、じぶん以外のものとの関わりの手応えを通じて、はっきりするんだなと、最近とみに思う。
量やスピードで押す部分もあるだろうけれど、ひとの大事な柔らかい部分は、それだけでは掬い切れないような気がするのだ。
長い。ごめんなさい。
ここまでお付き合いくださったかた、ありがとうございます。
まだ曖昧な部分があるので、この件はしばらく静観してみます。
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