フリーダムと私。(と見せかけて、おじいちゃんと私。)
私がこんなにも『自由』なのは父譲りらしい。
正確に言うと、父方の男が自由すぎる家系らしい。奔放な男と、それを転がし、家を支え守る強い女。それが私の、父方の親戚に抱くイメージ。
私は見た目も性格も父方の家系を色濃く受け継いでいて、「ちさとちゃんは佐々木(仮)の顔になったねぇ~!」とよく言われたものです。どんな顔やねん。(あ、こんな顔か。)
父も若い頃はアルバイトをあれこれふらふらしていたし、あちこちに行くのが好きだった。と聞く。
祖父なんて死んだ時、『ひとり我が道を行く雲』という文字の戒名をもらった。親戚一同が「ぴったりなのつけてもらったねぇ」って大爆笑してた。それくらいのフリーダム。
私は特にこの祖父に共感しているところがあった。
祖父は叔父の家の離れに暮らしていた。祖母は父が高校生のころに亡くなったから、祖父はもう長いこと一人暮らしみたいなものだった。
私が物心つく前、叔父が転勤で県外にいた頃はうちの家族が叔父の家に住んでいて、だから私は生まれてから2年くらい祖父と一緒に住んでいたという。
そのせいかなんとなく、祖父は私たち姉妹を、特に自分の家系の特徴を強く残している私を、気に入っているような印象はあった。
大人たちの言葉を借りれば「いっつも昼間から飲んでるから」という理由で、祖父はどこを見ているかあまり分からないし、何を言っているかもほとんど分からなかった。要するに意思疎通がほとんどできなかった。
なので何を考えているかまったく掴めず、どこか存在感が希薄でぼんやりとしていて、現実味がなかった。仙人みたいだった。
幼稚園児からすればそんな老人は怖いのだが、私はその仙人みたいなところにすこし憧れていたし、怖さ以上にこの人を好きになりたいなと思っていた。何となく同じ匂いを感じていた。
祖父のほうでも、その不器用な好意を感じてくれていたのだと思う。
「ちさとちゃんが来ると、おじいちゃんは機嫌がいいね」と時々親戚たちに言われた。それが誇らしくて、くすぐったくて、嬉しかった。
幼さゆえに自分の思考を外に出せない私と、老いゆえに自分の思考がぼんやりしている祖父とは、感情の拙さという点でも同じだったのかもしれない。
また私たちは孤独でもあった。
それは『自由』に必ずついてくるものであるし、妻に先立たれ離れで一人暮らす老人も、自立心旺盛で大人に放っておかれがちな幼稚園児も、どちらも孤独な生き物だったから。
孤独で拙い私たちは交流もへたくそで、思い出と呼べそうなものも数えるほどしかない。
鳥をたくさん飼っていて、かわいいと言ったら、「持って行くか」と冗談を言ってにやりと笑ったこと。
(その「持って行くか」も分からずに、叔母が通訳してくれた。)
遊びに来てくれた時、近所のスーパーに一緒に出かけて、「うちではお菓子は100円までって決まってるんだよ」と言ったら100円以上するお菓子を買ってくれたこと。
(これにするか、これ買ってやろうか、と指差すお菓子が全部100円以上だった。)
叔父の家の犬と遊ぶ私を、私には笑顔と認識できない笑顔で、黙って見つめていたこと。
(でもそれが祖父にとっての笑顔なのだということは分かっていた記憶がある。)
叔父の家を訪れるとのそりと出てきて、あいさつなのか何なのかよく分からない声をかけてくれたこと。
(単語としてもあまり認識できなかった。今思い返せば呻き声にも近かったように思う。)
どれも小さくてやさしい思い出だ。本当に私は祖父に愛されていたのだなと、思い返すたびに気付かされる。
お互いに不器用な好意を、お互いに不器用に交換し合っていた。そんな感覚がどこかに残っていて、ほんのりと幸せになる。
中でもいっとう好きだったのは、祖父の目だった。
祖父はグレーのような薄い水色のような、不思議な目の色をしていた。その昔まだ父と付き合い始めだった母が、父の妹に「うちのお父さんはロシア人の血を引いているから」と言われて信じてしまったそうだ。そんな話が残ってしまうような目の色だった。
祖父の体調が悪くなった、いよいよ長くないぞと言われて、もう一度あの目を見たいなと思った。
当時19歳の大学生だった私は、3日に一回ほど看病に行っていた母に連れられて病院を訪れた。
出かける直前になって、言い出したら聞かない母が「あんたが最近作ってる手まり、持って行けば?おじいちゃん、ちさとが作ったんだよって言ったら喜ぶよ」と思いつき(提案という名の命令)、当時興味があって作っていたかがり手まり(フェリシモのキットによる)を紙袋にぶら下げていた。
母が「これがいいと思う」と指名した青いのは私がいちばん気に入っているやつで、祖父のためとは言えそれを手放すことに少しむくれていた。
数年ぶりに会った祖父は眠っていて、穏やかだったけれど、ずいぶん痩せていた。足なんか棒だった。棒「みたい」ではない。棒そのもの。人間の足ってこんなになるんだと、ある種の恐怖を感じた。呼吸器が時折曇るので、あぁ息をしているんだなとやっと分かった。
「おじいちゃん呼吸器すぐ外しちゃうから、危ないのよ」
祖父の身の回りを整えながら、母が言った。その言葉は何度も聞いていた。そのたびに私も、「気持ち悪いんだろうね」「邪魔なんだろうね」と答えていた。
でも実際に眠っている祖父を見て思った。
おじいちゃん、こんなの要らないって言いたいんじゃないかな。
もう死んでいいからいいよって、思ってるんじゃないかな。
そんな不謹慎なことは言えないから黙っていたけど、なんとなくそんな気がした。
仙人みたいな人だから、生きることと死ぬことの境目がないようにも思えた。そんな祖父ならば、どっちの位置に立つかを自分で決めても不思議じゃないと思った。
それに私と似た人だから、死のほうに偏っていてもおかしくないなと、完全に一方的なイメージで思っていた。
こんなに苦しくてきついんだったら、早くおばあちゃんに会いに行きたいよね。
死後の世界なんてこれっぽっちも信じていなかったくせに、そう思った。よく分からないけどよく分からない感情がいっぱいになって、やっぱり祖父の目が見たくなった。でも祖父は全然起きなくて、曇ったり晴れたりする呼吸器をぼんやり見つめていた。
「いつもだったら起きてる時もあるんだけどね。でも、寝てるのか起きてるのか自分でも分かってないみたい」
祖父はどんどん遠くの世界に行っているんだと思った。
自然の摂理だから抗う気もないし、祖父自身がそれを望んでいるような気もしていたけど、やっぱりこうして直面してみると悲しかった。そういう悲しみも、祖父があの綺麗な両目で見つめてくれたら、少しは肯定できるような気がした。
だけどその日、私が帰るまで祖父は起きなかった。
未練を残しながら、枕元のテーブルの上に青い手まりを置いて帰った。
翌週に祖父は亡くなった。
臨終にも立ち会ったけど、結局あの目は見られないままだった。
青い手まりは祖父の頬の傍に置かれて、祖父と一緒に灰になった。
なんだかむしょうに淋しかった。思い出も少なく、何年も会いに行かないような不孝者の孫だったくせに、理解者をひとり失ったような気分になった。
でも本当に、私たち、絶対にお互い最高の理解者になれたはずなのだ。そう思うのはお互いのことをよく知らないからかもしれないけど、それを踏まえても、なれたはずだと心底思う。
孤独で拙い、不器用な私たち。
そのくせ頑固でこだわりが強くて、自由を求める私たち。
年齢も性別も生きてきた時代も何もかも違うけど、きっとすごくいい友達になれた。とても仲良くなれた。
そんなふうに今でも思う。
そうやって祖父を思い出すたびに、あの綺麗な両目に会いたくなる。グレーのような、薄い水色のような、透明な両目。
あの色に、また会いたい。
おじいちゃん、元気ですか。
今どこにいますか。あの世ですか、この世ですか。
おばあちゃんには会えましたか。私はおばあちゃんを知らないので、今度会ったら、おばあちゃんの話をしてください。
昔の話もしてください。船を作っていた頃の話も聞きたいです。それからメジロの話も。
一緒にお酒でも飲みましょう。うちのお母さんが作った梅酒を、たくさん持って行きます。
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