本を読むこと、
子どもの頃 本ばかり読んでいた。
一日2・3冊読むことも珍しくなくて、中・高時代はよく授業中に机の下で隠れて読んでいた。
今 思えば先生ごめん。そしてよく思い出したら大学のときもたびたび読んでた。先生ごめん。
何故そんなに本を読むのか、と聞かれることが当時からあったのだけど、単純に文字を追うのが楽しいだけで。
別に崇高な理由は一個もなくて、
『これを開きさえすれば、見たことも聞いたこともない新しい世界が広がっている』
『それを自分の力で追いかけていける』
っていうのが好きなだけ。
いろんな人の思いや考えに触れるのも好きだったし、これら全部を通じて自分の感情が揺さぶられるのが好きだった。
読書は体験だって言葉を大きくなって知ったときに、「あ!そう!そうなの!!」って思ったけど、要はそういうことで、
『誰かの作った世界を体験し、私の世界の一部にする』
っていうのが楽しかったし、今でも楽しい。
だから私は読書に知識も教訓も求めちゃいないし、小説なら何時間でも読むわりに新書の類はあんまり好きじゃないし、その本の内容を全部すっぽり忘れてしまっても、読んでる間の数時間が楽しければそれでいい。ドライブとかカフェとか旅行とかと同じ、一個の娯楽だから。
ただ、大人になって振り返れば、少なくとも小学校時代の私にとっては読書を通じて得られる何かが生きていくために必要だったんだと思う。たぶん。
本って現実逃避の手段だったんじゃないかと思うし、逃避したい現実を乗り越えるだけの力も、本が与えてくれたんだろうなって。
本って一人でしか読めないから、読んでいる間は、自分の中だけにしか世界がない。
本の世界に浸る、ということは、本の世界に逃げ込む、ということでもあった。自分の内側に籠る大義名分だった。外側がどうなっていようが、今 私の中で展開しているものはいつだって素晴らしかった。
読書をすると世界が広がる、って言うけど、私の場合はひたすらに深々と自分を掘り下げていた実感がある。
そして自分の中だけにしか世界がない、ということは、それを誰かと共有することも(一部分しか)できない、ということで。
それは淋しいことかもしれないけど、私にとっては『誰にも絶対に奪えない、唯一無二の私だけのものがある』ということで、確実にひとつの支えだった。
それにもちろん、本の世界の人々の言葉や、行動や、考え方が、私を助けたり慰めたり勇気づけたり支えたりしてくれた。本は絶対に私を傷付けなかった。
小さい頃の私は些細なことほどよく傷付く(しかしでかいことには逆に傷付かない)タイプで、あんまり生きるのに向いていなかったので、その安心感もまた本を読む理由のひとつだったんじゃないかと、今では思う。
ということを、去年あたりに書きかけてうまく書けなくてやめたのだけど何でだか今すんなり書けたので書きました。笑。
何が言いたいかって、本読むの好きだし本があって良かったなってこと。それだけ。
Facebookに書いたら妙に好評で、いろんな人と気持ちが通じた気がして嬉しくなって残しておきたくなったので、久々にnoteにしました。
フォトギャラリーで検索したらとっても素敵なイラストがあったのでお借りしました。