システムについて、あるいは逃走について
この物語はシステムとテクノロジーをめぐる物語でもあります。
まだ、明らかになっていませんが、物語の後半ではシステムとテクノロジーが物語の大きなキーワードになります。
Xでも引用した村上春樹さんのエルサレム賞のスピーチ
ここで述べられるシステムというのは戦争のことを指しているとされていますが、暗に文学というシステム、賞というシステム、マスメディアというシステムに対するメタファーでもあります。
イスラエルとパレスチナという闇をかかえた深い/古い物語の中で、1人の小説家としてできることはなにか、それは虚構の創造力/想像力により、世界に別の光をあてることができる力だと述べています。
ドゥルーズ=ガタリは従来の「システム」と対峙するイメージとして「リゾーム」、「逃走線」、「戦争機械」というイメージを生み出しました。
システムとは超越的な何かを中心とした絶対的なシステムを指すのに対し、ドゥルーズ=ガタリの「機械」は横断的で非中心的なネットワークを指します。
リゾームは植物のメタファーが使われている通り、ドゥルーズ=ガタリのイメージは点と点が結びつきできていく自発的なネットワークというイメージです。
このイメージは思想だけなく30年経ち、インターネットというテクノロジーの中で徐々に現実化し、さらにWeb3、NFT、DAOというテクノロジーの思想的根源に繋がるイメージです。
1980年に提唱されたノマドという言葉はインターネット時代を経て、今では大学生でも知っているポピュラーな言葉になりました。(ほとんどの人はイメージはしていないと思いますが)
ドゥルーズ=ガタリは「逃走線」という言葉の中で逃走は必ずしも単に逃げるだけでなく、現実的で積極的な創造的な行動としています。
響の母「きょう、彩のあたらしい学校を見学してきたの」
響の父「彩を転校させるのかい?」
響の母「フリースクールよ。すごくいい教育方針で子どもたちの個性を重視した伸びやかな教育をモットーとした学校なの、あなたはどう思う?」
響の父「いいと思うよ。ぼくはもともと、彩に学校なんて行かせる必要はないと思っているからね」
響の母「そういうわけにいかないわよ。社会に出たときに彩が困らないようにするのも親の義務だもの」
響の父「社会性なんて生きていれば身につくよ。学校だけが社会じゃないだろ。今はインターネットもあるし、世界中の誰とでもつながれるんだし、それに、若い時はコミュニケーションを取らなければいけないというのは社会が生み出した妄想だよ。僕なんて本を読んで映画を見て音楽ばかり聞いていたし、学校なんて信用していなかったよ。彩の教育なんて僕がお店の中で働きながらするよ」
響の母「そういう極端なこと言わないで」
響の父「とにかく、友だちなんて一生で1人か2人いればいいし、彩にお店でアルバイトさせていれば一生で友だちの1人や2人できるだろう」
これは、10歳で突然、話ができなくなった響の妹の彩を新しい学校に通わせるかどうか、響の両親が経営する『喫茶ミネルヴァ』で夜中、響の母と父が話すシーンです。
響の父、康文は逃走線の可能性を信じています。
学校というのもひとつのシステム、近代教育制度は現代社会批判の中でよく批判される対象です。
学校で学べることもたくさんあるし、学校が何かを1人の輝く何かを壊すこともある。
みなさんはどう思いますか?
きょうはここまで
みなさまと一緒にワクワクしながら、この不思議な旅を楽しんでいきたいと思います。