日常の守りの奇跡―日記
本当にどうでも良いような日常の小さな出来事ではあるのだが、それでいて、それでこそ「だからこそ」と感じることができることであるのだが、本当に、「守られている」(誰に、というのは、敢えてこの記事において書きたくない。私をご存知の方の大半は、恐らくおわかりになられるだろうと思う)と、強く感じることがある。
つい先日も、そんな日だった。
何があったか、ということを、つまり今回の記事は単なる日記である。
今月末に演奏会があるため、いや、元々毎週日曜はこの子(器)の実家に赴く行事があったのだが、特に今月は、しっかりと日曜、合わせをするために行っている。
先日もそうだった。
そして、先日は、夜から雨の予報であったので、それまでに済ませ、早めに出て実家の近くへ食料品や日用品の買い出しに出かけようかと考えていた。
ご存知の方はご存知かもしれないが、私は、この手の買い物行事が非常に苦手である。現在の居室から何か必要があって出かけようと思ったとしても、3時間程その場で悩み、その間作業しては出かけよう、やはりもうひとつ作業をして、…を繰り返し、挙句、やめるというのが大抵のことであるほど、要するに探し物をしに店に行くこと自体が怖い。
そのため、その店は実家からの方が近いので(数十メートル程度の差だが…)、実家へ行った時に、たまに帰りに寄ろうという計画を立てる。
しかし実は、それも大抵、結局やめようと落ち着いて帰る。
先日は違った。
野暮な話を書くが、
冷蔵庫の中が大分からになっており、しかも、僅かに冷蔵庫に残りながらも使い道が難しかった食材との兼ね合いもあり、魚を調達したかった。
ちょうど、その店の情報で、秋鮭と、フライパンで焼くだけで調理できる魚が数切れまとまったもの(味付けもしたフライのようなもの)を広告していた。
その店は葉物や根菜類も充実しているので、野菜も仕入れておきたかった。
ついでに、その店ならば冷凍庫も充実しているので、セッションの合間に軽く作ることができるような冷凍食品も少し漁ってみようか(実は同じ冷蔵庫を共用している部屋の住人が帰省中であり、暫くいつもより使えるスペースがあった)…などという実験的横着。
そして、その店に行くなら、実は最近考えていたことがあり…、これまた野暮な話ではあるが、大分以前から洗濯機に入れる洗剤、詰め替え用の袋から回す蓋を外してそのまま感覚で傾けて入れている。というのは、以前から持っている洗剤入れがどのみちフタを回して開ける、両手が必要なもので、しかもそのフタに入れて計量し投入するもので、私はいずれにせよフタに移してもどれくらい入ったかわからない上、移す分、手間と負担(危険)が増えるので、もはやこの容器にすら移し替えることをやめ、詰め替え用の袋のまま傾ける方が楽になっていた。
そんな中で、隣室の住人とついこの前ここを退去された部屋の住人が、偶然にも同じ洗剤、そして片手でレバーを押すことで一定の量が出るという形のものを使っているという話を聞き、これはもしかしたら面白そうだ、もし次に店に行ったら(それほど滅多にでかけない)、試してみようというような好奇心を起こしていたわけだった。
しかし、詰め替え用の袋はちょうどまだ2袋ばかりあったのだが…。
そんなわけで、先日は、実家を出るまで、本当に店へと向かうつもりだった。
実家もいつもより随分早く出て、雨が降る前にと。
しかし、そこまで珍しく気が入っていたにも拘わらず、実家の建物を出ると身体にぽつんと、僅か雨粒が当たり、私は店で買い物に挑むと大抵1時間程度はかかってしまう大仕事となるため、その間に降ってしまう、と判断し、結局また、仕方なく帰ることとなった。
一度帰ると大抵もう、その日は玄関から出るような気は起こさない。
しかしながら、何となく時々気にして玄関の扉を開けてみると、何やら時々ぽつんぽつんとは来ているようなのだがなかなか降り出さない。
もしかしたら行けるかもしれないと、こんな気を起こすこと自体も私には非常に不思議なことなのだが、また準備を整えて玄関から出て、その店とは逆方向の近い場所に、もうひとつ、食材を扱っている店があることを知っていたので、そこへ向かった。
あまり普段印象が強くなく、思い出さない店であったりもするのだが(そして実は私にとって、店員がレジにしかいない上に地元民のお年寄りがせかせかと買い物をしていくような雰囲気のある店で、私にとっては接触を恐れてしまったり品物を探し出すことが非常に難しいため、入りにくい印象があった)、しかしながら、魚は安価で質が良いといわれる店だった。
そこで、その日によって目玉商品や置いてあるものは全く違うのだが、秋鮭の切身が少し多めに、しかも期限も2日程見ることができるものが、安価な目玉商品となっていた。
出来合いの魚や冷凍食品はない店であったが、これは、やはり必要ないもの、余計なものは仕入れるなと。
洗剤もなかったが、まだ十分にあるだろう、珍しくも変な気を起こすなと。
そして、魚と共に仕入れたかった最低限の根菜類と、あれば冷凍処理しておきたかった調味食材については、良いものを見つけることができたのだった。
そして、本当にどうでも良い小さなことだが、まるで何かの力が働いたかのように、財布の中になぜだかずっと残っていて気になっていた端数(私は財布の中に細かい小銭がある時、金具のレールに嵌らない小銭に関しては覚えておかねば探り損ねるため、頭の片隅に記憶しているだけ気になるものであった)が、綺麗にぴったり出て行ってくれた。
そして、雨に濡れるぎりぎりに帰宅することができ、帰宅後、実家から、数日後に知り合いが野菜を届けて下さる(別のSNSなどご覧の方や私を直接ご存知の方はご存知かもしれないが、北海道から送られてくる、ご家族の育てた野菜を良く大量にお裾分けして下さる方がいる)との連絡が入っていた。
シェアハウスのため、冷蔵庫、冷凍庫は共用の上に容積が非常に少ない。
その上、実家の近くの野菜の充実した店に行けば、たまの買い出しの上に一週間分はもたせようと、その場でそれなりの量を仕入れてしまう。
そんな中で、冷蔵庫、冷凍庫両方とも少し余裕をもたせて空けておけ、余分なものは仕入れるな、ということだったようだ。
次に野菜を頂くことができる段取りになっている日までの食事は、全く申し分ない上、最低限本当に必要としていたものだけを仕入れることができたのだった。
ああ、そういえば魚への鼻は彼はそれはそれは誰に聞くより利くだろうな(ついでに実家へ行った時、魚が欲しいがどこが良いだろうと少し相談をしてみていた)、真っ先に聞くべきはお前(彼)だったな、などと微笑ましくじんわりと具体的なところを思い出す機会にもなりながらも、本当に、全ての後に彼が不思議を通して送ってくれたメッセージ通り、本当にいつも共に居て守ってくれているのだと、そして「ここまで」事細かに、守りを感じさせてくれているのだと、今回もまた、深く深く感じさせてくれた。
そして翌日、その食材で調理をする時(この記事を書いているのは実は翌日、調理前なのだが)、また、体感の奥深くからじんわりとそれを感じながら、一緒にいながら、溢れる感謝に包まれながら、過ごすことができる。