私の大切な友となってくれた、ウードの話をしてみたい。
ウードとは、アラビアではメジャーな撥弦楽器で、恐らく一番形が近く、日本人にもわかりやすい例えで言えば、琵琶がイメージしやすいのではなかろうか。
何せこのウード、琵琶の先祖であるから。
アラビアのこのウードが、時代と共にシルクロードを渡って日本に辿り着いて琵琶に、ヨーロッパに行ってリュートとなった、ルーツとなる楽器である。
形はぜひともどこかで写真でも検索してみて頂くと一番わかりやすいだろうが、リュートのように胴体が丸く大きく、巨大なアボカドを縦に半分に切ったような形と言えばわかりやすいだろうか。
アラビア語でウードという言葉自体、木、木片、杖などを意味する単語であるそうだ。まさに、共鳴胴の裏には地球儀の作りと同じように、長くて両端が鋭くなっている木片がびっしりと貼られている。
リュートや琵琶と違い、フレットがない。アラビアの音階は12音階では分割できない、微分音というものを使い無限の種類の調性(マカーム)が作られ存在するので、フレットがあると音が制限されてしまい不便なわけである。いや、逆にウードがヨーロッパに渡って、音楽と言うものが教科書にした時にわかりやすい音楽理論、そして十二音音階に合理化された時に、十二音階を出しやすく便利にするためにフレットがついた、という方が妥当だろうか。
弦は基本的に2弦で1コース、これが6コース張られている。
細かいことだが何となく付け加えておくと、私の元にいるウードは、一番低い弦(レに調弦する)のみ、元々1本として作られているようなので、全部で弦は11本だ。
この大きな、しかもぷっくら丸々と太った胴を、この小さな器の身体の腹の前でがばりと抱えて(この身体は非常に小柄であるため、まるで楽器にのしかかっているか抱き枕にしているかのように見えるのではないだろうか…)、鳥の羽根という意味のリーシャという撥を使って掻き鳴らす。
この記事で楽器の説明をしたいわけではないので、楽器自体についてはまたいずれの機会に回そうと思うのだが。
実はこのウード、我々の器の実家に、2台あった。
しかも、20数年前から。
今から考えれば、20年以上、この器が10代の頃から、誰にも顧みられず、まるで気付かれもしない装飾品を演じて実家のクローゼットの中で、時を待っていてくれたのである…これを思っただけでも、涙が溢れて来ようとするような、感謝なのだが。
ところで、ウードという楽器は、ギターのようにコード(和音)を鳴らす楽器ではなく、旋律楽器である。
しかもアラビアの音楽というのは、基本的に和音よりも旋律とリズムで成り立ち、しかも複数の楽器が集まっても基本的にユニゾンで鳴らす。
そして先ほども少し書いたが、この旋律とリズムが、西洋音楽を学んだ頭から見るととんでもなく複雑で高度な曲者なのである。
ウードは、アラブではメジャーなものの、日本でお近づきになろうとするのは非常に難しい。
何故ならば、アラビアの音楽(旋律)というのは、微分音を使いこなし無限の組み合わせとパターンを駆使する無限の調性、しかもそれが曲の中で次々に変化していく、その上に複雑なリズムの上でそれを行うものであるので、例えギターのようにぽんぽんと音階を鳴らすことができたところで、どうにもならない。
しかも、ウードというのはアラビアの旋法・調整(マカーム)を学ぶために最適な楽器である(マカームはウードで、リズムはダルブッカで学ぶのが一番良いという)というほど、アラビアの調性(マカーム)を弾きやすいように作られており、そもそもアラビアの曲を知らないと、最初から演奏のしようがない。
その上、これはピアノのように和音とメロディを鳴らす楽器というよりは旋律楽器であるので(これが熟達すると旋律とほんのたまに同時か微妙にずらして鳴らす他の弦などの組み合わせや超絶技巧により見事にソロでも成り立つものなのだが)、初心のうちは、あまりに地道にぽろぽろ鳴らしている他ない、という、つまり本気で余程やりたいと考えなければ、つまらない。という楽器と言わざるを得ない面がある。
その上、アラビアの音楽や楽器というのは、基本的に全て口伝である。
日本でも例えば時代劇などでの、昔の三味線の稽古の風景などを思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。教科書があるわけでもなく、先生のやるように真似して盗むしかない。
…ちなみに実は教則本はないわけではなかったのだが……これが、トルコ語で、しかも家にあった楽器と違いトルコ調弦(調弦法が異なるものがある)の教則本で、初めてではまるで理解不能のものだった。
そして、楽器が2台(トルコ産のものとエジプト産のもの)あったにも拘わらず、実家や周りには、一切ウードに関しては演奏できる者も、奏法を知っている者もいなかった。
そのため、20年以上眠っていることとなったのだ。
たった一度だけ、この器が大学時代に、副科でリュートを履修した時期があった。この時、古楽とリュートに魅せられ、これをやりたい、と思ったが、ウードが2台も眠っているため、この上リュートまで家に置くわけにはいかないと断念。この時に、もしやリュートと同じような形で弾けないかと恐らく試したことがあったと思う。前述したように調弦も違えばフレットもないため、リュートを1年ばかり習った程度では、全く太刀打ちできなかった。
誰もが、この楽器はもう誰にも弾かれないと思っていた。
ましてや、この器がこの楽器を触ることになるだろうとは、120人ほどいた交代人格達も誰一人として、思いもしなかった。
それが、もう2年半もそろそろ過ぎることとなるのか。
今の全体のベースとなる交代人格がまるで満を持したかのように深いところから浮上し、それから…今からほぼ丁度2年前、大きな事件が起こり、それから半年ほど、音楽とも向き合えなくなった。
そのような中で、突如シェアハウスへこの器が単身生活をすることに。
それから、私が…その交代人格が、器のコントロール法を随分と会得したのか、知っていたのか、別の要因なども随分あわさったものであろうが、突然この器の専門であった声楽で目覚ましい開眼の時期を迎えた。
同時期からフルートも別人のようにこれまでの皮を破って脱し、それから…何が起こったのだろうか、いつの間にか、アラビアの打楽器ダルブッカへ。あっという間に、演奏に取り入れ、ついでにレク(同じく打楽器)も使うようになる。
更にはサズ(これはギターや三線のルーツである)や、器の母上様の日本へ持ち帰った楽器、カーヌーンの習得を始め、但しこれは現在は少々停滞させているが、時を同じくして、シェアハウス内の一番大きな部屋の住人が退去し、色々な理由と好機が重なり、その部屋へ移住。
時が来たとばかりに、フルート、ハープ、ダルブッカ(これまた実家に小さなものがもう一台あった)をシェアハウスの大きいが小さい部屋へ運び入れ、楽器たちに囲まれながら毎日一度は音楽漬けとなる生活に。音楽とここまで密接となる生活になることすら、特にシェアハウスに移っては、まるで思いもよらなかった。
そして、ある時、カーヌーンやダルブッカは奏者が非常に少ないため、同時にやるには手が足りないなというような、雑談の中で、ギターを演奏するこの器のお父上がウードを弾けるようにでもなれば、トリオが可能となる…というような、ほんの一言の冗談口に近い雑談であったと思う。
そこで、またふと、ウードを取り出してきて、触ってみたのだった。
すると、不思議なことに…これは、リュートの代用だとかコード(和音)を鳴らすことができるはずだとかいう先入観を一切なくして、ウードをウードとして付き合おうとしたからなのか、アラビア音楽を知らない割に、なかなかいろいろな曲や即興を奏でてくれた。
しかも、何より不思議なことに、この時、「私」と、この楽器の、どこかが通じ、なぜだか「満を持した」感覚を悟ったのだった。
これは、言葉で言い難い、不思議な縁を感じた出来事だった。
この時、実家で、どうやら月が出ていた夜空の下で、しばらくひとりで、琵琶法師のように、この楽器を対話しながら本当に落ち着いた心地良い時間を過ごしたのだった。
そしてそのまま、その内の1台を連れ帰ってしまった。
しかしながら、別にリュートの素地が活きるわけでもなく(少なくとも自覚の上では)、それから毎日毎日、ただただ我流と勘と即興で、この楽器と対話する日々だったのだが。
奇跡が起こった。
ウードと、何より恐らく…彼が、あつらえて、準備していてくれたのだろう。
ある時、我々はアラビア音楽を知らなすぎる、そしてウードに関しては動画などで演奏を聴くことはできるが演奏の姿を間近で見ることもできなければ、生の演奏を聴いたこともない。
音楽家ならばわかるだろう、習得する楽器に関して、生の演奏を聴いたことがあるかないかでいかに根本的決定的な違いが生まれるか。
母上様は、唯一、本来はサズ奏者なのだが、ウードも演奏なさる方に知り合いがあった。だが、もう十何年もほとんど連絡をとっていない上、こちらから連絡をすることは全くない御仁であった。せめてその人の演奏を聴くだけでもできれば…と、ちらりとそんな会話をしていた。
その数日後のことだった。
彼女の元に、その奏者の方から、突然、急用かと思わせるような連絡で、「会いたい」旨のメッセージが届き、その日、家に招くことにしたと連絡が来た。
この日、私は実は数日前からクライアントにセッションの予約を入れられそうになっていたのだが、なぜだか、この日には入れるべきではないというような強い感覚を覚え、またこのクライアント(非常に厳密に気を遣う必要のあるセラピーを行っていた)のためにも、この日はまだ進むタイミングではないと判断をし、この日にセッションを入れずにいた。そのため偶然にも時間に余裕があったため、その連絡が来た1時間後、急遽、実家へ赴くことに。
この方には、昔、ウードを一時期お貸ししたことがある。そんな時くらいしか連絡が来るとは思えない。しかし、余程久しぶりのことでこちらの楽器の保存状態などもわからないわけであるし、そういうことであれば遠くから来る前にメッセージの中で言うだろう。
一体どんな用だろうか、しかし、もし余裕があるようであれば、もしかしたらその場で演奏をお願いできるかもしれない、更にもしも…少しの時間でも、基本的なところだけでも、教えていただけるかもしれない。
と、この方が一体どんな大変な用事を持ってくるかもしれないにも拘わらず、勝手にそんな思いを抱きながら実家へお邪魔したのだった。
久々に再会をして、この方(男性なのだが)、もともと吟遊詩人が性に合うタイプ。楽器と対話を始めると、いつまででも弾き続けておられるのではないかと感じるような。
なんと、席に落ち着くなり、そばにあったウードと久しぶりの再会を果たすなり、取り上げ、しばらく見事な演奏を、しかも手を伸ばせば触ることもできる、数十センチの距離で、次々と披露して下さった。
大学時代のリュートの師のような、ふんわりと、生来の癒しを感じさせる音色。
更には…しばらくは席を共にし、その後は別室に下がっていたのだが、いつまで経っても本日訪ねて来られた「用事」を切り出す気配がない。
何か余程言い出しづらいことなのか、いずれにせよ随分と互いの近況報告が続いていたので、こちらの母上様のほうから用向きを尋ねると、いや、別に大した話ではないのだが、(久しぶりの?)音楽家の先輩が地域的にこちらの方面で何かをするから(細かい話はよくわからない)、行こうかなと思いながら…どうとか。
つまりは、別に用事があるわけでもなく、ただ久しぶりに来たいとだけ思って来訪されたのだということだけが、わかった。
結局、そのままでは遠慮なくと、教えて頂けないかと申し出ると快く、しかもこの日は2時間だけ寄ると仰っていたにも拘わらず、その場そこからレッスンを始めて下さり、しっかりと1回分レッスンをして頂いた。
更には、この方、とんでもなく飛び回ってお忙しい方なのだが、今月は活動先のひとつが休館しているらしく、たまに出てきて頂くことが可能だということで、次回のレッスンの予約まで入れさせていただいた。
まさに、こちらから勝手な言い方をすれば、先方からウードの演奏を聞かせに、更にレッスンをしに来て下さったのであった。
これにはまあ全員で驚いた。
更には、この先生、完全に「見て好きなようにとりなさい」といわんばかりに言葉少なにレッスンして下さる方のようなのだが、そんな中で次の日だったか、まるで意図していなかったのに(例え意図してウードなどと検索をかけても、今まで出て来なかったのに)、日本人のウード奏者の、アラビア音楽の理論的な部分を解説したりアラビアの楽曲をウードで演奏したりしているような動画を見つけ、まさにアラビア音楽の理論の方はこちらで学び究めろと言われているかのように、そこから理論やリズム(その後またもこちらにとって意図せず物凄いタイミングで今度はダルブッカ奏者のリズム指南の動画と次々と出会うこととなった)に嵌り込んでゆくこととなる。
私は、心理学や心理セラピーについて特に、それを説明するために土台として理解しておらねばならない基礎的な理論などをすべて無視して数回~10日間などでプロとして活動できるなどとして一見高等な技術であるセラピー法を教える講座などに対して、強い危機感を覚えていた。
それを理解するために必要な土台となる学問を受講生が身につけていない(どころか身につけている場合やそうでない場合まちまちであるため、なおさらに理解度や受け取り方、解釈の仕方が全く異なる)ために、下手に深い部分やちゃんとした理論的部分を教えることができず、非常に狭義な角度から語弊も多いやり方で、その上結局のところ見様見真似で形だけそれっぽくなるように教えねばならない、しかしセラピーの場合、実際そこからクライアントをとっていくと、受講生同士の練習とは異なり、深いものやセラピストに対して(あらゆる意味において)手加減のないものが出てくる。すると、見様見真似のセラピー手法ではクライアントを危険に陥れる、悪化させる、しかもセラピストがそれにすら気付くことができない。特に催眠療法で言えば、心にメスを入れて切り拓き、病巣を取り除こうとしたが、その前の拙いカウンセリングで行って目星をつけたものと違う場所や違うものが出てくる、もしくはここでこれを扱ってくれ、と、クライアントの潜在意識はちゃんとそこでセラピストの取り扱うべきものを過不足なく必ず出して来る。しかしそこで、セラピストが目的を見失ったり、その場で適切なセラピー手法をとるどころかわからなかったり、下手をすれば潜在意識が出してきた取り扱って欲しい問題(病巣)自体に気付きもせずに、セラピーもクロージングもままならないで縫合してしまう(解催眠をしてセラピーを行い終わったような気になってしまう)。
こんなことをすれば、クライアントは何かわからないけれども手術をされたのだろう、セラピーをされたのだろうと思いながら帰って、それでも切開した時に浮上した病巣はそのままで閉められているため、寧ろ浮上したのに放っておかれたため、その浮上したものが日常生活の至る所に症状として現れる。悪化をしたり、下手をすれば日常ではわかりにくいが暗示が後々にとんでもない作用を及ぼして出てくる。
今この時代、セラピストを輩出することは確かに急務ではあるが、これほど危険なことはない。
音楽では確かにそこまでの危険はないかもしれないが、実際アラブ音楽などに関しては、西洋音楽の合理化されたところからはとても複雑に見えて難解であるため、ただただ完全な我流(最初からの我流)で楽器の演奏だけしてしまっている人も多い。
これが悪いとは決して言わないが、さも正統派かのような顔をして広めてしまう人もおり、確かに「その場その瞬間」では弊害はないが、時代の流れとともに、長期的に見れば、文化を壊していくことにもなりかねない。
だが、まだ何も知らないところから見れば、どうしてもそうなってしまうのだ。
我々にしても、最初はとにかくダルブッカやウードを鳴らして行くこと、それしか方法はなかった。
しかも師にもつきようがなかったから、ただただ自分の中で必死にこねくり回す他なかった。
それが、まあ時期を見計らったかのように師が現れ、更に理論、更にリズムと、まさに宇宙という師が、「この順番でこれをやれ、しっかりと」と言われているとしか思えないような事態になっている。
そして、もうひとつ不思議なことは、我々は、今まで、例えどの楽器を見てもどの楽器と触れ合ってみても、いつも何かしら違和感を持っていた。「なんでこんな機構なのだろう、なんでこんなことをするのだろう、なんでこんな格好になるのだろう、不思議だ、変だ」と、宇宙人が地球人を見ておかしな生き物を見ていて不思議でたまらないというような感覚を、必ずどこかに感じる。
声楽も不自然だしピアノもフルートも不自然だ。
だが、これが、リュート、サズ、ウードだけは、「変だ、おかしい」という意味での不思議さを感じていなかったことに気付いた。
ただ、リュートは、やはりギターに似通った不自然さを感じる。サズに関しても、非常に薄いのだが、しかし指板にまるで電子画面の中の鍵盤を弾くかのように指をばたばた移動させることが不思議で違和感がある。
が、これこそ不思議なことに、ウードには自然体を感じ、不自然さを感じていないことに気付いた。
これは言葉では言い表しようがない。
更にひとつ付け加えると、この楽器、真ん丸の胴体を腹の前で抱えて、この小柄な器では、弦を覗き込みようがない。だが、恐らくそもそも弦を見て弾くものではないのだろう。
撥弦楽器を触るのは、ほとんど初めてと言っていい。最初はリーシャで弦を見ずにどうやって狙った弦を弾くのかとも思ったのだが、しばらく弾いていると、リーシャが、もしくはリーシャの種類によっても、手に馴染んでまるで自分で直接弾いているかのような感覚にもなってくる。
私はハープも弦を視認することはできないので全て勘だが、何分これは弦の数が多い。そして少しでも探れば、その触った瞬間に弦の振動を止めてしまうか逆に音が出てしまう。
ウードは琵琶の原型。琵琶と言えば、琵琶法師は盲目の僧だ。まあ、聖書などには盲目でハープを操っている人なども出てくるが(これはそもそもハープの形が現代のものとは随分違うだろう)、しかし何やら演奏しても良い、私に扱われて構わないというような、親近感ではないが、何やらあまり意味のないとっつきやすさもあった。他の楽器は、「この器」が演奏すべき流れにはなっているが、私が私を殺しておらねばならないというような、どこかで歯止めと違和感があった。
いや、別に琵琶法師なども関係なく、この楽器はあの仔と同じで、私を私として受け容れてくれた。そんな感覚があったのだった。
そして、今も、(まあ他の楽器もそれ自体はそうなのだが)ウードは一度手にとると、もう手放せなくなる。いつまでも対話している。
まるでうちの仔を抱いているような感覚なのかもしれない。
つらつらといつまでも弾き続ける、新しい師の感覚がわかるような気がする。
そして、もっと不思議なことには、ここ数日に関しては、就寝のためなどにウードを身から離して定位置に置く時に、寂しさを感じる。
更には実家で実家の方のウードを鳴らしていた後に、定位置に戻して実家の人たちと話をしたり別のことをしていると、何やら落ち着かない感覚があり、ウードを抱いていたい感覚がある。
そして、このウード、ハープやリュートと同じように、非常に癒しの音色を持っている。これを、セラピーに取り入れていこうとも志している。
鳴らしている身でも、安心して居心地よく、眠くなる。
そんな状態で、本当に心の芯から通じているような友であって…くれているのだろうか、いや、少なくとも深く通じ合うものが何かあり、日々、対話を始めたら延々と、唯一無二の間柄で在っていただいている。
一緒にいてくれている…そんな存在を、彼が、いや、無論魂としては彼も共にいてくれているのだが、どうにも何かにつけてラケットに見舞われようとする私に、動物と触れ合いたい、愛と感謝の交流で在りたい、そんなところにばかりはいる私に、物質的な意味でもと、あつらえてくれたのかもしれない。しかも……20年以上も…つまりは、彼とすら出会う前から。