白杖使用者の日常―横断歩道編
久々に、こちらの系統の記事を。
私はそもそもあまり出かけない。
少なくとも、現状としてふらりと出かけるということがほとんどない。
玄関から出るという時点で、私にとっては今は少なくともまだ、心と身体の準備を要する一大行事となっている。
実は未だに、買い物に行こうとしながら「それは本当に必要なものか、他の物が必要になったときと一緒で良いのではないか、行くにしてもどこにいくか、あそこに行くにしても…」などと考えながら、いや、もう少しこの作業も終わらせてから出よう、いや、まだこれも、などと言い訳をつけては3時間くらいうじうじした挙句、やはりやめようと出かけることをやめてしまうような状態であることが多い。
そんな中、先日、人と会うため、出かけた。
ちなみに最近、家の近くの道路を走るバスの利用法を研究中であるので、ちょうど良い機会と思い、バスを使った。
そのバスを降りる時、床を探りながらそろそろと後方へ移動していると、年配の女性が、「私も降りるから一緒に降りましょうか」と声を掛けて下さり、車体から出る時ご一緒して下さった。
そして、バスというのはなかなかインターネットなどで調べたバス停と場所に誤差があることがある。
少々思わぬ方向を向いて止まったため、目的地の方向を尋ねて教えていただいた。
そして、帰り、またバスで帰ったのだが、この時は、非常に使い慣れた、居住地の出てすぐの道路の横断歩道の向こう側で止まった。
つまり、慣れた横断歩道を渡ればすぐ帰ることができた(しかもこの横断歩道は音響信号で、4車線ある広い道路の横断ではあるが私にとっては安心感がある)のだが、この横断歩道を待っている時、「あの、すみません」と男性の声が。
すみません、と話しかけてくるのは何だろうと思ったら、なんと、
「ここ、大きい道路だから、一緒に渡りましょうか」と。
そういう声掛けをしていただく経験はあまりなく、染み入った。
慣れた道路とはいえ、やはり大きな車線を何本も横断するというのはそういうことだ。
そして、音響信号があるとはいえ、大きな横断歩道を「まっすぐ」渡るということは、実は一人では難しい。私は横断歩道の白線の凹凸をなるべく杖先や足裏で確認しながら(つまり白線があるところからは外れないようにしながら)歩くのだが、それも全身の神経は使っている。
独りで歩いている時はそれが当たり前のようになっているが、こういう声掛けをいただくと本当にありがたいことを実感した。
慣れたいつも渡っている道路だからといって、遠慮することではないのだと改めて感じ(慣れている場所なのだから断らねばならない、煩わせるのは迷惑だと思い込んでしまっていた時期もあった)、ありがたく、腕を貸していただいた。
すると、なんと、慣れた人であったのか、「あ、でも、」と、一緒に女性がいたらしく、異性でない方が良いと判断してくれたのだろう、その一緒の女性の方が腕を貸して下さった。
そして、そこまでの気を遣って下さりながら、横断歩道を渡り切ると、「はい、渡り切りました」と言って、しっかりと対側の誘導ブロック(点字ブロック)の真上に案内して下さり、それでいてすっと、お気をつけてね、と、すっきり爽やかにお別れした。
通常の道端などではよく、「大丈夫ですか、どこ行くんですか、方向一緒なら途中までご一緒しましょうか」などと声を掛けて下さる方がおられるのだが、横断歩道などを渡るとき、ひたすら耳を済ませ周りの気配を探ろうとしながら信号を待っている時、声を掛けていただいたことはあまりなかったので、感動し嬉しかった。
慣れた横断歩道でも、こうして印象に残るほど実はありがたいものなのだ。
声を掛ける側としては戸惑うものである。
私も経験があるからやはりわかる。横断歩道を渡るだけ、というのは、なかなかしていいものなのかどうかと勇気がいる。
横断歩道を渡ったあとにも、「どっちに行かれるのですか」だとか何となく聞かなければいけないかなとつい頭が働いてしまうのが、良くある日本人心理でもある。
ただ、白杖を使うようになってからわかった(というより、私の場合は独りで出掛けるようになってからわかった…)ことは、
横断歩道を渡る時や駅の階段、エスカレーター、電車やバスの昇降などは、「特に」一時的に緊迫度が一気に上がる瞬間である。
しかし、こちらもこちらで、「その時だけ」助けを求めるのは非常に難しい。「その時だけ」という求め方も難しいし、そもそも我々は、周りにどのように人が点在しているかわからないため、手助けを求めること自体が難しいのが現状。
そのため、そんな時にそこだけふっと助けて下さると、感動するほどありがたい。
道路工事や車道の端を歩いていていきなりトラックが駐車しているような時、歩行者で見つけてくれた人や交通整理の人が「あ、今そこトラックとまっています(工事しています)」と教えてくださって、そこの”突破”だけを手伝って下さることがある。
実は、こういう「軽い」さりげないその場だけの救助は、当事者たちにとっては非常にありがたい。
なぜなら、私たちにとっては、本当にそういう短いものこそが、「突破」と表現するほどの山場であるから。
晴眼者の側からすると、「そんなことで声掛けするのはお節介かな…」という感覚の方が恐らく大きいと思う。私たちはそうであった。
しかし、当事者になってわかったのは、そういう「小さな瞬間」ほど、助けが欲しい、そして、そういう瞬間がある可能性の恐れのために、出かけること自体を躊躇し、そのために3時間迷った挙句結局やめてしまうような状態になってしまうのだということ。
手押し車を持ってよろよろとゆっくり歩くお年寄りなどもそうだと思う。
横断歩道を渡ることは、時間制限もあるし、途中で何かあっては大変な事故に繋がりかねないため、怖い。
数メートルかもしれないが、実は強大な危険地帯、これを突破せねば生きて目的地にたどり着けない、生きて帰れない、ダンジョンなのだ。
私は下町に住んでいるからということもあるかもしれないが、手押し車でゆっくりとした弱い気配が横断歩道にいるような気配を感じることがある。
こういうとき、声をかけたいが、方向や距離に自信がないし、声をかけたところで私自身が安全に誘導できないので、なかなか難しい。
最近、これまた嬉しかったことがある。
横断歩道で、「今青ですよ、赤ですよ」と声を掛けて下さる方もおられ、これも本当にありがたい(音響信号かどうかは初めて行く場所ではわからないし、音響信号でなかった場合は渡るタイミングが本当にわからない、車の音がしない時に決死の覚悟で渡るため)のだが、ついこの前、子どもを連れたお母さんなのか、子どもに対するような声(もしかしたら独り言かもしれない…)で、「今赤だね」「あ、青になった、渡ろう」などと、呟くように言ってくれていた。わざわざ私に話しかけるのではなかったし横断歩道を渡り出したらもうどこを歩いておられるかわからないのでお礼も言えなかったのだが、恐らく私がいたからそうしてくれていたような雰囲気を直後感じた。
人はそれぞれに得手不得手がある。声を掛けることや声を出すこと自体が苦手な人もいる。
ただ、そんな中で、あるがまま、もし、ふと似たような場面におられるときがあったら、さりげなく手を差し伸べていただけたら、当事者達は恐らく、感動するほど嬉しいと思う。
感動するほど、社会でそんな経験がないのだ。
ただ、もし、そういう場面での数秒のお声がけ、手の支えは、移動が不得手な人の大きな生きる支え、大きな嬉しさの渦、いのちを救って下さるに通ずる、社会での大きなお力添えになると思う。
そして私も、その分、でき得るところにおいて、その活力を還元して、安全無事を助けていただいた命と人生を使って、お返しすることができる。
助けようとして下さる側も迷ってお互い気を遣ってしまうのはもったいない。遠慮のゆえにお互いの身を他の事に気を散らして安全を守れなかったら本末転倒であるので。
助けを求める側も、助けを申し出る側も、もちろんお互い誠意があっての話ではあるが、遠慮する場面ではないのだということを、小出しにしてみたかった。(ただ、視覚障碍はヒトがどこにいるのか捉えられないので声を発すること自体が難しい現状はある…)
どんな人にも得手不得手があり、どちらもあり、それは、必ず社会の歯車として、噛み合っているのだから。
ただ、あるがままの姿で、そこに在ることそれ自体で、いつの間にか支え合い、補い合うことができる輪を。
さりげなく、社会的マイノリティの理解・啓蒙の活動もしております
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