視覚障害者は視覚以外の感覚が優れている??

視覚障害者は、視覚が使えない分、他の感覚が発達する
視覚障害者は、耳がいい
視覚障害者は、指先や肌が敏感

などなどと、思っている人を良く見かけます。

実際、視覚障害者が、視覚優位のこの社会の中でひとりで道を歩いたり、日常の動作(あなたが主に視覚を使っている、そして視覚情報でやるものだと無意識的に刷り込まれて思い込んでいる動作)などをこなしたりするのを見て、
「すごい」
と思われるのかもしれません。

が、申し訳ありません。

視覚障害者は、特殊能力などは一切持ち合わせていませんし、
目が見える人よりも「感覚が秀でている」ようなことは、ありません。


もし、言えるとしたならば、確かに、視覚情報で生活のほとんどの情報を判断し視覚に頼り切っているかたがたよりも、
「視覚以外の感覚を<使う>工夫」
つまり、感覚の「使い方の工夫」は、している、と、言えるかもしれません。

ただ、もともと持っている聴覚や嗅覚や肌感覚などは、晴眼のかたがたと何ら変わりません。
ただ、「ある」感覚を、どう使うか。
活用しないで持ち腐れにするか、それとも既に感じているその感覚自体に気付いて、人生に利用するか、ただ単にそこの問題だけです。

「それでも、だんだん耳が良くなっていくんでしょう?」とか、
思うかたもいるかもしれません。

申し訳ありませんが、そんなことはありません!

基本的に、視覚障害者であろうが誰であろうが、ヒトの身体は年老いていきます!笑

もし、あるとしたらば、私は良く、「見る」も「聴く」も、目や耳ではなく、
「脳でみている」
「脳で聞いている」
と説明しますが、

実際、感覚器(目や耳や鼻や舌や肌)の能力は変わりません。
(寧ろ年老いていきます)

もし、あるとしたら、
確かに、「脳での情報処理の精密さ、回路、判断のしかた」などは、適応していくかもしれません。

しかし、それだって、実は、既にあなたも感じている身体中の感覚を、
「生きるため、行動するための必要な情報として使う」ことをしているかどうか、それだけなのです。

つまり、「自分の感覚を余すことなく使い切ろうとして生きているか」「(実は)感じている自分の身体の感覚をちゃんと受け取って、自分の人生の中で活用しているか」ということ。
これは、「感覚が他の人(晴眼者)よりある(鋭い)」ということとは、まったく違うことです。

はっきり言って、あなたがたの身体が感じている以上の情報は、恐らく私たちの身体だって受けていません。
寧ろ、あなたたちが受け取っている「視覚情報」については、失われている状態です。
それを補うような感覚は、発達していません。

しかし、既に「在る」ものを、
「使うかどうか」と、
では、
「どう使うか」の工夫を、

日々生きている中、更には福祉サービス利用における猛訓練にて、
訓練し育てているのです。

寧ろ、「自分の本当は感じているはずの感覚」を、ひとつも余さず無視せずに受け取って総動員せねば、(この晴眼者たちの作った晴眼者用の晴眼者ベースのやり方が敷かれきったこの現代社会において)生活することが難しい、というところが事実です。


そして、実はそれらの「工夫」だって、人それぞれ。

現代人は、便利な商品に溢れかえっている社会の中で、「工夫」をする能力をどんどん失っています。
寧ろ、それも、現代人特有の「障害」だとも感じます。

少しわかりやすくするために極端な例えをしますが、
卵をスライスする道具ありますよね。
あれは卵をスライスするために作られたものだから、卵しかスライスしない、とか。
私は100円ショップのドレッシング入れに醤油を入れていますが、実はこのドレッシング入れ、見つけた時には大変な発見、盲点でした。
ドレッシング入れなら、醤油を入れるとき、どばっと出すぎることもなく、かといってスプレーのようにしゃっしゃっと出て本当に鍋などにしっかり入れたいときにいつまでも必要な分量はいらない…などということもなく、液だれもなく、しかも容器を押したら出て、離したらとまる、という、視覚がない状態でも大変使いやすい。
こんな工夫ならまだ序の口なのですけれどもね。
実は、既に「在る」もので、まったく思わぬことを成し遂げることができる、そんなものがたくさんたくさんあります。
(ちなみに、視覚障害者用の便利グッズなどが随分普及してきているようにも見えるかもしれませんが、はっきり言って上記したようにやはり「~用」と限定されたほうが結局その中でも特定の人や特定のシチュエーションでしか使えないような制限ができ、本当にアナログの昔からあるものや100円ショップにあるようなもののほうが、工夫次第であらゆるところで役に立つものがたくさんあります。)

私たちは、身体感覚だけではありません。
こういうものも、「できるような特殊能力」を持っているわけでもなんでもなく、「どうやったらこの社会において、それができるか」を、ひたすらひたすらひたすら、しかも誰に聞いたって誰も私の状態ややりやすさなどわかりませんから、自分自身で、ひねくりまわしこねくりまわし、時には複合させ応用させ、工夫してきているだけなのです。

だからってこんどは、ではアイディアが豊富なのだろうとか工夫できるユーモアや発想力があるのだろうと言われる場合もありますが、悪いがそれも違います。
私は発想力やアイディアは寧ろずっと乏しいほうです。
その上、視覚障害者は「視覚」がない分、もし物の使い方などを工夫する場合、その「モノ」を、手で触ることでしか形状を理解判断できません。
全体像を見るということができませんから、寧ろこれをどう使う、などと思いつくには、「全体的にも部分的な手でも触れないほど細かい部分も見ることができる」視覚のある人よりも、物凄いハンディがあるといえるのです。
その上、「これがしたいけれど、家の中のあれとこれを使えば…」などという場合にも、視覚がある人は部屋や家や時には店に駆けつけて見渡すことができますが、視覚障害者が見つけることができるものは、手に当たるものだけです。
100円ショップなどそれこそ、視覚障害者が工夫して使えば大変役立つようなものがたくさんある宝庫のようですが、そこに気軽に行くことはおろか、行ったところで自分で探すこともできません。(かといって探してくれることができる晴眼者と一緒に行っても、晴眼者は基本的にパッケージに書かれている使い方、もしくは目が見えている状態での使い方しか思いつきません。)

ちなみに…人によっては、「視覚障害者は福祉サービスで、生活訓練なんてものもやるそうじゃないか。それで視覚障害者がやりやすい方法や工夫を学ぶんだろう。」などと思うかたもいるかもしれません。
これ、実は私も、視覚障害の施設に直接行って話を聞いて初めて知りましたが…
「視覚障碍者用」のやり方なんて、ひとつもありません。

みんな、状態もバックボーンも暮らしている環境もすべて違います。
そして、料理のやり方などだけではなく、例え「白杖の振り方」ひとつとっても、結局、「原理原則」はもちろんあれど、その原理原則を発揮するために、その人ができるやりかた、やりやすいやり方は、100人いれば100通り違うので、訓練士さんに「習うことができる」ものでは、ありません。
材料や思い付きを「自分で」あれやこれや持っていって、誰かに一緒に考えてもらうことは、確かにできます。
しかし、「人生の中で自分の生き方を発見する」のは、ただ、自分なのです。

生活するうえで、これがしたい、あれがしたい、これが必要。
しかも当たり前のようにできることを求められる。
では、どうしたらできるようになるか。
人に聞いても教えてもらえない。
晴眼者はやりかたが違うし視覚障害は視覚障害でみんな状態が違うし生活の仕方や工夫の仕方や道具や土台も全部違うから、なかなか良い方法にはたどり着けない。

しかも、基本的に晴眼者たちの作った晴眼者ベース(どころか視覚情報で判断することが8割以上)の社会の中で生きているわけですから、日常のまるで思わぬ瞬間に、「これ!できない!わからない!どうしよう!」が、しょっちゅう登場します。
それでも、その場で放っておくわけにいきませんから、自分で対処する必要があります。

何を使って、何をどうして、何を成し遂げるか。


ただ、すべて、
「必要性」
なのです。


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ここからは、セラピストとしてもひとつだけ、付け加えます。

「人生」を生きるための「生き方」という意味では、上述したことは、
実はひとみな同じです。
どんなヒトでも、誰でも、同じです。

確かに、生命維持のベースは、五感さえある程度、機能していれば、現代日本社会においては、確保はしやすいです。
目が見えて耳が聞こえて身体を動かすことができて会話もできれば、とりあえず生命維持という意味では、やりやすいようになっています。

しかし、とりあえず当たり障りなくある程度のことはできるのに、なぜだか何かおかしい、生きづらい、不便だなあというかたは、
もしかしたら、この「どんなものにでもすべてに取扱い説明があって聞けば誰かが教えてくれる」(と思い込んでしまっている)この世の中において、
いつの間にか誰かが教えてくれた誰かのやりかたやテンプレートをそのまま採用してしまって、こうするもの、こうやるもの、こう考えるもの、こう感じるもの、とまで貼り付けてしまっていて、
いつの間にか「人生を自分で創意工夫して自分の人生を作り上げていく」ことを忘れ去ってできなくなってしまっていたり、
いつの間にか「本当はあなたの人生の場面場面に必要な材料であるのに、そして本当は既にあるにはある身体の感覚なのに」無視して使わない状態となっているがゆえに生きづらさや不便さにあらわれていたり、
するのかもしれませんよ。

あなたの生き方や、あなたの生きる中でのあらゆる細かい物事や動作の方法、世界の見え方感じ方に至るまで、すべてのやりかたは、実はあなたの中から生み出され、出てくるものです。

便利な道具や便利な制度などは、あなたにも便利に見えて、実はあなたの人生における「必要性」を見失わせます。
そして、既に「在る」ものを、もはや感じさせなくさせます。

あなた本来の「生き方」が、まだ、出てきていないのでは、ありませんか?


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