相手に関わるために、自分自身を理解することから
このnoteでは、子育てや家事について調べたり話を聴いたりしていく中で、僕が理解したことを少しずつ書き留めています。
こうやって書き始めてみると、多くの方に読んでもらうということの難しさが身に沁みます。
いや、本当に。
なまじっか最初に反応があると、直後からだんだんと反応が減っていくという感覚になります。
これは「くじけやすくするためのシステム」という構造になっているように思いました。
オンボーディングという点ではうまくいってないパターンなんだと思います。
といったことを思い浮かべつつ、まだくじけずに書き続けたいと思います。
感謝や共感が大事なのはわかってる。けどね。。。
前回は「コミュニケーションとして感謝や共感が大事」といったことを書きました。
正直、読まれた方の中には
・そんなことはわかっている
・正論を掲げるだけでは意味がない
という言葉が浮かぶこともあるだろうと思っています。
(幸か不幸か、ほとんど読まれていないんですが苦笑)
わかっているけれど、難しい。
あるいは、そういう気持ちにならない。
そういうことはあると思います(し、自分自身にとって痛みを感じるくらいには実感あります)
しかも、近い関係の相手であるほど、感謝や共感は難しくなるものです。
見知らぬ第三者であれば、ちょっとした負担の肩代わり的支援をしてくれただけで、自然に「ありがとう」と言える。
それが家族になると、すごくハードルがあがります。
はじまりは「自分自身に意識を向ける」ことから
では、どうするか。まずは自分自身に意識を向けることだと思います。
自分の内面にあることを、そのままにとらえること。
ポイントは「(相反するように思える)ふたつのことが、いずれも存在している」というのを感じること。
・わかっちゃいるけど、感謝や共感を(素直に心から)伝えることは難しい
・そのうえで、感謝や共感を伝えるということに向き合い、扱ってみる
難しいという言葉は、実際の感覚にさらに近づけた表現に置き換えられると思います。
たとえば「気恥ずかしい、照れくさい」であったり「イライラする、ムカムカする」であったり、「許しがたい」という方もいるかもしれません。
ありのままに捉え、触れる
「向き合う」というのは、そうした気持ちとありのままに捉えるという感じです。
こうして湧いてくる気持ちは、実際にある。
そのこと自体は、自然なこととしてとらえられるのではないでしょうか。
「扱ってみる」というのは、
・そうしたいろいろな表現にあたる気持ちはありつつ
・それらと同時に(共に)感謝や共感がある
というところから、感謝や共感に触れてみるという感じです。
感謝や共感があるということを、自分自身の中で感じ取る。
抵抗が浮かぶのは自然なこと
感謝や共感に対する難しさI恥ずかしさ、イライラ、等)については、
・そうした気持ちを持つことはよくない
・そういう気持ちをもつ自分はよくない
という思考が湧いてくることもあります。
そうすると、ありのままではなく、自分に都合よく(エゴから)の捉え方にゆがんでいきます。
ないことにしたい。あるいは無くそうとする、という感じで。
そうしたことに流されたときも、「いま流されている」と気づき、あらためてありのままを感じとるということを繰り返していきます。
また、痛みが強く深くなっていたり、長年続いていると感じづらいこともあると思います。
気長に続けてみることで感じられることもありますし、届かないこともあると思います。
なかなか感じ取れないからといって諦めるのも惜しいですし、感じ取れないことが悪いわけでもありません。
自分自身に「感謝や共感の存在を感じたい」という気持ちや意思があるなかで続けていくのが合うように思いますし、
そうして続けていくなかで感じ取れるものだとも思います。
これを続けていくと、自分自身の状況について理解が深まっていきます。
そうすると、他者との関係に向き合う準備も整っていきます。
次回は、そうしたあたりからの話に触れてみたいと思います。
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