「期待とのズレ」への囚われを横に置く

このnoteでは、子育てや家事について調べたり話を聴いたりしていく中で、僕が理解したことを少しずつ書き留めています。

前回は自分自身の状況について理解を深めていくことについて書きました。

他者と向き合う難しさは「期待とのズレ」

他者と向き合うというのは「相手の抱いている(内面にある)ものをありのままに扱う」こと。
自分自身に対してありのままに扱ったことと重なります。

これまた実践するのはとても難しい(と僕は感じています)。
難しさを感じるときに何が起きているのか。自分自身が体験していくなかであるあるなケースがあります。
それは
 「思ってるのと違う」という言葉が浮かんでくる
こと。
相手が担った役割行動に対して、自分が設定している(抱いている)ものと会ってない」という関わりになっている」という感じでしょうか。

「期待しなければいい」という言葉にとらわれると苦しい

期待とのズレに苦しさを感じているという話になったとき、よく耳にする言葉があります。
 「期待しなければいい(自分は期待しないことにしてるから苦しさはない)」

この言葉を聞いたとき、
 ・たしかにそうなんだろうと思う気持ちも湧きつつ、
 ・そう言ってる本人がけっこうイライラしがちなタイプ(本当に期待による苦しさ感じてないの?と疑問がわく)
という印象が湧いてくることもありました。
なので、そうした言葉を聞いたとき、僕自身にとってはモヤモヤが増える味わいになることが多かったように思います。

加えて、「期待しないというのは、何をすることなのか?」と問いなおしたときに答えが返ってくるかどうかというのも大きかったように思います。

期待をしないという選択は難しい。
なので、「基本的に”期待はする(してしまう)もの」と捉えるほうが自然なんではないかと思っています。

まずは「期待とズレがある」ということを理解し、そこで止まる

期待に対してズレがあるときにモヤモヤするのはどうしてか。
僕が思っているのは「期待とズレていることはよくないこと」という前提から生まれるということ。
よくないから、モヤモヤする。

では、どうするか。それは
 「期待とズレがあることと、良し悪しを分ける」

基本的に、期待は勝手に湧いてしまう。
そして、実際にことが起きたとき、期待とズレる(ピッタリ充たされることは稀有)。
ここまでは「単なる事実」であると捉える。
(ただ単に「思っていたこと」と「起きたこと」にズレがあっただけ)

そして、ここで止める。
ズレていることに対して、そこに良し悪しを判断しない。是正を求めることもしない。

そうすると
 ・期待と結果がズレているという事実の認知
で終わることになります。
ここには、モヤモヤが混ざらない。

止めるというのは「ホールドする」という言葉の方がイメージしやすいかもしれません。


こんな感じでとらえていくことで、モヤモヤの影響を受けづらくなります。

もちろん、これで万事OKというわけにはいきません。

どうしてか。
それは「ズレている事実に対して、感情が湧いている」からです。
重要なのは
 「ズレていることに良し悪しを混ぜずに認識したときに感じ取れる感情」
であること。

このあたり、次回以降にもう少し触れていこうと思います

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