家事分担におけるコミュニケーションは感謝と共感
このnoteでは、子育てや家事について調べたり話を聴いたりしていく中で、僕が理解したことを少しずつ書き留めています。
コミュニケーションは「負担の理解を感じるかどうか」
前回の終わりに以下のように書きました。
”実際は家庭ごとに千差万別なのですが、あえて共通要素をあげると
「コミュニケーションをとっている」
となります。
これだとすごく当たり前すぎるので、次回はもう少し特徴的なことをあげてみたいとおもいます。
(その分、共通性は落ちるかもしれませんが、普遍的・汎用的な度合いは残っていると思います)”
この「コミュニケーションをとっている」について、もう少し掘り下げて表現すると
①相手から「自分が抱えている負担に対して理解がある」と感じられる
②理解があると感じられるような振る舞いがある
となります。
負担の理解は「感謝」から
負担に対して理解があるとはどういう感じか。
これまでに話を伺ってきて浮かんでいるのは、本質的には「感謝」なのだろうということでした。
その度合い(大きさ、深さ)はケースバイケースだと思いますが、感謝が含まれていない(と感じられる)場合は理解があると感じられないのだと思います(し、実際に理解をもっていないという捉え方ができるように思います)。
「ありがとう」を伝えているかどうかというのは、よくある話として聴くように思います。
ただ、それだけではないというのも実感なのではないでしょうか。
「ありがとうって言うけどさ・・・」という気持ちが湧くこともあるでしょうし、
「ありがとう」という言葉以外で賄われていることもあると思います。
(なんとなく申し訳なさそうな様子がみえる、といったところから感じられることもあったり)
感謝の伝わりを支える「共感」
こうした「感謝を補完する」ものは、共感なのではないかと思っています。
共感という言葉もいろいろと解釈できると思うので、もう少し長めに表現すると
・相手が抱いている心情や願いを理解している。
・相手の基準や要求を満たすことはできないかもしれない(その方が多い)
という感じ。
この共存・両立の機会を交わせているかどうか。
交わせていると、現実として生じる家事分担の不均衡に対して、受容的な扱い方として現れる。
そこが、家事分担への向き合い方の大事な起点なのではないか。
そんな風にとらえています。
共感に難しさを感じることもよくある
とはいえ、そうしたあり方に対して抵抗が湧くことも多いと思います。
「なんでこちらが歩み寄らなければならないんだ」
といった感じで。
このあたりも世の中でさまざまな工夫や手法が存在していると思います。一方で、テクニックで対処するというのも、少し違和感が残る領域であるようにも思っています。
次回、もう少し掘り下げてみたいと思います。
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