バージョンアップは「家事に対する負担の捉え方」
家事育児の負担構造は残り続けている
このnoteでは、子育てや家事について調べたり話を聴いたりしていく中で、僕が理解したことを少しずつ書き留めています。
資料をいろいろ読み始めたとき、最初に驚いたのが
「15年以上も問題構造(課題認識)のまま継続している」
ということでした。
https://www.mhlw.go.jp/bunya/koyoukintou/ikuji_kaigo_shiryou/dl/ikuji_kaigo_01_002.pdf
”特に第2子以降 : 夫婦間の家事・育児の分担度合い、育児負担の度合い”
分担における変化はあるが、負担感の構造が解消されていない
統計的には、数値上の変化は起きていると思います。
自分の身近にも、家事育児について役割を担い、時間を投じている人は相応にいます(し、以前よりも増えたと思います)。
また、サービスや技術の発展から、家事育児の効率化が進んでいるところもあります。
(家事代行サービスの選択肢が増えたり、ロボット掃除機や乾燥機付き洗濯機や家庭用食洗器の普及)
時短のためのハックやノウハウについて創意工夫をされている方や、そうした情報を参考に活用されている方もちらほら。
そのうえでなお、解消されるものではないということなのだと思います。
(背景のひとつは、家事育児に求められる負担が高まっていること。企業におけるコンプラ的な感じととらえています)
「負担を感じることは自然」として扱えるかどうか
実際、いろいろな方にお話を伺うなかでも
・(共働きの家庭においては)家事育児の分担については、大半が負担を感じている。
という声を聴いてきました。
そうしたことに触れていくなかで、こう思うようになりました。
家事育児に関して、負担を感じるのは自然なことなのです。
でも、世間における扱いとしては、「愚痴」的な位置づけになりやすい。
いや、当人自身が、そういう認知になりがちなように思います。
このあたりは、意外と影響が大きいのではないかと考えるようになりました。
道は「負担を受容できる環境(関係)につなげる」こと
もう少し掘り下げて理解したのは
・そうした状況に対する認知として「不満(痛み)」と「受容(許容)」に分かれる(ただし、二元論ではなく、グラデーション)
・前者と後者を分けるのは「負担度合いの公平(50:50)感」ではない(偏りがありつつ需要(許容)されている家庭もある)
ということでした。
この違いがどこから生じているのか。
実際は家庭ごとに千差万別なのですが、あえて共通要素をあげると
「コミュニケーションをとっている」
となります。
これだとすごく当たり前すぎるので、次回はもう少し特徴的なことをあげてみたいとおもいます。
(その分、共通性は落ちるかもしれませんが、普遍的・汎用的な度合いは残っていると思います)