馬と森にふれる。全体性とランドスケープ、遊び。
遠野クイーンズメドウ「うまのまにまに」
2024年2月3~5日の2泊3日で、岩手県遠野市にあるクイーンズメドウで『うまのまにまに』に参加してきた。
主催の皆さんと久しぶりにゆっくりお話ししたかったのと、なんだか忙しなく過ぎていく日々の中で、からだの感覚が衰えていないかと漠然と感じていたことも相まって、無性に遠野の森や空気、馬たちに会いたくなったのだった。
馬との時間は豊かだった。
馬たちとの時間の中で、彼ら彼女らとの距離が少しずつ縮まっていく感覚と共に、自分自身との距離も少しずつ近づいていった。馬を通して、自分に気づく。「そうそう、これこれ」という、本来の”身の丈”の在り様を再確認し、何かを取り戻していった3日間。
あの日の記憶の残像が日が経つにつれて失われていくもどかしさと、ほのかにからだに残る心地よい感覚が同居している。
目の前で起こった様々な体験や皆さんとの対話を通して、たくさんのことに気づき、また思い出すことができた。
「すでに始まっている(いた)。」
馬はたくさんのことを、教えてくれる。何を感じ、受け取るかはその時の自分次第ではあるけれど、その時に受け取りたいと無意識レベルで感じているものを、毎回与えてくれるような気がする。
「出会った瞬間に、すでに始まっている」
捕食動物として生きてきた馬たちの感度は、人間の何倍も高いようだ。実際に触れあうと肌身でそれを感じる。人間からすると、まだまだ離れていると感じる距離においても、彼ら彼女らの領域に入った瞬間、こちらが出会ったと認識するずいぶん前から馬たちは立ち止まり、こちらに意識を向けている。
「出会い方」によって、馬の構え方が変わる。リラックスした状態で歩み寄っていったとき、多くの集団で歩み寄っていったとき、何か恣意性を持って近づく(例えば手綱を持って近づく)時など、既に何かを察知し、人間の目の前に現れたときには、出会い方に連動した姿勢やポジションを取っている。
既に出会っていたという感覚。それは、普段の意識レベルでは認知していない意識のフィールドの中で、お互いに既に影響しあっている(いた)ということ。言葉を介さずとも、あるがままの感度を通して既に出会っていたというリアリティは、色んな気づきを与えてくれる。
色んなものに”出会ってしまっていた”ということは、目には見えない全体の網の目の中に、既に個としての自分は組み込まれ、お互いに影響し合っていた事実を感じさせる。個即全、全即個の全体性。
自分の会社の名前をふと思い出した。「life in LIFE」。「大きなLIFEの中でのつながりや支えに、生かされている小さなlife」、そこを起点にした在り方から生きていくことが、豊かな時間や人生につながっていくのではないか。そんな想いで名付けたのだった。
自覚的でなくても、自分の存在そのものがたくさんの影響を与えている(また与えられている)いう現実から日々を振り返る。
馬たちとのその瞬間の起こる関わりは、現代の”日常”を生きる中で感じ取りづらくなっている全体と繋がっているという感覚や現実を、ぼくたちにクリアに感じさせてくれる。自分たちを取り巻く社会や世界が、分業・分断・個人化・サービス化していく中で、人や自然、いのちとの繋がりが見えづらくなっている今、馬たちと「出会う」ことで受け取るメッセージがたくさんあった。
「風景をつくっているんです。」
遠野の森、クイーンズメドウの風景は美しい。約12ヘクタールにも及ぶ森の中に絶妙なバランスで佇むゲストハウスや田畑、馬と共にある暮らしは、調和的で美しい風景をつくり出す。
「美しい風景を残していく。」
クイーンズメドウができたのはもう20年以上も前になる。その過程で様々な人たちによって紡がれてきたこの場所に触れると、そこに関わってきた人の営みや息づかいを感じ取ることができる。
美しい風景や人が紡いできた歴史、想いは、いつまでもこの風景を残しておきたいという気持ちを自然と芽生えさせてくれる。ぼくも、訪れる度にいつもそう思う。
一方で、無邪気にそうも言っていられない。訪れた多くの人が「いつまでもこの場所を残していきたい。」と思うであろうこの場所を持続させるには、その裏で、広大な土地や馬たちとの暮らしを持続するための「経済」の話もついて回る。そんな話題も少し出た。
ぼくにとって経済の話は、果てしない成長志向や実体を大きく超えた手触り感のない虚像の世界、短期主義的な目線で評価・判断される今の経済システムの原理、それが人の意識や生き方に及ぼす影響という、概念的なものに対する興味・関心で繋がっている。
そういう意味での経済の話は興味があるものの、生生しい経済やお金という観点に対してはあまり深く考えてきたことがなかった。言うなれば、自分自身に対する経済性くらいのことしか考えていなかったように思う。
最近、自分も事業づくり、中学生や高校生などの将来世代に向けたサービス開発にチャレンジしている。その事業をどう回していくのか、経済と社会性や公益性をどうバランスしていけるのかを考えるようになったタイミングでもあり、身近でリアルな経済の話はとても心に残っている。
いずれにしても、残していきたいという想いは残る。いろんなものを飛び越えて、たくさんの想いが風景を支えているという事実は、僕の胸の中に希望を感じさせた。
「そうそう、これこれ。」
馬とのセッションは、たくさんの気づきを与えてくれる。
馬との非言語コミュニケーション。言葉を介さずにお互いに意思疎通し、徐々に繋がっていくその過程は、どこか不思議な感覚と共に、繋がった瞬間の何とも言えない嬉しさを感じさせてくれる。
セッションの際、馬との関係を誘ってくれたとくさんが話していた八代亜紀さんの「間とビート」の話が面白く、馬との関係を捉える上で、本質をついているように思えた。
馬との間。馬と共にビートする。
お互いの間合いがある。言葉はなくても、人と馬の間に確実に存在している”関係”を繋いでいる間。一方通行のコミュニケーションでは決して繋がることができず、お互いの間の中で、息が合う瞬間を待つ。
すべては、その静寂の中にあるダイナミックな間の中から生まれている。その感覚を身体を通して掴んでいく。
その間合いを感覚で掴みながら、意識が繋がったタイミングで、お互いの決め事やサインをつくりあげ、ようやく一緒に歩けるようになる。今その瞬間にある点と点をつなぎ合わせて、お互いの一瞬先の小さな未来を一つずつつくりあげていく。
慣れてくると、もっと遊びたくなる。このもっともっとという衝動は、人間の性なのか、はたまた個人的な特性なのか。なんにせよ、一緒に走ってみたくなったので、その合図を探り始める。しかし、これがなかなかハマらない。
自分が勝手に先走っているだけで、馬はきょとんとしたまま、ペースを変えずただ歩いている。「もう少しはっきりと腿をあげてみて」とアドバイスを受け、リズミカルに腿をあげてサインを送ると、瞬間、さっとたてがみを風に揺らしながら小走りを始めた。
明確なメッセージを送りながら、ビートを刻み、リズムを刻む。そのリズムや運動の強度に合わせて馬たちは、少し跳ねるように走りだした。
「そうそう、馬とダンスするみたいに!」
自分のからだ全身で表現したトントントンという腿上げのリズムと、運動の強度が見事に馬に伝わり、鏡のように世界が動き出す。
いつも間にか、心も踊り出し、笑顔になっていた。むちゃくちゃ楽しかった。久しぶりにからだ全身で喜びを感じた瞬間だった。その時に内側から出てきたエネルギーは、とても純粋で、からだも心もそれを感じていた。
自分自身が本来もっている自己のエネルギー。自分のそれは、”遊び”の中から生まれる純粋なヴァイタリティだ。自分の在り方の原型を、馬たちは関係の中で伝えてくれた。
「最後に。」
滞在中に何度か出た「情緒」の話。
馬や自然、人の調和した美しい風景が、身の回りで起こったすべてと心やからだを行き通わせる時間を包み込む。きれいなことも、たいへんなことも、全てをまるっと包み込む風景に、しばし心を通わせることができた時間だった。
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