長野県木曽町 開田高原を巡る旅 ー出会いなおしの民俗学ー
「木曽路はすべて山の中である。」
島崎藤村の『夜明け前』の冒頭文。木曽は、その言葉の通り、四方を山で囲まれた谷あいの町だ。
江戸時代に中山道の主要な宿場町として栄えた福島宿(木曽福島)は、当時の街並みや風情を今に残し、少し視線を奥にむけると、木曽の精神的な拠り所である御嶽山がどんとそびえるところに位置している。
木曽町は日本全国から往来する人たちを受け入れるやさしさ(その文化)と、自然の圧倒的な存在感を感じながら厳しい環境の中で営まれてきた暮らしの香りを、今も感じることができる。
今回、友人からジャーヌ・コビーさんというフランス人学者の軌跡を辿りたいと話をもらい、コビーさんに所縁のある人や場所を巡る旅をした。コビーさんは、後年フランス・パリに木曽の開田高原の古民家を移築してしまうほど、木曽・開田高原に残っていた”忘れ去られかけていた”日本の暮らしの様式、文化に惚れ込んだ人物である。
ぼくは10年ほど前から木曽町に仕事やプライベートで何回も訪れており、土地のことも人も知っている気になっていたが、今回の旅を通してまだ見ぬ木曽の魅力を実感した。
いつの間にか固定化されていた行動範囲を一歩飛びだせば、そこは新しい出会いと発見に満ちていて、改めて土地と出会いなおすことができたように感じた。
ジャーヌ・コビーさんの足跡
今回の旅では、町に残っていたコビーさんに関する資料と、当時の彼女を知る方へのインタビューを通して、その足跡を辿っていった。
コビーさんは、パリ大学を卒業した民族学博士で、当時研究のため日本に留学していた。色んな地域に出向いて日本文化を深く学びたいと、人づたいで幾つかの地域を紹介してもらった中に開田村(当時)があった。
「麻を織っているいるお婆さんがまだいますよ。」という言葉に惹かれ、開田村を訪れた。そのお婆さんは、畑中たみさんという方だった。コビーさんは、たみさんに会うために最寄りのバス停から3キロ離れたたみさん宅を歩いて訪れた。「ごめんください。」と玄関から家の中に入った時、囲炉裏の周りにお婆さんと子どもが座っていたという。
その姿を見た彼女はがつんと衝撃を受け、黒澤映画の『蜘蛛巣城』のシーンの中に出てくる白髪のお婆さんが歌いながら糸車を回している光景を思い出し、80年代にも現実の日本社会にこの原風景が残っているのだと思ったと語っている。(平成29年度 南木曽町教育委員会公民館講座 「木曽町の古民家をフランスのパリに移築したジャーヌ・コビー」参照」)
たみさんの家や暮らしは、機織りや囲炉裏、足膳など昔の技術をそのまま保ち、そして暮らしの歴史や美意識(精神)を感じる雰囲気で魅力的で、コビーさんはたみさん自身や開田村の人たちの人柄にも惹かれ、そこから約1年間開田村に滞在し研究を続けた。
そんなコビーさんを知る人物に会うことができた。当時のことを知る現在94歳の田口今朝雄さんは大工として、パリに古民家を移築するプロジェクトにも参画しており、コビーさんを何回かご自身の家に泊めたことがあるくらい古くから親交のあった方だ。
今朝雄さんは、コビーさんが当時開田村に来ていた時のことや、古民家をパリに移築したときの話(珍道中?)などを語ってくれた。
今朝雄さんがコビーさんのことを語る端々から、コビーさんの存在はもちろん、当時の開田村の状況や暮らしの様子を肌で感じた。資料を読むだけでは感じ取れないことを、生身の言葉を通してその当時に触れることを通して、コビーさんが生きていたということやその当時の村の風景、そこに生きた人たちの息づかいを手触り感を持って捉えることができたように感じた。
★今朝雄さんのインタビュー動画はこちら★
※前半50分がコビーさん&パリの話、後半20分が開田村の昔の暮らしの話
人の想いがつなぐバトン
コビーさんが開田にいた頃の日本はバブル経済真っ只中で、戦後の生活様式の変化や都市化によって、昔ながらの暮らしや手仕事などの古きものが消えていった時代だった。
そんな時代の中、彼女はまだ日本に残っていた暮らしの風景に美を見出だした。たみさんが亡くなった後も、開田を訪問し、自分の目で見て感じた風景や歴史を、後世そして世界に伝えたいという情熱をもって「日本の文化が生み出した家や環境を丸ごと持っていく」古民家移築を進めたのであった。
言葉だけ聞くと素晴らしい事業だと思うが、今朝雄さんから移築にいたるまでの出来事を聞くととても大変だったようだ。そもそも開田村にある古民家をパリにどう運びこむのか?誰がやるのか(誰ができるのか)?そのお金をどう工面するのか?など。
多くの障壁を抱えながら、少しずつプロジェクトは進み、そのプロジェクトの一員として今朝雄さんはメンバーとしてパリに行ったらしい。
コビーさんは、世界中が画一的な経済的価値を追い求めていく時代の中で、開田村に残っていた暮らしの在り方やその残り香を、何としてでもパリに、多くの人に感じてほしかったのだと思う。
コビーさんのその情熱は、日本人が忘れかけている日本的な暮らしや生き方に対する美意識、価値観を再評価し、「あなたたちにとって、大切なものは何ですか?」と問いかけてくれた気がした。
今回の旅の起点となった友人は、パリでの古民家移築プロジェクトに通訳・翻訳としてコビーさんと仕事をしていた人で、彼女の想いから今回の旅は実現した。彼女はアートに造詣が深く、現在アートとビジネスをつなぐ仕事をご自身で経営しているのだが、彼女の今の仕事につながるルーツはコビーさんとの出会いによるものだったようだ。
想いある人の言葉や行動は、周りを動かす(自ずと周りが動きたくなる)力となる。
たみさんの暮らしに対する姿勢がコビーさんを動かし、コビーさんの情熱が彼女を動かし、友人の想いがぼくや地元の方を動かす。人を巡る旅を通して、たくさんの想いに出会い、触れていく時間はとても豊かだった。
彼女は昨年、コビーさんが眠るお墓にお参りに行っていたようで、その時の写真を見せてくれた。今朝雄さんもその写真を眺めながら、「そうかそうか」を感慨深そうに頷いていた。
その時の今朝雄さんの柔和な表情が、とても素敵だった。
出会うということー「手放して、迎え入れる」
ぼくは仕事柄、地方に行くことが多い。地方に行くたびに、そこで暮らしているたくさんの方に出会い、色んな話を聞く。
ぼくは民俗学が好きで、その土地の文化や暮らし、それをつくり育んできた人の話を聞くことが好きだ。この世に生まれてきた人それぞれの生きてきた軌跡、人生のストーリー、その背景にある文化や風景、暮らしの存在を肌で感じるたびに、ささやかな感動を覚える。
「コビーさんが残したかった暮らし、風景はどんなものだったのだろう?」
そんなことを考えながら今朝雄さんの話を聞いていると、内容はもちろん、当時の開田村の風景やコビーさんが地元の人とどんな雰囲気でコミュニケーションしていたのかをイメージできた瞬間がたくさんあった。
当時を回想しながら飾らずに語られる言葉を聞くと、ありありとその時の情景をイメージすることができる。100年ほど前からあった今朝雄さんの家や開田高原の豊かな自然をバックに話をする状況の中で、言葉が身体化し、当時今朝雄さんが見ていた風景を追体験できたような気がした。
言葉を記号的に理解するだけでなく、風景や情感を伴って理解をしていくことで、背景にある当時の開田村の空気感を感じることができ、そして、それは、ぼくがこれまで開田を訪れる中で感じていた現在の空気と近しいものだった。
時代が変わり、多くのことが変化してきている事実はあるが、未だに当時の暮らし方や文化を残したままの生活がある。新しい出会いを通して、これまで知ったつもりでいた土地と出会いなおすことができた。
最後に
コビーさんを通して始まった今回の旅は、たくさんの想いに触れ、これまで知ったつもりでいた土地と出会いなおす時間を過ごすことができた。まだまだ何も知らない自分に気づいて、恥ずかしくなると同時に嬉しさを感じた。
普段の行動や思考パターンを手放して、目の前に起こることを迎え入れることができれば、いつでも、何に対しても出会いなおすことができる。世界はいつでも再構築できる。
旅や人との出会いは、凝り固まった自分をやわらかにほぐしてくれる。そして、ほぐれる度、自分の世界がちょっぴり広がっていく。