英語嫌いから始めて、ELFに出会い、英語研究者になった自己紹介④
北京のアメリカ系企業で働く
前回は、東京の商社をやめて、中国に留学したものの、海外で働いてみたいと考えて北京のアメリカのホテルコンプレックスに入ったことを書きました。その会社での出来事です。
この北京のアメリカ企業に入ると、従業員の約80%は中国人で、10%ぐらいが中国語と英語に達者な香港のホテル経験者でした。まだ北京でも欧米式のホテルが珍しかった時代、香港のホテルビジネスのプロたちが、スーパーバイザーとして中国の人たちに海外ホテルのノウハウを教えていたのです。
そして、残りの約10%がインターナショナルなホテル経営の専門家でした。このホテルは、シンガポールの投資家が中国の国営企業と合弁で建設し、ホテル経営はアメリカのホテルチェーンが引き受けていました。
このアメリカのホテルチェーンは、世界中から集めたホテル経営の専門家集団を送り込んでいました。トップの総支配人はドイツ人、料理長はベルギー人、PRはアメリカ人、フロントはシンガポール人、ハウスキーピングは香港人で、世界の有名な国際ホテルチェーンを渡り歩いて経験を積んだ人たちが各部門を束ねていました。
私は、ホテルの経験なしで、このインターナショナル経営陣とホテル専門家の末席に加わったわけです。日本人は私一人だけ、セールス部の日本人担当でした。
英語で仕事を始める
仕事を始めると、予想と違い、ホテル内の私の仕事は、ほぼすべて英語でした。朝はセール部内のSales Meetingでその日の予定を確認し、昼間は北京の日本人のオフィスを回ってセールスをし(ここは日本語です)、オフィスに戻って英語でその日のCall Reportつまり、どの会社で誰とどんな話をしたか英語で記録します。夕方には、香港人のボスと英語で日本ビジネスについて話しあいました。
セールス部は香港人のSales Directorがトップで、その下に、中国人の秘書、シンガポール人の欧米系企業担当が2人、中国人の中国企業担当が2人、そして私の7人でした。当時の北京の外国人には日本人がとても多かったのに、私が入社する前は日本人とどう関係を作ったらいいかわからずに困っていたそうです。そこに、私の下手な英語での飛び込みの売り込みがあって、採用になったのでした。
この会社では、週に一度、トップの経営陣を囲んで全部署のマネージャーが参加する経営ミーティングがありました。毎週の経営レベルの課題や対応策を決めるのですが、これもすべて英語で行われていました。本来は上司の香港人のSales Directorが参加する会議ですが、彼が頻繁に出張するので、私がちょくちょく経営会議に代理で出席して、セールス部の報告をするようになりました。
今思い返すと、ビジネス・業界経験はほとんどなく、英語もかなり下手な私が、小さい組織とは言え、本格的な経営会議に参加できたのは、仕事の視野を広げる意味でとても幸運でした。日本で働いていた総合商社のような大企業ではあり得ないことです。
キャリアの早い時点で幅広い経験を積むには規模の小さい、伸び盛りの会社がお勧めとはよく言いますが、私は自覚せずにそんな会社にいたのです。
私がそんな機会に恵まれたのは、国際的な給与の違いのためでした。
Expatの給料の違い
当時は、中国で働く外国人、つまりExpatの給料には、出身国によるはっきりとした区別がありました。欧米人→日本人→シンガポール人・香港人の順です。
Expatと中国人スタッフの給与差はとても大きく、香港のビジネス経験者が中国で働くと給料が跳ね上がったそうです。対外開放が始まったばかりの中国には多くの香港人が「出稼ぎ」に来ていました。
一方、その頃の中国人の給料はとても低く、香港のExpatの1/10ぐらいだったかもしれません。それでも、中国の国営企業に比べれば欧米の合弁企業は給料が高く、優秀な中国の若者がたくさん働いていました。
私は日本の商社時代より遥かに低い給与で契約書にサインしたのですが、それでも入ってみると、私の給料はSales Directorの次でした。それは、当時、日本の給料水準がアジアでダントツに高かったからです。シンガポール人の同僚は、ホテル業界の経験も英語力もはるかに上でしたが、私の給与の方が高かったのです。
そして、この給料に見合うように、私の仕事上のタイトルは、セールス部の中で、ボスに次ぐポジションでした。こうしてボスの代理での経営鍵出席のおはちがまわってきたのです。
あのころ珍しい中国語留学をしたから出会ったチャンスでした。さらに、私が、中国語に加え、英語も一応は使っていたのも助けになりました。当時も中国に留学する日本人は多く、北京で働きたい人も多かったと思います。その中で、中国語に加えて英語を使える(と半分はったりで言いきってしまう)人は圧倒的に少なかったのです。
英語で仕事をする
こうして、今まで英語で仕事をしたことがほとんどなかった私が、突然、英語の仕事の中にどっぷり浸ることになりました。
今振り返ってみると、ネイティブスピーカーがほとんどいなかったこの会社で飛び交っていた英語は、かなりカジュアルでブロークンだったと思います。ここで、私は英語を世界の人と使う、「共通語としての英語」に出会いました。一度は棚上げした英語でしたが、この仕事を続けるには、とにかく英語力を上げることが急務でした。
英語の仕事にはライティングが必要だった
英語力は全般的に不十分だったのですが、特に苦労したのは、またしても書くことでした。まず、毎日の仕事を記録するSales Reportを書くのに苦労しました。毎日書くのですが、私が英語で書ける表現や文章は限られていて、毎日、同じ下手な文ばかり書いていました。
また、英語で箇条書きをした経験がなかったので、英語で要点をまとめて書く方法もわかっていませんでした。
今なら、インターネットで検索すればお手本はいくらでもありますが、当時の、それも中国にはビジネス英語の本などありませんでした。
一方、同じオフィスのシンガポール人の同僚、ベティとハロルドは英語も中国語も流暢に使いこなし、彼らが書くレポートは私の英語とは比べられないほど、洗練されていました。日本とシンガポールの教育における英語経験値の違いをあらためて感じました。
ほぼ同じ年のこの二人とは、公私ともに仲良くなり、英語の書き方も、中国での生活の知恵も、ずいぶん教えてもらいました。
英語でのびのびする
もう一つの新鮮な驚きは、社内で誰とでも英語で話すようになると、英語で話すことがとても気楽に感じたことでした。中国語の留学生だった時には、中国人とは常に中国語で話し、圧倒的に中国語が不自由な私は、どこか萎縮する気持ちがありました。
ところが、英語で中国人と話すと、お互いに英語は外国語、どちらも不自由なので、ずっと対等に話しができたのです。
しかも、その会社は多国籍な企業とはいえ、英語のネイティブスピーカーがほとんどいなかったので、社内では比較的ストレートな表現の英語が使われていました。総支配人(ホテルでは社長にあたります)に対しても、私はかなり率直な英語での会話ができると思っていました。
ただし、英語はストレートで敬語はない、というのは当時の私の間違った認識で、今になると英語にも敬語があることがわかります。当時の私は、かなりぞんざいな英語を使っているように聞こえたかもしれません。
英語では苦労していましたが、仕事はのびのびとできて、楽しかったです。そこでは仕事に男女の差はなく、私の仕事の領域ははっきりしていたので、自分で考え、工夫することができました。総支配人も日本の会社のことはよく知らないので、私の意見を丁寧に聞いてくれました。
当時、日本企業が中国で勢いがあったこともあり、日本ビジネスは順調に増え、私は一年で”Manager”というタイトルをもらえました。
毎日英語を使って仕事をしていたら、英語で聴き取れることが増え、それなりに、自分の意見も英語で言えるようになりました。
英語でビジネスを学びたいと考える
ただ、英語が聴き取れるようになってくると、今度は自分がビジネスについて全然わかっていないことがわかってきました。経営会議の流れはおおよそわかるようになり、自分の部署の話はわかるのですが、財務関係の報告や、経営戦略についての議論などはぼんやりとしかわかりませんでした。
また、同僚のインターナショナルメンバーと話していて、彼らの多くが何等かのレベルで、ビジネスやホテル経営を専門的に学んでいることもわかりました。
この会社の2年目に入ると、私はアメリカの大学院でビジネスを学んでみたいと考えるようになっていました。日本にいたら、決して思いつかなかったでしょうが、あの環境では、それほど突拍子もない進路とも思いませんでした。
こうして、東京で英語はもう棚上げだと思ってから3年後、英語で仕事をするのが面白くなったので、再度方向転換、英語をもう一度やり直そうと思っていました。
アメリカのMBAを目指す
アメリカの大学院に行くには、TOEFLやGMATなど、私が大の不得意とする英語の試験があります。でも、留学したいという思いが強くなると、試験のための勉強もそれほど嫌とは思いませんでした。
ただ、暗記が苦手というのは変わらず、必要な点数ぎりぎりを取るのに、公式問題集を何度も繰り返す、単調な英語の勉強を毎晩続けなければいけませんでした。でも、目的がはっきりすると、けっこう我慢強く勉強できました。
英語のやる気問題
それからずいぶんと後になって、イギリスの博士課程で英語を専門に勉強しようと決めた時、この時のことを思い出し、英語の「やる気問題」をテーマにしようといろんな研究を読み漁ったことがあります。自分の経験から、英語の「やる気」は目標や環境でころころ変わるから、このメカニズムを研究してみたいと思ったのです。
結局「やる気」を専門にはしませんでしたが、今でも、日本の英語教育で、最も重要な課題の一つが「やる気」、つまりMotivationだと思います。
英語の「やる気」研究の中で、私が特に面白く思ったのが、イギリスの大学のDörnyeiという学者の学説です。外国語を学ぶ時、将来その言語を使っている自分像(Ideal L2 Self)をはっきりイメージするほど、外国語学習に自己投資する原動力になると提唱しました。言語研究では多くの興味深い研究がこの学説を支持しています。
英語を使っている未来の自分を、具体的に、どこで、誰と、どう使うか、イメージをはっきりするほど、英語の勉強のやる気も続くといわけです。
言われてしまえば、あたりまえのような気がする学説です。でも、なぜ英語を勉強したいか、勉強しなくちゃいけないのか、という素朴な質問をちゃんと考えることは、日本の英語教育ではあまりないように思います。
私も、北京で英語で仕事をするまで、英語がうまくなりたいと漠然と憧れてはいましたが、実際にどのように英語を使いたいか、具体的にイメージしようとませんでした。
英語がうまくなれば、国際的な仕事への扉が自動的に開き、その先に、まだ見ぬ英語の世界がひろがっているとイメージしていました。でも、これでは漠然としすぎて、英語のために時間を使う強い動機づけにならず、いつも英語を後回しにしていました。
このころ、英語のやる気が続いたのは、英語を日常的に使って「こんなんじゃまずい」と毎日思ったからでもあります。将来への夢だけでなく、現実に切羽詰まった状況だと、英語の学びにさらに刺激になるわけです。
MBAの準備
こうして、北京のアパートで英語の勉強をしていたわけですが、アメリカの大学院の受験の方法も、わからないことだらけでした。願書のためのエッセーの書き方も知らず、ろくな参考書がない中で、ホテルの同僚や知り合いなど、多くの人に助けをもらいました。
総支配人には推薦状を書いてもらい、アメリカ人のPRマネージャーにエッセーの書き方の初歩から推敲まで教えてもらい、シンガポール人のオーナーには彼のMBA経験を活かしてエッセーに具体的なアドバイスをもらいました。そして、MBAに留学経験がある商社時代の上司にも久しぶりに連絡を取り、「全力を込めた」(と彼が笑いながら言ってくれました)推薦状を書いてもらいました。
多くの方から支援してもらって、受験準備をしたのです。
この時まで、私の英語を使う経験は、アジアやヨーロッパのノンネイティブスピーカーたちが相手でした。今度はアメリカに行って、英語のネイティブスピーカーと話すんだと、不思議な気持ちがしたのを覚えています。
こうして、私は北京を離れ、日本でしばらく暮らしたのち、アメリカに行くことになりました。