日記みたいなプレイリスト “無重力に滴る”
寒いのが好きだ。コントローラ越しの新しい世界を求めることが許されるホリデーシーズンは、暦と一緒に自分にとっての “世界” が鮮やかに更新された。
雪も好き。日頃は外に出たがらなかったけど、夜に雪が降って、まだ足跡一つない雪景色が広がっている日の朝は、何が何でも外で遊びたがった。アスファルトや雑草を覆い隠す白い景色は、冬休みだから朝早くから遊べる友だちの姿を際立たせて、世界に自分たちだけ居るみたいだった。
ノスタルジーによって、寒い季節は “還る場所” になっている。還り過ぎて、宇宙に思いを馳せる。冬の日の冷たい空気で気道と肺を満たすとき、「宇宙が近い…」と思う。
近いも何も、全ての空間は宇宙なのだけれど、生命の星たる地球から相対的に捉えて、宇宙は冷たい。生き物がいない。大体のモノが停まっていて、眠っている。そういう世界が近くに感じられることに安心する。
無重力という環境は人間の身体によくない、という内容の文章をインターネットのどこかで読んだ。考えたら当たり前のことだけど、人間の身体の設計には、地球上で加わる重力の負荷が計算に含まれているから。
精神というものが三次元の物質的な存在ではないことは凡そ確かだと思うけど、精神が有機物か無機物かはどうだろう。精神は、燃えたり焦げたり腐ったり交わったりするのか。
己がどう思うのか次第という答えになるとしたら、これまで、自分の精神を無機物のように扱ってきた。宇宙に近い無限の存在。精神は、地球の重力に引っ張られない―――そう思い込んでる。
今のところ、自分の精神が燃えたり焦げたり腐ったり交わったりする想像はつかない。人間としての機能が壊れてるってことかもしれない。当て所もない自分のもとに、断片的な人間模様として漂ってくる音楽に対する自分なりの慈しみみたいなものを言語化したのが、今回のタイトル。
今回、「シャッフル非推奨」と記してきたキャプションを、「シャッフル非推奨…でもない」と改めた。これからずっとそう…というつもりはないのだが、意図としては、心地よい無作為の実験。
これまでで少しモヤモヤしていたのが、好きな曲なんだけど、思い浮かべてるプレイリストのイメージと合わない…入るところがない…として、数多くの曲を篩にかけて外していたこと。
外す曲を最小限に抑えた今回は、前回の総再生時間の倍くらいになった。長ったらしい再生時間に対しても、「シャッフルしてもいい」という緩みで緊張の解れるところがある。
「…でもない」と曖昧さを残したのは、一応、完全に無作為なわけではないから。最初と最後の曲を除いて、候補の曲を集めた仮のプレイリストをシャッフルし、気持ちよく感じた曲順をそのまま採用している。「これは違う」と感じたときに限り、調整として手を加えた。あとは、全体の雰囲気として和やかなホリデイ感がそこはかとなく漂ったらいいなと。
今回の実験によって、今後、自分が気に入ることができるプレイリストをより最適に組めるように、 “篩にかける” 意味を改めて捉え直し、思い浮かべるイメージの解像度を高めたいところ。
自分が納得できるかどうかという程度には、プレイリストには拘りがある。その「納得」の根拠になる理屈の語彙は、好きなアルバムの聴取体験に由来する。コンピレーション・アルバムとかミックステープとか、そういう筋道を辿ってインプットした語彙は、さして無い。
年末年始は、SNSで年間ベスト選が賑わう。更に、今年は2010年代が終わる(終わった)ということで、2010年代のベスト選を発表している人たちもいた。僕の年間ベスト選はTwitterにて発表しているが、noteの更新に際して、2010年代のベスト選の方も選出してみた。
正確には、2000年代までを含むマイ・オールタイム・ベストを30枚選んだ。詰まるところ、この30枚が先に述べた語彙のインプット元ということだ。
全て邦楽だ。サブスクを使うまでは、邦楽しか聴いていなかった。とはいえ2015年にはサブスクを使い始めているので、やはり基本的には邦楽に偏重している。元来、僕は日本の音楽市場の中において、サイレントマジョリティ然とする素朴なリスナーだ。
そして、語彙のインプット元になったとする30枚とは別に、遠い昔、事実としてアルバム単位でそれなりに聴き込んでいた8枚の作品を発表しようと思う。
「元来、素朴なリスナー」である僕が、どのように素朴であったか。まず第一に、追い求める音楽の傾向や聴く姿勢が、親からの影響によって形成されるということに関しては、全てのリスナーが共通して持ちうる一般的な音楽との接点だと思う。
僕の幼少期の環境において、自宅で流れる音源は、レンタルCD(主にシングル)からのコピーを重ね録りしたカセットテープやMD。車で流れる音源は、MDかFMラジオ。
レンタルCDショップやFMラジオで流通している音楽は、所謂「J-POP」と呼ばれるものが主流と言えるだろう。8枚の作品とそのアーティストは、そういった文脈における「J-POP」の2000年代の代表例と言って差し支えないかと思う。
その頃、アルバムが好きではなかった。コレジャナイが詰め込まれているだけの退屈なものだった。あのドラマで流れてたあの曲ジャナイ……学校で流行ってるあの曲ジャナイ………ジャナイのは要らない、と。
躊躇いなくスキップする「捨て曲」という概念は当たり前にあって、収録曲が全部 “シングルっぽい” と、「こういうアルバムだったら聴きたい」と思った。シングルコレクション的なベストアルバムだと実際にそうか。
シングルカットやタイアップがされていない隠れた名曲を発見することへの満足感や優越感が思春期によって沸き起こり始めてから、徐々に自発的に音楽の聴き方を変えていくようになる。
所詮は、大量消費に最適化された産業構造に順応しきった即席3分のお手軽な反骨心。そんな量産型の中二病にうってつけのプロダクトを完璧なデザインで提供してきたのが、椎名林檎。
少し前…いやもう結構前か。音楽番組の関ジャムにて椎名林檎が特集された際、「椎名林檎のアルバムは曲間が全て途切れずに繋がるように構成されている!」という話題が、ネット上でちょっとバズっていた。まさに、僕は椎名林檎のプロダクトによって「シャッフルは邪道」という価値観をインストールされた。
でも、近頃の椎名林檎について個人的に思うことを言うと、曲間を繋げる構成に関しては控えめになってる。『日出処』を聴いたときは、なんか色々と丸くなったのかな…と思った。それに比べると、『三毒史』では初期のような構成に振り戻ってるところはあるかと思うけど、どうなんだろう。
またその気になってきたってんなら、俺得案件ではある。関ジャムにも自ら出演して解説してたみたいだし。昔は、アルバムどころかシングルでも必ず3曲以上入ってて、一繋がりの作品になってた。
J-POPへの批評的な文章で最も多く読んできたのは、椎名林檎に関する文章だ。結果として人生の半分以上の時間をかけて動向を追い続けているアーティストであり、本人も音楽業界における長いキャリアの中で、常に最前線・最先端に立ち続けている。凄い。
椎名林檎の批評で通説的なのは、本人も言うところの「広告のような」消費されるコンテンツとしての楽曲群と、そのコンテンツに対する極めてプロダクティブな制作姿勢。「J-POP職人」という評価は、凡そ自他共に認めるところなのだろう。個人的には、「J-POPデザイナー」という言い方もしっくりくる。
テックフェチな僕は、デザイナーという仕事に漠然とした尊敬の念がある。僕が椎名林檎の仕事を指して「J-POP職人」や「J-POPデザイナー」と捉えるとき、皮肉のような意味は無い。
椎名林檎自身が回収してきたオルタナティヴやサブカルの断片が、椎名林檎自身の手によってJ-POPとして実用化・製品化された。そのプロダクトに触れて世界が変わったと、「iPhoneを触って世界が変わった」と言うのと同じようなテンションで言えてしまう。
アルバム単位で魅了されることがクセになり、そうじゃないと不貞腐れるくらいにはウザめのアルバム厨となっていった僕が、アルバムに求めるものを言語化すると「世界観」に集約できるだろうか。
アルバムごとに世界観を変えてくる…というのは、単純に作家性を感じる。アルバム単位で魅了してくれるアーティストは、アーティスト単位で愛好したくなる。或いは、印象的な個性のあるアーティストの名刺のように機能すると、その刺激的な出会いを繰り返し再生できる喜びがあったり。
ポップスをどう定義するかは分かりづらいところがあるけれど、僕がポップスを感じるときというのは、アーティストからの「こういうの好きでしょ」という目配せを察知したとき。「こういうの」に当たる要素が、ハイコンテクストなミームのようなものとも言えるかもしれない。
アルバムの流れの中に、然るべき順序でそういった要素があってほしい。何を言いたいのか、どう思わせたいのか、文脈を捉える取っ掛かりとして。シングルカットされるようなキラーチューンの役割は、言うなれば安定した共通言語。共通するための言語。
2019年は、人生で一番たくさん音楽を聴いた。アルバムもたくさん聴いた。「あれ…?どうなのかな…好きなのかな?このアルバムのこと」と思う作品もたくさんあった。作品がどうこうというよりも、「尊ぶべき作品だ」と判断するときの自分の姿勢が、かつてないこの状況に対応することに備えられていなかった。
だから、選考中は自分にとってのアルバムについてめちゃくちゃ考え込んでしまい、しんどかった。同じくらい楽しさもあったけど。
良きアルバム像を自分の中でハッキリさせ過ぎて、今後、その型にはまるであろうものから受ける刺激が陳腐化するところまで想像してしまい、無作為と原体験に助けを求めて逃げ帰った次第。
思い返せば、あの頃聴いていたMDもプレイリストと同じようなものだ。MDへの録音作業を担っていた姉に、曲順を決めていたときの基準を言語化できるかどうか質問してみたところ、「普通に好きな曲順。だんご3兄弟と宇多田ヒカルがあったら、宇多田ヒカルを最初の方に入れる」とのことだった。
MDの表面のシールに曲順を書いたり、歌詞カードをプリントしたり、あの録音作業は決して機械的に処理されたものではなかった。拵えている人間の手癖のようなものが反映されていたはず。自分のネイティブな語彙として、この原体験を解体・整理しないでおくわけにはいかない。
12月は映画をよく観た。凄く面白かった作品と、別に面白かったわけではないけど印象に残った作品の感想を書くとする。ネタバレは無しで。
どちらともアマゾンプライムビデオで観た。まずは、凄く面白かった作品から。
『怪怪怪怪物!』(2017)
アマプラって基本的にビミョーな作品ばっかりで、元々口コミで評判の良いことが分かっていて信用できる僅かな一部を除き、アマプラ落ちすることそれ即ちダメ作品の烙印を押されているような認識が、自分の中で定着している節がある。
何でもいいからとりあえずホラーが観てえ…と思いながら、ホラー関連のサジェストを徘徊していたときに見つけたこれはもう、一見してB級臭プンプン。ハードルは限りなく低い。ハードルが低いのは良いことだ。再生ボタンは何も考えずに押すもの。
PG12指定ということだけど、分かりやすく人体が損壊している描写としては開始10分以内がピークで、それ以降は全年齢でもいけそうな程度。性描写は無し。
ジョーカーでも思ったこととして、2010年代前半だったらバッチリとグロくなりそうなショッキングな演出を、「ただ徒に煽るのも芸が無い」って感じで、人体が損壊するような分かりやすいグロさに関しては理性的になっていきながら、映像表現としての肝は研ぎ澄ますようになってきてるの、好感。
制作は台湾。舞台も台湾。主人公は男子高校生で、男女4人のイジメっ子グループに巻き込まれる形で、独居老人が押し込められたほとんど廃墟みたいな集合住宅で怪異に遭遇。そして乱れていく日常…というところまではホラーの既定フォーマット。
こういうセッティングのホラーって、「オッケー。で、誰がどうやって死んでいくのかな」って身構えで観るものだと思うんだけど、この映画は、とりあえず怪異をひたすら画面映えさせて観客をワーキャーさせるって方向性じゃなく、殺される予定なのであろう人物の主人公との関係性等の人物描写に重点が置かれてる。
怪異と遭遇した後も、意外とのんきな日常のパートが長く続く。コメディ要素があって、それがアジア独特のノリだから、馴染めないと退屈になってきて観るのをやめようか考え始める。馴染めても考えるのかな…。
ただ、被写体が軽薄なティーンエイジャーというところと、ちょっとイヤミというか毒気のあるポップな雰囲気に、中島哲也の映画を彷彿とさせられてきて、仕掛けとしての退屈さである可能性も見えてくる。
その可能性が確信に至る転換点は中盤くらい。分かりやすいと思う。「あ、笑って観るやつじゃない」ってなる。笑う人は笑うのかもしれないけど。人間コワイ系の不穏さ、陰惨さが漂い始める。
そうなってくると、じゃあ怪異はどう動かすわけ?ってなる。中島哲也は、『来る』で結局怪異を画面に映さない選択をした。直接的過ぎないJホラーの美学とか思ってそうだし言ってほしそうだけど、「人の闇の描写」と「怪異が暴れてワーキャー」を両立することを諦めたとも言える。
こっちは、序盤の序盤でガッツリ映しちゃってる。ていうかキービジュアルにもなってるし。この怪異は、確実にワーキャー要員なわけで。こいつが特に何もしなかったらそれこそ最悪。
ここで見えてくる可能性が、この怪異が物語の中の巧妙な装置である可能性。怪異が、ちゃんと “怖く” なっていくまでの過程と演出が、あまりにも鮮やか。
終わり方も素晴らしい。なんか…みんな…平等。幼稚でもあるかもしれないけど。エンタメだし、あれを「キレイさっぱりスッキリ!」としていいと自分は思う。
中島哲也の名前を出したけど、劇中歌としてYEN TOWN BANDが流れたりするので、「名前出すなら岩井俊二の方だろ」というツッコミがどこからか聞こえてきそう。逆に、中島哲也がコレと『コクソン』を観て、『来る』を撮ったような気がする。
『勝手にふるえてろ』(2017)
そこそこ評価が高くて、タイトルから内容が想像できず比較的興味を惹かれたので観た。開始早々の時点で、恋愛映画と受け取って相違ない感じだったので、そうと分かってたらあえて観ることはなかったかな…と思いつつ、惰性で最後まで観た。
甘々した感じではなく、松岡茉優演じる主人公が “いそう” な拗らせ陰キャオタクで、基本的に報われない普通の人の生活を覗き見るような楽しさはありそうと思って。松岡茉優、演技上手だし。
物語の仕掛けみたいなところは割りと早い段階でメタに意識しちゃって、観客が察しがついてる前提で展開していくのかと思ったら、中盤くらいでそうじゃなさそうな演出がきて、噛み合わないモヤモヤを感じた。加えて、拗らせな主人公が拗らせ過ぎてて単純に共感できない。
主人公の人物描写は、松岡茉優の好演もあり、リアリティあって面白かったと思う。この点に限っては、綿矢りさの原作小説の雰囲気をうまく映像化できたってことなのかな?原作小説は読んだことないので、原作小説でも同じようにモヤモヤする可能性は無きにしもあらず。
印象に残ったのは、最後のシーン。拗らせた人間が素っ裸になるというか、動物になる瞬間って感じがした。性描写とかじゃなく。でも、ああいうことなのかなって。「地球の生き物だろうが。お前は」っていう。
あと、『勝手にふるえてろ』ってタイトルは綿矢りさからの「会いたくて震える」へのアンサーって説は、結構真実味ある。
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