日記みたいなプレイリスト “絆す生態”
先月、「タイトルとかいちいち解説するのってなんか野暮だし…」みたいなことを書いたりしたが、それはそれでおこがましいようにも思うので、今回は方針を変えてダラダラと解説していこうかと思う。
僕の11月においての最大のトピックは、11月8日に晴れて発売日を迎えたPlayStation4専用ソフト『DEATH STRANDING』(以下、デススト)をプレイしたこと。 “絆す生態” というタイトルがデスストの内容から連想したものであることは、プレイした人であれば察しがつく…かもしれない。
デスストについては、EDを迎え一段落ついた時点で、マガジン「コアトのゲーム話」にてまとまった文章を書くつもりでいるけれど、先行して少し触れておくことにした。
発売日を迎える前から、トレイラーの公開や、作り手である小島秀夫へのインタビューが公開される度に「なんだかよくわからない」という反応をされてきたデススト。
発売日を迎えて約1ヶ月が経過しようとしている今でも、未プレイの人からすると「やっぱりなんだかよくわからない」という認識なんじゃないだろうか。その認識は妥当で、実際、非常に実験的・意欲的な作品となっている。
大きなキーワードは、「繋がり」。
デスストがいかにして「繋がり」というテーマに沿っているかは、幾つかの側面から捉えることができる。ゲームデザイナー・小島秀夫は、ゲーム内の脅威に対し、暴力・殺傷などの行為によって「脅威を遠ざける」ゲームデザインを「棒のゲーム」だとし、そうではないデスストのゲームデザインを「縄のゲーム」と説明する。
棒と縄。これは、人間が原初に発明した道具だそうだ。棒が相手を遠ざけるための道具で、縄は相手を繋ぎ止めるための道具。
ここまでは、2016年にデスストが発表されたときから、少しでも関心を抱いたことのある人は散々聞かされていることだろうから、結論から言うとしよう。デスストにおいて、人を殺害する行為は最も推奨されない行為としてデザインされている。
デスストにも、戦闘というものは存在する。殴り・殴られ…やっつけ・やっつけられ…はある。では、主人公サム・ポーター・ブリッジズは、敵にいかにして対処するのか………縛るのである。装備している縄で。縄を飛ばす銃みたいなやつもある。デフォで “縛りプレイ” というわけだ(これは今閃いた)。敵も敵で、サムを殺さない。荷物を剥ぎ取り、気絶したサムを荒野に放す。
デスストの世界の誰もが無闇に人を殺めないのには、深刻な理由がある。ゲーム中に登場する人たちがみんな根っからの善人だからというわけではない。「死」というものがあまりにも、あまりにも重いためだ。
Death Stranding、直訳して死の座礁とは、神話などで語られる不可視の “あの世” が、我々が生きる生者の世界と交わってしまった現象のこと。文章にするとスピリチュアルな印象になるが、デスストはこれをSFの方法論で描く。
死者の世界と交わってしまった世界では、死者による生者への接触が発生する。文字通り、化けて出る。生者が死者に捕らえられると、なんやかんやの理由により、対消滅というクレーターが残るほどの大爆発が起こる。人が死ねば死ぬほど、文明が加速度的に滅びていく。
なんやかんやの部分は、また別の側面から “繋がり” を捉える上で重要になる。詳細な部分は端折りつつもざっと説明すると、空間として実在する “あの世” の「無時間」を経由することで読み込み時間をゼロにしたインターネットのような技術があり、既にまともには機能していない旧時代のインターネットに代わり、各地でこのネットワークへの加盟者を増やし、規模を拡げていくことがゲームの大まかな目標になる。
ところが、この事実上のインターネットの復興に人々はそれぞれ考えるところがあり、手放しに賛同してはくれない。このことからデスストは、インターネットに翻弄される現代社会を批評するような内容にもなっている。
デスストの話はここまで。
「絆される(ほだされる)」という日本語には、デスストをプレイする以前…少なくとも今年の夏くらいには、思うところがあった。コトバンクによると、情に引きつけられて心や行動の自由が縛られること…とあるこの状態を、これまで僕は避けて通る人生を送ってきている。
分かりやすく言えば、いわゆる “コミュ障” として生きてきた。他者と関わるのは、不快な気分にさせてしまうのが怖いし、自分の考えを抑え込みその場の空気に同調するのはだるい。独りが好きである。とても。
願わくば、他者への意識は完全に断ち切り、煩わしいストレスから解き放たれたいものだが、その願いが業の深いものであるととっくに理解しつつも、吹っ切れることもできずに悶々としているのが現状。僕は絆されている。どこまで行っても、常に、緩やかに。
それは皮肉なことに、「孤独であることの心地よさ」への共感にしたってそう。
ユリイカ11月号ビリー・アイリッシュ特集という雑誌を読んだ。この雑誌の中で、ベッドルームポップという言葉が頻出する。Billie Eilishへのインタビュー記事の題名は、「〈ベッドルーム〉から世界へ」。
音楽に詳しくないなりに、この「ベッドルームポップ」ってのを咀嚼すると、宅録とか、DIYとか…やってることは要するにそういうことで、インターネットの発展及び機材の技術的な進歩によって、ポップスとしてのアウトプットを志向しても無理のない飛距離と完成度が、インディペンデントな制作環境においても実現できるようになってきた一連の流れが、ベッドルームポップというジャンル名みたいなものをキーワードにして語られてる感じだろうか。
宅録やDIYについて語られるとき、その文脈はしばしばオルタナティヴ的な精神への言及にも結び付きがちなようで、いずれの単語も、パーソナルで孤高な雰囲気を纏う音楽に相も変わらずに惹かれ続けている僕にとっても、心当たりのある断片だ。
そうした断片が発する最も閉ざされた匂いを嗅ぎつけ、最も開かれたインターネットの世界を徘徊する自分という生命体の滑稽なこと。
今回プレイリスト入りした面々は、シンフォニックなアレンジの曲やルーツミュージックの色合いを前面に出した曲が揃い、赤い血の通った生き物くさいイメージを抱いた。
デスストの発売後、星野源のラジオに小島秀夫がゲスト出演した際のやり取りに、印象的なものがある。「デスストをプレイしていると、自分の優しい部分に気付かされる」と言う星野源に対し、「哺乳類だから優しさは遺伝子に組み込まれている」と、小島秀夫は答えていた。
写真は、ハワイ旅行に行ってきた身内が撮影した現地の野鳥の写真。Google Lensによるとインドハッカという鳥らしい。Google Lens、ポケモン図鑑みたいで楽しい。
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