僕たち動物
2月が終わって3月が始まり、プレイリストを作ってnoteを更新しなくてはと思っていたときには、縋るようにこれを繰り返し再生してたことしか憶えてない。
思い出したくない。
思い出したくないけど、中途半端に仄めかすだけならこの文章を書いておく意味も無い。人の生き死にに関することだ。少なくとも、これだけは書いとこう。
タイトルは、カネコアヤノの「ゆくえ」からの引用。 “僕たち動物 何のために生きるかなんて今日決める” という部分。
カネコアヤノの歌詞やインタビューを読んでいて、生きることへの向き合い方や、動物への眼差しに共感を覚える。その答え合わせを自分が欲してる。どんなときも、外が晴れてるだけで幸せだと思えるままでいたい。
『DEATH STRANDING』をクリアした。
めちゃめちゃ優しいゲームだった。
ただゲームをやる(荷物を運ぶ)だけの虚ろな自分に、愛されていたことと愛せること、だから生きるのだと思えることを然りげ無く諭してくれる。
デスストの感想記事は、クリアするまでに時間がかかり過ぎて、一定の熱量で諸々の要素に言及していくには全体の印象が茫洋としてしまったことと、既出のレビューの幾つかが肝心なところをタイトルだけで充分に言語化しちゃってるのが目に入ったりもして、今はもう自分がガッツリ何か書こうと思う感じではなくなってる。
この特異なゲームを言い表すのは、辞書に新しい言葉と意味を加えるようなことで、誰かが一度やったらそれで済んでしまう。あと必要なのは、その言葉がより多くの人々に知られることだけ。
デスストは、オープンワールドにおける「移動」が遊びとしてデザインされている。ゲーム作りには、RPGのように舞台設定ありきの “詞先” な作り方と、何もないところから遊びそのものを創り出す “曲先” な作り方があると個人的に考えているのだが、それで言うと、僕は小島秀夫を曲先タイプとして見ている。
他に曲先タイプにあたる作り手には、スーパーマリオブラザーズの宮本茂がいる。今では、「プラットフォームゲーム」というジャンルの始祖のような位置づけで語られるスーパーマリオブラザーズも、2D空間における「移動」が遊びとしてデザインされているゲームだろう。
デスストは、ゲームが3Dになり、シームレスに繋がる広大なオープンワールドが基本になった時代のスーパーマリオブラザーズだと、言ってしまおうと思う。作中でキャラクターが旅路をスーパーマリオブラザーズに喩えて言及するくだりがあったときは、やっぱり意識してたのかと合点がいった。
マリオによって平面の世界が遊び場として完璧にデザインされ、一つの解を定めたように、デスストのデザインはオープンワールドの解になっている。
ゲームの楽しさについて考えるようになった頃から思っているのは、空間に意味を感じたいということ。RPGと接点の薄いゲーマー人生を送ってきたが、宮本茂率いる任天堂製ゲームの “曲先” な思想に最初から浸かりきっていたためだと納得している。
RPGが絶大な人気を誇る90年代の家庭用ゲーム業界において、『スーパーマリオ64』によって提示された他と一線を画す有機的な3Dゲームのデザインは、メカニクスを第一とする主義に裏付けられたものだと思う。
Twitterで述べたゲームの世界観というものについての考えを、ここでも書いておく。
一般的に、この言葉がゲームの話をするときに出てくる場合、雰囲気や舞台設定を何となく引っ括めたような使い方をされていると認識しており、自分自身そんな感じで使っている。
正確には、そういった使い方は誤りであるらしい。
小説の批評における語彙なんかを経由してゲームの批評に持ち込まれていく中で、ルーツがよくわからないままに意味が変容してしまっているんだろうか。
何にせよ、ゲームを語るために使うなら、ゲームを語る語彙としてフォーマットされた方がいい。そのためには、ゲームの「世界」とは何かを明晰にしておきたいところ。
作品という単位があって、作品として境界(例えば買い切りのオフラインゲームのゲーム開始からゲームクリアまで)の中で、世界はどういう状況で、その世界の人々が共有している観念(世界観の正確な使い所ここかも)はどういうもので、作り手はどういった感情に基づくイマジネーションをグラフィックやサウンドやテキストの文体などによって具象化しているのか…これらの要素で構成される “作品世界” がある。
僕は、デジタルでヴァーチャルな構造物であるゲームの場合、箱とルールだけを用意して作品世界を認めることができると思っている。「世界」を認識するのは自分の脳であり、脳は感覚によって世界をマッピングする。ゲームの空間で得る感覚は確かでなければならない。構造物として確固たるものでなければならない。
『あつまれ どうぶつの森』、発売日から連日プレイしてる。
マリオのように立体的なアクションを主旨としているわけではないどうぶつの森も、任天堂製のゲームとして例に漏れず、仮想空間で得る感覚を大事にした仕上がりになってる。
(一応)据置機のSwitchだから、マシンパワーの面での妥協のない今回は特にそう。光と水と風と生き物の息づきが有機的。最近構築したデスク環境の新しいスピーカーで聴くサウンドもめちゃめちゃリッチ。感動。
どうぶつの森ってそういうことを求めるようなやつなのかとかは知らん。僕は求めるし今回任天堂は答えた。それだけ。ていうか、世間でどうぶつの森がめちゃめちゃにバズコンテンツになってるのもよくわからん。自分が好ましく思ってる理由と共通してる実感がない。
もっと言うと、正直自分がどうぶつの森を好きだと思ってるのも何でなのかよくわからない。『moon』の記事で触れたときに書いたことが全てだろうか。
どうぶつの森の位置づけって奇妙だ。体験の核にあるのは「自由」だと思ってるんだけど、自由を堪能するゲームだったら、マイクラやGTAやTES、同じ任天堂だったらBotWと、各方面に突き詰められたコンテンツがある。
考えてみて思ったのは、やっぱり近いのはスマホゲーム的な体験だ。現実の時間と連動しているということは、待ち時間があるということになる。花や木が育つまでの待ち時間…ショップに並ぶアイテムが更新される待ち時間…魚や虫のシーズンの待ち時間…と。
あつ森の一つ前にあたるポケットキャンプはそれこそスマホゲーそのものなわけで、あつ森はポケ森で提示されたゲームプレイの延長線上にあるような感じもする。いや、ポケ森はすぐやめちゃったからあんまり記憶無いけど…タヌポートに1日1回アクセスしたらマイルあげますよとか…課題クリアでマイルあげますよとか…なんかスマホゲーくさい要素がちらほらと。
あつ森をSwitchで出てるだけの実質的なスマホゲーとして捉えたら、圧倒的に内容がリッチで充実してるのは間違いなくて、ゲーム内でのリアルマネーの都度課金を催促してくる無粋な仕組みも存在しないし、別にそれはいい。徳のあるスマホゲーってんならそれはそれでいい。
仮想現実(Virtual Reality)と拡張現実(Augmented Reality)というものがある。
技術的な用語としては、ヘッドマウントディスプレイを装着してあれしたり、カメラを通して重ね合わせてあれしたり、そういう話になるやつだけど、スタンドアロンのゲームと常時オンラインのモバイルゲームのスタンスの違いにも意味を当てはめられそうだと思った。
元来、ビデオゲームは仮想現実だ。ヘッドマウントディスプレイを装着して頭の動きを読み取るアレは仮想現実の最新の形。もう一つの現実たり得たゲームは、こちら側の現実を拡張する可能性も常にあった。
進化の方向性がプレイヤーの「生活の一部」になることに向かっていったモバイルゲームやオンラインゲームは、こちら側の現実を拡張していたと言えると思う。こちら側の一部となり混ざり合う拡張現実的なゲームが必然的に失うのは、作品としての境界。拡張現実的なゲームは “作品世界” を持てない。
拡張現実的なゲームにのめり込んだ経験が無いからなのもあるが、僕にとって拡張現実的なゲームは、「もう一つの世界」になれなかったゲームであり、それは残念なこと。
話が逸れるが、かつて『The Tomorrow Children』というPS4専用のゲームがあった。基本プレイ無料のオンラインゲームなのだけれど、非常に特殊なゲームで、このゲームの “作品世界” は僕にとって確かに存在を認められる世界だった。オンラインゲームとしての必然を逸するトゥモローチルドレンの挑戦は、ゲーム業界にとっても尊いものであったはず。
しかし、トゥモローチルドレンをパブリッシュしていたSIEは2017年の11月をもってサービス終了の決定を下す。今、トゥモローチルドレンの世界は閉ざされ、存在しなかったことにされている。
プレイヤーの自分がどれだけ「作品として扱うべきだ。プレイヤーから世界を奪ってはいけない」と思おうとも、SIEにしたら飽くまでもただのサービス。「もう一つの世界」になろうとしても、存在を尊重してもらえなかったゲーム。
ゲーム会社がゲームの世界を尊重して守らないんだったら誰が守るんだろう。
どうぶつの森の話に戻ろう。
どうぶつの森が辿ってきた道のりが奇妙なのは、現実の時間と連動するシステムが既に確立されていた第一作目の頃から、拡張現実的なゲームとしてのDNAは備えていたものの、言わば “不本意に” NINTENDO64の中に仮想現実的なゲームとして格納されていたわけだ。
僕が愛してしまったのは、不本意な姿のどうぶつの森だったということ。
Twitterで相互フォロワーの方とゲーム談義をしていたときに出てきた話で「ゲームの硬さと柔らかさ」というのがある。
例えばファミコンのゲームだと、操作は単純なインプットしか受け付けず、ドットが荒くて視認性に難があり、それが独特の難しさに繋がったりしていて、質感を「硬い」と表現したくなる。
スーファミになると、複雑なインプットを受け付けるようになってキャラクターが滑らかに動き、細かいドットで作り手が描きたいものが伸び伸びと表現される。その質感は「柔らかい」。
硬いことと柔らかいことは一概にどっちが望ましいかというのはなくて、いずれの場合にもそれなりの趣きがあり得るのが面白い。デモンズソウルはファミコン的な趣きの再現になっていて、その硬さがハードコアなゲームプレイとしてウケた…とか。
作り手の頭の中にある設計図とは別に、ある種の不本意さや不自由さという制限によって生まれる形や質感がある。
最初期のどうぶつの森は、不本意な制約によって拡張現実的なゲームになりきれない硬さがあったと言えるように思う。それは、どうぶつの森にしかない硬さ。それ故に生まれていた独特な趣きを気に入っていた。こちらの世界の自分の生活と繋がっていながら、風通しは良すぎない…そんな具合。
どうぶつの森について考えてたことはこれくらい。
レビューとかではない。まだちっとも全貌が掴めてないから、島が発展してくと何が起こるんだろうという感じ。
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