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スピノザの哲学とコーチング

「人が何かを欲するのは、それが本来的に善なるものだからである」とプラトンが述べて以降、善のイデアの観念論は西洋哲学の主流になってきました。

ところがスピノザは「私たちは自分が欲するものを良いものと呼んでいる」と述べ、善を、主観的な嗜好や欲望と切り離せないものとして捉えました。

スピノザの言う美徳すなわち正しい生き方とは、各人にとって良いもの、生きる力の増大に役立つものを得ようとする行為に他なりません。それは自分を喜ばせるものを探し求め、自分を悲しませるものから遠ざかることであり、自分を高める出会いを大切にし、自分を貶める出会いを避けることとしました。

ただし、このような正しい生き方を個々人が追求する上で、スピノザは我々の進路を喜びに誘う理性が大事だということを強調しました。

我々が適切でない固定観念に突き動かされている場合、自分では喜びを増大させること、つまり良いことをしているつもりでも、実際に自分を傷つけ、他者にも害を与えている可能性があると述べたのです。

スピノザがいう理性というものが何を指すかは私も判然としないのですが、意識構造を例にとれば、適切でない固定観念に縛られた結果として自他が幸せに生きることができないケースを想定することは難しくはないでしょう。

例えば「人間は自分自身の快楽を追求するのが大事であって、他者を慮る必要はない」という、自己中心的な観念に突き動かされている場合、その人は自分の短期的な快楽や豊かさを実現するために他者から何かを奪ったり、コントロールしたりすることに躊躇はないでしょう。しかし、そのような固定観念に突き動かされていると、他者との関係が快適なものになり得ないので、長い目で見れば持続的に喜びを得られる人生とはほど遠いものになりかねません。

逆に「人間は自分自身の快楽を追求してはならず、他者を慮って謙虚に振る舞うべきだ」という、他者中心的な観念に突き動かされている場合、その人は自分の短期的な快楽を我慢して、家族や職場の人達に奉仕することができるかもしれません。しかし、そのあり方が極端であれば、自己犠牲的な振る舞いに自分自身が疲弊して、やはり長い目で見れば持続的に喜びを得られる人生とはかけ離れたものになってしまいます。

スピノザは「私たち人間は、情念すなわち受動感情(これは上述したような固定観念のことです)に支配されている限り、互いに反発し、敵対することは避けられない…。私たち人間は、理性の導きに従って生きる限りーただその限りにおいてのみー、本性によって常に必然的に和合する」と述べ、そのような生き方、つまりは固定観念から自由になったあり方において、我々は相互扶助が可能となり、相互に持続的な喜びが得られる人生が可能になると主張しました。

スピノザはさらに思想を推し進めます。彼は、人間を自発的隷従、つまり固定観念に縛られた状態から解放することが、倫理学の目的であることを論証しようとしました。固定観念が引き起こす感情に縛られ、制御できず、外的刺激に従属してしまう人間の無力さを、スピノザは「隷従」と呼んで問題視します。

「~せよ」「~すべし」という、世の中に普通に存在する命令的な道徳規範に義務的に従い、思考停止になってしまうのは、居心地がよくとも「隷従」であり、良い生き方とは言えないとしたのです。スピノザが説く隷従からの解放とは、自分にとって良いものと悪いものを見分け、適切な行いをするためには、固定観念から答えを導くのではなく、そうしたものと距離をとって緻密な自己観察、内観を行う必要があるとしました。(まあ、私は命令的な道徳規範は、誰しも人生における一定期間は有用だと思っています。おそらくはスピノザもそう考えていたことでしょう。)

そのような自己観察を通じて我々は、予め善悪として定められた道徳規範によってではなく、自らの内面にある理性的な倫理でもって良いものと悪いものを判別することができると主張しました。

このように、スピノザの倫理学とは、隷従から自由へ移行することで、真に長期的で持続的な幸せを人生で感じる生き方を指向しようというメッセージが込められているように思います。スピノザは、自由とは「本来の自分自身になる」ことととらえていたのであり、本来の自分自身になるとは、自身の本性の決定に従うことに他ならないとするのです。

自由に至るカギは外的道徳規範にではなく、自身の本性に内在しているという大胆な仮説を提示しているのです。

自分を悲しみから喜びへ、隷従から自由へ移行せしめる決定的ヒントが自身の深いところに内在しているという考え方の重要性・妥当性は、コーチングにおいては常に実感することです。

そのような、クライアントに内在する本性を汲み取るために情念、固定観念などの不純物を取り去ることがコーチングも目的とも言えます。

なお、このように自由に対して仔細な考察をしたにも関わらず、スピノザは人間の自由意志を否定しました。人間には自由意志などなく、コナトゥス(事物が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする傾向)という必然性に駆動される存在ということに自覚的になり、その必然性の発露において情念や固定観念の束縛を脱して純粋性を確保することが人間に与えられた自由だと説いたのです(と思います)。人間に自由意志がどうやらないらしいということは、最近受動意識仮説などアカデミックな世界でも主張されていることではありますね。

人間はコナトゥス、ロジャーズ的には実現傾向に駆動される存在であり、それを純粋に発露するための精神的自由を希求する存在と言えるのかもしれません。

ところでスピノザの言うコナトゥスとは「主体的真理の社会実装を動機づける、人間に与えられた傾向性」とも言えると思います。そして発達段階が上がっていくというのは、それだけコナトゥスの発露の純度が上がっていくことを意味するような気がします。隷従を脱した自由な主体的真理の発露として。

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