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心地よさを選ぶ

50代に入って最も意識していることは
とにかく「我慢しない」ということだ

自分のご機嫌くらい
自分でとれるようになろう

そう思って試行錯誤しているうちに
どうやら己の正義感こそが
不機嫌の種だったことに気付いた

◯◯するべきだ
◯◯しなければならない

正しさを追い求めるあまり
聖人君子でもない私という存在は
常に常に我慢を強いられていた

それが「良いこと」であると信じて疑わず
常に常に不機嫌になっていたわけだ

なんだ、そうだったのか
それならもう
不機嫌の種になる正義感を
思い切って手放してしまおう

その結果として辿り着いたのが
正しさを追求するかわりに
常に「心地よさを選ぶ」ということだ

この気付きを得ることにより
私の世界から「我慢」が消えた

気付きのひと雫が大きな波紋となる

私にはきょうだいがいない
今どき「ひとりっこ」は珍しくもないが
私が幼少期の頃は割と少なかった

当時「ひとりっこ」といえば
「わがまま」の代名詞のようなイメージもあり
忍耐力の無さや協調性の無さを
ことあるごとに指摘されてきた

実際、ひとりっこだからというよりは
それは「個人の資質」なのではないかと
今になって思ったりもするのだが
言われ続けているうちに
我慢や人に合わせることが
あたかも美徳のような感じがして
それができないひとりっこの私は
生まれながらにダメな人間なのだと
烙印を押されたような気持ちになっていたものだ

私がどんなに我慢しても
私がどんなに人に合わせても
私はひとりっこ故に
きょうだいのいる人の
それには到底敵わない

そんな思い込みに囚われていた

ならばそれは
無駄な努力のような気もしてきて
いつしか人と関わることに
めんどくささを感じるようになった

「触らぬ神に祟り無し」
そう自分に言い聞かせながら
人との距離感をはかるようになっていた

そういった背景から
思春期を終える頃には
「社交的な引きこもり」の私が
既に完成していたように思う

人と違うことはダメなことなのだろうか…

そうは言っても社会に出れば
否応なしに人と関わることになる

食べていくために「働く」となれば
自ずと我慢も強いられる

本当に必要に迫られれば
人はいくらでも
変わることができるということを
身を以て知った

自分以外の何かになってしまえば
世の中というのは
スムーズに渡れるものだと知った

いつしか私は
我慢を繰り返すことに慣れ
不機嫌は他者や環境の所為だと
不満を募らせるようになっていた

誰かに機嫌をとってもらいたくて
見当違いな我慢を繰り返し
自分以外の何かになるために
他者の反応に悶々とする日々が続く

これが「大人」になるということなのか…と

誰も私の機嫌などとってはくれない

そんな私にも46歳の時に転機が訪れる

喉から手が出るほど欲しくて
やっと手に入れることができたポスト
正社員で雇用されていた会社を退職したのだ

定年まで働く気満々だったが
もはや私の身体が私の言うことを
きいてくれなくなってしまった

社会からは完全にドロップアウトしたけれど
私には精神世界の学びが残っていた

目に見える世界に適合できなかった私は
目に見えない世界に救われた

会社員12年間の在籍期間で
欲しかったものは何ひとつ手に入らず
頑張って手に入れたものは全て失った

そして最後に
なにものでもない「私」だけが残った

命の存在としての「私」だけが残ったから
もう、これ以上、
私は人も自分も裁くことをやめようと決めた

清く正しく在ろうとするのをやめて
そのままの「私」で在ろうと

己の正義感を手放そうと決めた

そしたら、どうだろう

我慢することをやめて
心地よさを選んでいるだけで
わざわざ人に合わせなくても
正しく在ろうとしなくても
間違いを正そうとしなくても
わがままと言われることもなくなって
傷つくこともなくなった

それどころか

思いがけず
人から感謝されるようにもなった

実は「平和」な世界の創造は
とてもシンプルなことなのかもしれない

己の内部表現次第であるならば
ひたすら心地よさを選んでいくだけで
その願いは叶うのではないかと
今はぼんやりと思っている

そして

こんなふうにぼんやりと
思いを巡らせている時間が
とても心地よいと感じている

お読みいただきありがとうございました

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