見出し画像

大きなバッタ

「私のそばに来るまでは、様になっているよ、でもその後がね。それでも自分の気持ちを精一杯伝えているつもり?最初が堂々としている分、余計に自信なさげに見えるんだなあ。この間手紙くれたでしょ。その文章にあなたの本心が出てたわよ。”I am writing to tell you that i love you.”」
 
確かに最初の『私』は背筋が伸びて自信にあふれているけど、愛を告白する『私』になると、委縮している感じがする。書かれた言葉から本心が見えるって言われてもなあ。
 
言い訳するわけではないが、この国で英語が公用語として使われて間もないころに育った世代だ。どんな「人称代名詞」も、文頭以外、文中では小文字で書くという習慣が決まりのようになっている。その決まり通り書いてなんで文句をいわれなあかんのや。
 
なんだかいつも愚痴をこぼしている、うちの親父に似てきたな。印刷工場を経営している、親父がよく言うのは、「この小文字の『私』は、印刷すると他の文字に紛れて読みづらくて困る。まるで生い茂った真夏の雑草に紛れ込んだ小さなバッタのようだ。刈払い機でその雑草を刈ろうものなら、その小さなバッタまで刃にかけてしまう」
 
そうか、彼女から自信なさげに見られていたのは、雑草の中に紛れ込んだ小さなバッタだと自分が思い込んでいたからか!雑草の外にいたときだけ堂々していられたのは、刈払い機の刃がそこまでこないと思えたからか。雑草の中でも怯える必要はなかったんだ。草刈作業員は、とっくに私のことに気付いていた。注意を惹くほど大きなバッタだったから、刃の向きを変えてくれた、大きな羽を使って窮地から飛びそうと、焦る必要はなかったんだ。
 
彼女も、雑草の中で、紛れもなくこの私だと見つけてくれていた。小さなバッタだと感じていたのは、自分だけだったんだ。縛られすぎていた。決まりに従うのが当たり前だった自分から脱皮していくのを感じる。
 
どこであろうと『私』は大文字。どこにも小文字の『私』はいない。彼女を乗せて空を飛ぶ。大文字焼きの山肌を越える。彼女の耳にささやく、”You are all My heart’s desire.”
 
結婚式の披露宴で親父は言った、「これからは、息子たちのように、小文字の『私』を使わない人が増えるだろう。印刷屋もその流れに押し流されるだろう。でも忘れないでほしい。自分が小さいと感じたときは、小文字の『私』を使ってほしい。自分を大きく見せるために、わざわざ大文字を使うことはない。だから、二人へのご祝儀として、小文字の『私』を贈ろう。」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?