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SNS

夏にインターンシップに参加した。チームのメンバーたちとは、offの日も、土日もlineのやり取りでプロジェクトに取り組んでいたので、合わせて8日間の付き合いだった。最終日に記念写真を担当者の方にとってもらって、みんなで共有した。その写真を当時やっていたSNSのアプリに投稿しようと思って、許可を得るためにみんなに聞いた。最初は母国のWeChatについて聞いたが、チームリーダーだった方から「俺は嫌です」という返事がきた。すると、「Facebookもだめですね?」と聞いたら、「そうね、そういうのはあんまり好きじゃない」「ゴメンネ」という返事だった。気持ちを正直に教えてくれてありがたかった。写真をどこにも載せないようにした。(お母さんだけに送ってインターンシップのことを教えた)

その方にはなんで嫌で、なんであんまり好きじゃないかと聞かなかったが、そういう返事をもらったことが、逆に自分がなんでそういうのをやっているかを考えさせられた。

10年前高校三年生のとき、QQというアプリをパソコンで始めた。当時の友達は現実中の友達だったので、主に高校卒業前の記念写真や大学にいる間の写真をのせる、電子アルバムのように利用していた。その後来日し、日本語学校にいる間は、QQで日本での生活を紹介し、Facebookで母国のことを紹介するように使いたかったが、結局どちらも日本での日常生活の記録になってしまった。その後大学に入り直して、LINEを始め、家族たちもWeChatを使い始めたので、自分もQQからWeChatに移行した。WeChatは予備校にいる間一時的に頻繁に投稿していた。受験に向かう白黒生活のはずだったのに、振り返ってみると、なぜかカラフルだった。

いまは、QQとSkypeは名残りで削除できないまま残っていて、WeChatは家族とリア友との連絡ツール、LINEは主にバイト先との連絡ツールとして活用されている。

はじめのリーダーの返事がきっかけで、即時にこのような変化が生じたが、それまでは、そういうのがあまり楽しくないという気持ちが心の底にずっと潜んでいたような気がする。

生活を記録するツールとして使うつまりだったが、いつの間にか人からの評価を気にしてしまい、人間関係をめぐる悩みまでに抱えてしまったのは第一の原因だったが、それを隠して、生活の中の良い面ばかりを取り上げることが、日本での生活や自分自身を見せびらかしているように、と自分の中では思ってしまった。そういう自分が好きじゃない。

このnoteを使い始めたのは研究者になることを固めたときだった。研究者になるプロセスや自分が「大人」になっていくプロセス(硬い言葉で言えば、自分の発達プロセス)を如実に記録したいと思っている。なぜなら、私は成長することをネガティブに捉えている。成長することが、喪失することでもあるということ。自分の純真さ、馬鹿馬鹿しさ、不器用さなどなどをどんどん失ってしまうことが悲しい。それらを残したい。自分の身にじゃなくても、どこかに残したい。

それだったら、自分だけが見えるノートでも記録できるのに、なぜ公開できるインターネットを使ったというと、人とコミュニケーションをしたい気持ちもあるからだと思う。自分だけに見せるようにすると、自分だけに影響するが、公開すると、影響力が広がるような気がする。どんな影響力かなといま考えたら、相互理解とか、内省することの大事さとか、自分と向き合うことの大切さとか。。

投稿して初めてスキされたとき、嬉しい気持ちに、驚きと不思議さが混じっていた。「えっ、自分の書いたものを好きになってくれる人がいろんだ」「どこが好きかな」と思っていた。

最近、そういう他人からのスキや、投稿するたびにnoteから「○○日連続投稿!素晴らしい!」などの自動返信が気になってしまい、気持ちが左右されているが、改めて書く目的を整えて再出発しようと思っている。

自分が日常生活の中で見たもの、感じたこと、考えていることを記録しているだけで、それまでになかったものを新たに作り出すことという創作ではないと思っているので、noteから「クリエティブが炸裂してますね!」と言われると違和感を感じて、恥ずかしいと思ってしまうのがよくないところだが。


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