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レースを着るようになったのは。。

連日の晴れ。今日は薄いグレンチェックのAラインスカートに、黒いVネックセーターにした。インナーはレースの縁飾りをつけられたものにしたかったが、昨日洗ったのを思い出して、レースのついていないものを出して、レースのついたやつにしたかったなと思いながら着替えていた。しかし、出かけてから一日経った今でも、その出来事をnoteに綴るほと、ずっと気にしているようだ。「あのレースの縁飾りの外側を切ってしまったほどレースを着るのが嫌だった私はどこに行った?」と不思議に感じているから。

レースを着るようになったのは今年の三月からだった。春の装いをそろえるためにデパートに行った。気に入りのボリュームトップスのコーディネートを考えていたら、店員さんに勧められたのは裏一面にレースで覆われたベージュのパーカーだった。目の前に現れた瞬間、28年間レースと無縁だった私にとってはハードル高すぎると思っていたが、店員さんがわざわざ持ってくれたからと思って、試着させてもらった。丈の短いあのパーカーが身長の低い私の身にかぶせられると、店員さんに言われなくても、似合っていると自分が思った。すると、買うか買わないかをめぐって、しばらくの間は思考モードに入った。

必要なものだけを買うようになってからは特にそうだが、服を買うときはいつも持っているものに合わせられるかを考えている。たくさんのコーデができそうだなと思ったら買うが、そうじゃなかったら買わないようにしている。今回のレースパーカーの場合は、それに加えて、レースをどう受け入れるべきかについても考えていた。

それまでレースを着なかったことには、二つの理由があった。一つは、レースの素材は、触覚敏感な私にとってはざらざらしすぎで、着ると落ち着かないからだ。もう一つは、レースは女っぽさを過剰に演出していると自分が思い込んでいたからだ。自分はLGBTQではなく、自分は女性であることをはっきりと意識しているが、女っぽさを見せるのに抵抗があった。

それはなぜだろうと真剣に考えることがなかったが、考えてみると、いくつかの理由が出てきそうな気がする。

父親の影響が大きいと思う。子どものころから「刻苦素朴」としつけられてきた私が、高校生になってからはちょっときれいめの服を着ると、「〇ちゃんも見繕いできるようになったね」とよく父親に言われていた。そう言っていた父親は私が成長したのをだだ感嘆していたかもしれないが、私にはいつも「身なりはもっと質素にしなさい」と聞こえていた。そのせいで、女性っぽく着飾ることにはいつも不安を感じていた。

言葉や視線によるセクハラの経験も影響していると思う。日本に来てからは、胸のあたりは男性にジロジロ見られたことは何度もあった。電車の扉の近くに立っていたら、降りるおじさんに「邪魔者」と責められて、謝ろうと思ったら、その目線が胸に止まっていたのがわかった。駅の上りのエスカレーターの右側に乗って歩きだしたら、自分より先に乗って、左に立っていたサラリーマンが後ろに向いて、下から上ってくる私の胸のあたりをまじまじと見ていたのがわかった。ホームでスマホをいじりながら電車を待っていたら、横に立っていた男性が横目で私の方を見ていたのに気づいた。工場で短期バイトをしていたとき、上司のおじさんにいやらしい目つきで「かわいいね」と言われた。もろもろの経験から「女っぽさを出したら危険!」と覚えさせられた。

また、女子大での4年間の経験も影響しているようだ。そもそも女子大に入ったのは男性と同じように活躍できる女性になるためだったが、同級生の中には勉強よりファッションや遊びに力を入れたり、結婚したら仕事をやめて専業主婦になると考えている人があまりにも多いことに驚いた。自分は決して彼女たちとは違うと誓い、彼女たちのようにかわいさや女っぽさを出すことを自分で抑えていた。

そんな経験をしてきた自分だったので、一年前に安いという理由で買ってしまった、縁にレースがついていたインナーの外側を切ってしまった。レースが他人に見られないように。

しかし、それから一年、レースのパーカーの前で足が止まったのはなぜだろう?

変わりたかったから。

それまでの自分と決別したかったから。

挑戦したかったから。

自分に正直になりたかったから。

自分にも他人にも緩くなったから。

大人になったから。



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