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あしたになれば~柴門ふみと一緒に振り返る~

学生相談所になぜか柴門ふみさんの漫画が多く置いてある。それは初めてあそこに訪ねていたときから知っていた。いままでは、カウンセリングを始める前の待つ時間にちらっと見るぐらいだった。読みたいけど、じっくりと読む時間がなかったのもあったが、なかなか触れられなかったのは、大学受験でお茶大に落ちたという心のしこりを引きずっていたからだ。それを読むとその失敗経験を思い出してしまうのではないかと思っていた。実は、そういう恐れを感じていたということは、その失敗経験を常に思い出しているということに気づいた。柴門の本を読むか読まないかに関係せず。

しかし、今日は午後いっぱいを使って、『あしたになれば虹は』を読んでいた。それは心のしこりは少し解けたからかもしれない。

過ぎたことを引きずってくよくよする自分にうんざりで、いち早くもそんな自分を変えたいと常に思うが、いざ過去から抜け出したら、開放感のではなく、むなしさを感じるのはなぜなのか。

そのような気持ちは、修論のテーマを指導教官に誘導されて決められたときにも感じた。決めたのは自分だったが、このテーマで研究し続けていくんだ、それでいいのかと、後になってためらってしまう。テーマが決まったことによって自分が決められたような気がする。決められた人生なんて送りたくない。テーマが決まる前にいろいろと悩んでいたが、主導権は自分に握られていたから安心する。

成長するのが楽しめが、変わった後に、変わる前の自分を懐かしむ。もしかしたら、この心情は、エリクソンのアイデンティティ理論でいう斉一性と連続性に関わる話?もしかしたら、自分のモラトリアム期が長引いているのは、モラトリアムから抜け出すのを恐れているから??

今日は、柴門さんの出産するまでの人生を読んできた。自分の読むべき論文は一本も読んでいない代わりに。

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