海外ノマドが過去を振り返る。#想像していなかった未来
海外ノマド生活中の私は先日【本業】の大学講師、言語博士の関係で【トランスナショナルな日本の空間】と言う課題でのワークショップ、研究者発表会に参加していた。
【The 7th EU-Japan Young Scholars Workshop in Alsace Transnational Japanese Spacesトランスナショナルな日本の空間】
フランス、アルザスは私の原点を作ってくれた場所だ。私はこの地に12歳の時に単身でやって来た。そして、この場所に来た私はその頃、それから大人になってもこの地に在住することなんて全く想像していなかった。そして、また、こうして研究者としてこの学校のことを紹介できるような立場になれるとも、想像していない未来の1つだった。
12歳で単身フランスへ
私は12歳で単身フランスに留学した。それだけでも周囲に
「どうして?」と言われるが、本当に色々な偶然や運、縁が重なりフランスのアルザス地方の小さな村にあった日系全寮制日本人学校へと留学した。
そして、12歳でフランスに単身留学した私は、現在もまだアルザスに在住している。そしてそんな今の私が存在するのは、この『特殊』な学校での経験が大きく関係している。もしもあの学校に行かなければ、今の私はいなかった。私にとっては自分の性格形成、その後の人生を決めた大きな出来事となった。
どうして12歳でフランスに?
では私はどうして12歳でフランスに行くことになったのだろう?
とても簡単に言うと、
「私が通っていたその私立のエスカレーター式の学校で、私が小学6年生の時に『中学校は本校の東京校か分校のアルザス校どちらが良い?』と聞かれたので、じゃあ、とアルザス校を選んだ。」
のだ。でもこれは本当に簡単にした答えだ。
そう言ってしまえば、簡単なことだけれど、もちろん、そんな簡単なことではなかった。
最初私はこの分校のパンフレットを見て、すぐに家族に「この学校に行きたい。」と言った。その時はこの学校に行けるかもわからなかったし、この学校に行ったらその先どうなるか、なんてことも分からなかった。
だから、よく親が行かせようとしたと思われることもあるが、「行きたい。」と言ったのは私自身で、最初家族は皆反対した。
そして、その暫く後に、小学校から中学へ進学するにあたり、東京校かアルザス校どちらか選択することができ、最低2年留学すれば又日本の本校へ戻ることができると言われた。
それは本当にある日、教室で担任の先生が「中学校進学時にアルザス校に通う事ができます。」と言われ、そこでまた改めて私は親や家族に「アルザス校に行きたい。」事を伝え、やっと親が本格的に学校に連絡をしてくれたのだった。
幼稚園の頃、所謂「お受験」をしてエスカレーター式の小学校に入った。
私は小学校の時、決して活発な生徒ではかった。クラスでも目立たない子で、本が好きで、いつも本を読んでいた。おとなしかったし、小さかった
ただ、恐らく生まれつきマイペースで自分のしたいことをするタイプだった。
私はそんなその学校に行きたいと思った。誰かに影響されたわけではなく、シンプルにただ行きたいと思った。外国に行ったこともなかったし、海外とは縁のない生活をしていた。けれど、ただ漠然とこの学校に行きたいと思った。ただ、それだけだった。
海外の学校、なんて言えば、もちろんある程度お金もかかるし、そう簡単には行けないとも思うだろう。私の家は実はそう簡単に海外に行けるような家ではなかった。けれど本当にたくさんの縁と運が重なって、私はフランスの日系全寮制学校に行くことができたのだ。
家庭環境とフランス行き
そこで、私はまだ変わらぬ自分の意志を家族に告げ、なんとか了解を得てこの学校の入学申し込みをした。ここでもう1つ周囲に言われることは
「それだけ家が裕福だったんでしょう。」ということだ。
そう…かもしれない。けれど私はこの時本当にラッキーだったんだと思う。
今の父親のアメリカ転勤が同時期に決まり、祖父母の面倒を見なければならないと母は日本に残ると決めて、この時父親の単身赴任が決まっていた。
日本から海外転勤になると待遇も良くなり、普通のサラリーマンでもかなり裕福な状況になる。また、祖父もまだ働いていて(これまた自分で会社を設立していたようで、亡くなるまでちゃんと給料の入る生活をしていた。)ある程度金銭的サポートを家族にしてもらえる状態でもあった。
だから家族も
「じゃあ、皆バラバラでも良いかな。」
と考えてもらえて、賛成してもらえた要因の1つだった。もしもこの時に父親の転勤がなければ行けなかったかもしれない。そして、運が良く祖父もまだ現役で働いてくれていた。おかげさまでそんな祖父は亡くなる100歳までお給料の入る状態で仕事を継続していた。なんともタフな祖父だった。
そんな色々な諸事情が重なったこともあって、家族は私をフランスに留学させてくれたのだ。
どんな子供だったのか?
11歳で単身アルザスに行くなんて…よっぽどしっかりした子供だっただろと想像されるかもしれない。けれど、私はクラスで一番小さくて、細くて、すぐ保健室のお世話になってしまうくらい、か弱い子だった。
どちらかと言うとみんなでワイワイ遊ぶタイプでもなくて、一人静かに本を読んでいる方が好きだったし、好きなことをするために、一人でなんてもしてしまう、マイペースな子だった。親もちょっと心配するくらい、静かでマイペースだった。
そして、今もそうなのだが、私はきっと人生を思い付きで生きてきたところもあり、私は「面白そう」と思った方に流れていく傾向があるんだと思う。そのため、私の人生には『安定』という言葉はない。私は『安定』の代わりに『自由』を選んで生きており、それは今でも変わらないだろう。
私の人生がちょっと変わっているのは、フランスのアルザスに単身で日系全寮制学校に来てしまったから、とも思われるがきっとそれだけではない。
考え過ぎと言われることも多いが、マイペースで、元々少し周りとは馴染めていない、変わっている子で、だからこそフランス、アルザスにある日系全寮制学校への留学を「面白そう。」という気持ちだけで、決めてしまったのだ。もちろん、その学校での体験は、私のその後の性格形成や人生に大きく影響したことは否めない。
ただ、一つ言えることはこういう性格だったから、12歳で海外に行こうと自分で思ったし、その決断をしたと思う。だから、もちろん元々の性格もある程度関係していると思うし、このフランスでの経験が、その先も、今もこうして海外生活をしているという私の人生に影響していると思う。
この学校で得たものーどこでも生きていける強さ
この環境で、フランスのアルザスと言う場所に3年間留学し、私が1番得たものはフランス語力やフランス文化理解ではなかったかもしれない。
アルザスの、小さな日本、子供しかいない環境。そこは日本でもないし、フランスでもない、アルザスでもない、とても不思議な環境だったと思う。まだインターネットもない時代、かなり閉鎖された環境でもあり、けれど、普通だったら日本でも自分の住む場所のある程度狭い環境に比べたら、とても広い、壮大な環境でもあった。
親もいない環境で自分でなんでも決めなければならなかったし、自分で動かなければならなかった。そこは自分で自律的になんでもしなければいけない環境だった。良い意味でも悪い意味でもなんでも自分で動いて自分でしなければならない、そんな環境だった。
そんな環境のお陰で自分から動く、ということを学習した気がする。この学校ではフランス語とかフランス文化ということではなく、本当に別の意味での生きる糧、生きる為の能力、自立する力、どんな環境でも生活できる対応力などの能力を向上させることができた、とても貴重な環境だったと思う。
私が得たものはその後の私の海外生活で生きていくための術、能力をここで全て培ったように思う。
アルザス成城学園で得たものーヨーロッパでジプシーのように生きろと言ってくれた恩師
総合的に言って、フランス語やフランス文化を学ぶには最適な場所ではなかったが、私がこの学校に来たことは後悔していないし、この学校に来て良かったと思っている。
この学校に来たお陰で今の自分がいて、今もアルザスにいるような人生になったと思っている。そして、私はこの学校で会った人生の恩師がおり、その恩師のお陰でアルザスでの3年間で学んだことも多く、そしてその恩師の教えで、その後もヨーロッパをフラフラ生き続け、そのお陰でまた20代になってアルザスに戻って来たのだ。
いつも一人で廊下をフラフラ歩く私に先生は
「お前はいつも一人でフラフラしているから、このままヨーロッパでジプシーのように生きろ。」
と言った。そして本当にそんな生き方になってしまった。
人との出会いは本当に人の人生も変えると思う。どこで何をしたのか、どんな人生を送ったのか、という環境も大切だけれど、私はこの学校で出会った国語の先生のお陰で、今の人生を生きていると思っている。
私は12歳でアルザスに単身で来た、というのはアルザスに来たから今の自分が形成された部分はあるものの、元々、12歳でアルザスに来てしまうような、ちょっと変わった性格をしていたんだと思う。
そして、そんな変わった子だった私はちょっと周りとは浮いている時があった。そんな私を受け入れてくれて、私の進む道にいつも背中を押してくれていたのがこの学校で出会った恩師だった。
ただし、実はこの恩師は私の担任でもなく、その先生のクラスも人生でたった1時間しか受けたことがなかったのだ。それでも、たまたま私がいつも一人で廊下をフラフラしていた私を見つけて、気にかけてくれていた国語の先生がいた。それが今の恩師であり、12歳という幼い歳で外国に来てしまった私にとって、この恩師が私にとってはある意味人生の恩師であり、相談相手であった。ただ残念ながらこの恩師はこの学校で働いていたのは1年だけで、その後日本に帰国してしまった。それでも、その後もずっと何かあるとその恩師に相談し、今でもその恩師とは交流がある。
日本では、「親ガチャ」なんて言う言葉があり、子供は親は選べないし、学校の担任の先生は選ぶことはできないけれど、学校という環境でたとえ担任の先生でなくても、その先生に授業を教えてもらうことはなくても、「先生」として出会った人の中に自分の人生において大切な存在である人に出会うことがあると言うことも教えてもらえた。
想像していなかった未来
そして、私はこのNOTEの自己紹介にもあるが、その後様々な国を移住し、そして、言語博士になり、海外ノマド暮らしをしている。資格もあって、日本語、フランス語を教えることができ、大学講師などをしている。12歳で海外に出た時には想像もしていなかった未来になった。
結局、私は
日本で生まれて➡12歳でフランスに行き、そこから➡また日本に戻り日本➡イギリス➡フランス➡イタリア➡日本➡イギリス➡フランス➡日本➡フランス➡ベトナム ➡フランス➡ベトナム➡フランス➡ベトナム➡フランス➡?
と移住をしながら生きている。そして、私は現在でも一応居住地としてフランス、アルザスに住んでいる。
海外暮らしは何年住んでも、そしてここにそれからもここに住もうと思って住んではいるが、結局色々な諸事情で様々な国を転々としている。それは実際はそんな簡単なことではない。
しかしながら、今となれば、もちろん私にとってアルザスは第二の故郷でもあり、ここにいることで「家(HOME)」を感じるが、それでもここでの生活が決して楽ではないこともある。
全てはこアルザス成城学園成立に関わった国語の先生のお陰もあり、そしてその先生との出会いも、私が想像もしていなかった未来へと導いてくれたきっかけだったと思う。
幼い時に、もしも自分の親に頼ることができなくても、もしかしたら「先生」の中で自分が頼れる「保護者」に出会えることがあるということも、知ることができた。その経験が今の私の人生にもとても影響していて、私はその後ずっと後に「先生」という職業に就いたが、自分の「学生」に対して、何があっても彼らを「守る」立場でいたいと思って仕事をしていた気がする。それはきっと私自身が体験した恩師との出会いが関係していると思う。
そして…ここまでも想像していなかった未来が訪れているが、この先、もしも自分のやりたいことができるなら、自分のこのちょっと変わった人生や、アルザス成城学園という特殊な学校のこと…文献や本としてちゃんと書いて残しておきたいと思っている。
フランス、アルザスにあった日系全寮制学校ワークショップでの発表
最後に…せっかくなのでこの学校について発表した内容と共に学校のことを書いておこうと思う。
アルザス成城学園で得たものは?
他の元生徒からの意見も…
①「学校の外に出ると日本語が通じない環境で、言葉が通じなくてもなんとかなる、という度胸がついた。「言葉が通じなくてもなんとかなる」言葉ができる方が良いが、コミニケーションは言葉だけじゃない、という度胸がついた。」
“I developed communication and understanding skills, not only language skills.”
②「外国でも日本でも誰とでも物怖じしないで話せるようになり、どこでも寝られて、何でも食べられるようになったこと。どこでも生きていけるようになった。」
“I can communicate with anyone, anywhere, even when I do not speak the foreign language well.”
③「フランス語ができるというより、
外国の人とのコミニケーション力が培った。」
“I could develop communication skills with foreigners, but it does not mean I developed French language skill.”
最後にLYCEE SEIJO D’ALSACEとは?
①It was a small Japanese society in Alsace (France).It was not the best place to learn French language and culture. Students had not much contact with local people.
そこはフランス、アルザスにある小さな日本社会だった。フランス語、フランス文化を学ぶのに最適な場所とは言い難い。
②Teachers thought that there was enough contact with local people to learn French language and culture. However, students thought that they did not have much contact with local people and they could speak only minimum French for the communication.
現地の方との交流は少なく、フランス語を話す機会も少なかった
③Students could develop the skill of living in a difficult environment, and skill of surviving in a foreign country
海外での生活適応能力、異文化での生活能力を養った