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(58)頭山・音・長井の消息/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
1946(昭和21)年6月、坊屋・益田・山茶花が集結してあきれたぼういずを再結成した。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【映画出演】

7月16日の東京新聞に、理研映画「お好み演芸会」二巻の広告が出ている。
飛行館でのラジオ放送の様子を映像に収めたもので、あきれたぼういずの名前もある。
「近日公開」となっており正確な公開日は不明。
あきれたぼういずは6月12日に一度ラジオ放送をやっているのでこのときの映像だろうか。
舞台公演の様子が映像で残された貴重な資料である。

12月1日には松竹映画「のんきな父さん」が公開される。
飛行館の「お好み演芸会」を除けば、戦後最初のあきれたぼういず出演映画となる。
続けて、同じく松竹映画「満月城の歌合戦」にも出演。
監督も二作ともにマキノ正博。

東京新聞1946年11月29日

この年の秋に、あきれたぼういずを生んだ浅草花月劇場が舞台興行をやめて洋画専門の映画館に転向。名前も「浅草グランド」に変わる。
同じく横浜花月劇場も映画館「横浜グランド」になった。

【第3次あきれたぼういずはフリーで活動】

終戦後から、榎本健一のエノケンプロ、柳家金語楼の金プロのように、個人プロダクションをつくって活動する芸能人が増えている。
あきれたぼういずもそれに倣ってか、大手興業社に所属せずフリーで活動したようだ。

 こんどは興行会社に所属しないで、まあ、なんだナ『あきれたぼういずプロダクション』みたいな芸能社をわれわれがつくって、そしてマネージャーをつけて活動するっていうシステムにしたわけだ。
 あたしに益田喜頓、山茶花究の三人、そしてマネージャーとして倉石金太郎、東出四郎そんな態勢で北海道あたりへ巡業に行ったりしたもんだ。

坊屋三郎/『これはマジメな喜劇でス』

1948年夏頃から、あきれたぼういずメンバーの出演映画広告などで、名前に「SSSS」の字が添えられており、所属事務所を表しているようだ。
これが坊屋がいうところの「あきれたぼういずプロダクション」のようなものなのだろうか。

東京新聞1948年12月31日

そのため、劇場も東宝系、松竹系、吉本系問わず出演。映画も映画会社を問わずさまざまな会社の作品に出演している。
1947(昭和22)年に公開された東宝映画「聟入り豪華船」では、川田とあきれたぼういずが共に出演。
あきれたぼういずがフリーになったおかげで、川田とも映画・舞台で共演できるのは嬉しい。(※)

(※)ただし、1947(昭和22)年頃までは、坊屋や益田は日劇(東宝系)、山茶花及びあきれたぼういずとしては常盤座や新宿第一劇場、浅草松竹座などの松竹系の劇場に出ている印象である。
映画は1946(昭和21)年内は松竹映画に出演。1946年9月8日の東京新聞で「東宝映画と契約」と報じられており、以降1947年1月「聟入り豪華船」(東宝)から1948年1月「誰がために金はある」(新東宝)までは、東宝・新東宝の映画のみに出演。
1948年5月「親馬鹿大将」(大映)以降は同年12月「社長と女社員」(松竹)、1949年12月「歌うまぼろし御殿」(東映)以降各社に出演。


▶︎次回から、noteでは引き続き第3次あきれたぼういずと川田、そして有木の活動を追いかけていくが、その前に…
それ以外のあきれたぼうい、3人の戦後の消息を少しまとめておきたい。

【頭山光のその後】

元ミルクブラザースの頭山光は、終戦後は少人数編成のタンゴバンドを結成して活動している。
バンドマンに戻ったようだ。

東京新聞では、1946(昭和21)7月1日のラジオ「軽音楽」の時間に「頭山光とその楽団」が出演しているのが確認できる最初である。
以降、定期的にラジオの軽音楽の枠に登場している。

東京新聞1946年7月1日

「頭山光とその楽団」については、『中南米音楽』1957年12月号にこんな紹介が出ている。

 ヴァイオリンの頭山光を中心とメンバーで、「ロドリゲス・ペニャ」のテーマ音楽で当時、タンゴ・ファンに親しまれていた。現在オルケスタ・ティピカ・ブェノスアイレスのマエストロ、伊吾田勇三も、かつて在団したことがあり、現在も昔からの職場である西銀座のカリオカ・クラブに出演中である。

蟹江丈夫/「タンゴ・エン・ハポン戦後十二年」

文中の「当時」は1949(昭和24)年のこと。
また、さらに後の資料ではあるが、『音楽年鑑』(昭和34年版)にメンバー一覧が載っている。

リーダー頭山光、浅井兵太郎、岡崎嘉雄、藤達夫、市来泰郎、高木昭雄、佐藤晃、佐藤英明

昼はラジオ出演の一方、夜はキャバレーで演奏していたようだ。
1947年2月11日、邦人専用キャバレー「新興」ダンス講習会の広告に、伴奏楽団として頭山光楽団(新興専属)が載っている。
8月末には「キャバレー美松」の9月の豪華バンドとして頭山光タンゴアンサンブルが出ている。

また、1950年12月、日劇「スヰング実演フェスティバル」に頭山光とその楽団が出演。
バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ、南里文雄とホットペッパーズ、東京キューバンボーイズ、デュークオクテット等々の壮々たるメンバーに名を連ねている。
その後も、翌1951年2月「マエストロ・スヰング」3月「古界のタンゴ」と続けて日劇出演。
ジャズも解禁され、進駐してきた米兵達の需要もあり、かなりの数の楽団が活動していたことと思うが、頭山達はその中でもかなりの実力が認められていたのだろう。

東京新聞1950年12月10日

その後は、日本音楽家連合会の理事長として音楽家達に世話を焼いていたようだ。

「音楽舞踊トピック」頭山光
 いわゆるミュージシャン・ユニオンの理事長としてジャズやタンゴの忙しい音楽家たちを“老兵は死なず”のモットーで日夜面倒を見ている人である。

『週刊娯楽よみうり』1957年3月15日号

【音楽男、長井隆也の消息】

あきれたぼういず解散後もしばらくは新興演芸部で活動していた音楽男、長井隆也の二人。
戦後の経歴については不明なところが多い。

音について唯一見つけられたのは、1946年5月、京都松竹劇場での「オリヂン座」初公演である。
オリヂン座は「世紀の音楽劇団」と煽り文があり、戦前の吉本ショウなどのような音楽ショウをやっていたようだ。

まず1日からの初演は島公靖作「ハワイ・ローマンス・ワイキキの花嫁」、音楽担当が「星野信二ハワイヤン・バンド」とある。
音の本名が「星野伸二」なので、字は違うが同一人物だと思われる。
この公演では以前新興演芸部であきれたぼういずと共に活動したボーイズグループ、あひる艦隊やハット・ボンボンズも共演している。

二の替り(11日から)は「星野信二と楽団ブルウ・リボン」とバンド名がついており、また「音楽男・藤間林太郎特別出演」と「音楽男」の名前も記載されている。
(藤間林太郎は俳優。藤田まことの父。)
プログラムはオリヂン座のオリヂン・ショウ「港のロマンス」(島公靖・作)と、俳優・佐野周二の実演。

京都新聞1946年5月11日

三の替り(21日から)は実演が佐分利信に変わり、三部構成のプログラムのうち第二部が「星野信二と楽団ブルウ・リボン」による「朗か放送」(一幕)となっている。

京都新聞1946年5月21日

つまり、音は自身のハワイアンバンド「星野信二と楽団ブルウ・リボン」を組織して「オリヂン座」のショウバンドなどとして活動していたらしい。
6月からは京都松竹劇場の広告に名前がなく、別の劇場へ移ったようだ。
あきれたぼういず当時のように関西の松竹系劇場を廻ったのだろうか。
引き続き調べてみたいと思う。

長井は、田端義夫のレコード「かえり船」(1946年)、「街の伊達男(ズンドコ節)」(1947年)でギター演奏としてクレジットされている。
(どちらの曲も複数種類の盤があり、「かえり船」の演奏者に長井の名前がなかったり、「街の伊達男」は長井が編曲者としても記載されたもの、田端義夫が編曲のものなどがある。)

ギター奏者として活動していったようだ。

雑誌『週間平凡』(1979年7月5日号)の「芸能人告知板」というコーナーで坊屋が、「あきれたぼういずでいっしょにやっていた仲間、長井隆也さんと星野伸二さん、いまどうしていますか。」と二人の消息についての情報を求めている。
何か返信はあったのだろうか……。


【参考文献】
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『近代歌舞伎年表 京都篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1995
東京新聞/東京新聞社
京都新聞/京都新聞社
『週間平凡』1979年7月5日号/平凡出版
『週刊娯楽よみうり』1957年3月15日号/読売新聞社
『中南米音楽』1957年12月号/中南米音楽
『音楽年鑑』(昭和34年版)/音楽之友社


▶︎(次回3/17)あきれたの活躍それぞれ

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